忍者ブログ

みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
MENU

新しいやつ

  • Home
  • なんでもない

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


*きまぐれ索引(か〜こ)*

《か行》(懐古厨――覚悟――過去を振り返る――過熱する――教養――クロスオーバー――ごった返す――。)




【懐古厨】(かいこちゅう)――新しいものにも古いものにもそれぞれの良さがあると分かっていながらも、どうしても古いものにバイアスを置いてしまう人のこと(蔑称)。

 「どうして古いものにバイアスをかけてはいけないのか」「どうして新しいものの価値をわざわざ見出さねばならないのか」「新古の価値判断においてフェアになることの、いったい何が良いことなのか」「私が新しいものの価値をわざと見出さないことで、あなたが被った害はどれであったか、ひとつでも挙げよ」という議論を無視して、相手を否定したいときによく使われるため、自嘲以外の目的で使用すると頭が悪うに見えます。
 「(特に子宮や幼少期に出会った素敵なものなどの)懐かしいものは、人生において全肯定される」というバイアスは、なんだかんだ言って当たり前のことですが、それを表に出すと理不尽に殴られてしまう時代になったのかもしれませんね。

自分はとんだ懐古厨だと自嘲しています。(私きっと距離と空間のあるものが好きなのだわ!)
(好きなもの の ひみつ / ネコ)

【覚悟】(かくご)――あらゆる欲望や混迷を眠りにつかせ、歩むべき本当の道を見つけた状態のこと(仏教用語)。

 要するに、どうすればよいかを<あきらめる>(明らめる)ということです。そこから、明らかになった心構えのことを「覚悟ができている」などといいますね。

こんなありふれた結論しか出てこないのかよとぶんなぐられる覚悟で書くけれど、どうやらぼくに必要なのは ― 「新しいことをとにかく知ろうとしてみること」だったのである。あ、いや、ぶんなぐらないで!
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)

【過去を振り返る】(かこをふりかえる)――過ぎ去ったことを思い返して、自分の経験として噛みしめること。

 「振り返る」という表現が、なぜ「思い返す」(思い出す)ことになるのか――私の仮説ですが、思い出すというのは「心的」な行為であって、心のなかで完結するけれど、振り返るというのは「身体と心」のどちらも方向を向け直すという意味があるように感じます。
 「思い出す」「鑑みる」「省みる」「回想する」などは、主観・客観の違いはあれど(つまり距離感の違いはあれど)、どれも心的な動作に収まっており、身体(つまり存在としての姿勢)を動かそうという試みがみえません。しかし、振り返るというのは、存在を「賭けて」する行為なのだと思います。
 だから、振り返るというのは、「経験を噛みしめる」ことを前提にしていると思い、そういう語釈を書きました。

私は何を断念したんだろうと過去を振り返りながら考察していきました。
(復讐 / めがね)

まず、お話をしていく過程で何故このような結論に至ったかという道筋の中で、僕のことを振り返ってみる必要があります。
(同上)

学生時代を振り返ってみると、ゲームセンタに行ったりだとか、カラオケに行ったりだとか、公園でカップラーメンを啜りながら語らったりだとか、一緒にお好み焼きをつついたりだとか、寄り道が多かったように感じます。
(帰り道というショートショート / めがね)

【過熱する】(かねつする)――必要以上に熱くなること。「superheating」の訳語。逆は「supercooling」(過冷却)。

 もともとは、液体が沸点を過ぎても沸騰しないことを意味しており、それの比喩として「熱が必要以上にあること」を意味します。あくまで比喩なのですが、多くの辞書では、「必要以上に熱くなること」が第一の語義とされております。
 この比喩がうまくないのは、「液体のままである」という点を表現できていないところだと思います。そんなこと気にして使う人はほとんどいないので大丈夫かもしれませんが、普段から「過熱」を元の化学的な意味で使用している研究者などと、うまくコミュニケーションできないこともあるかもしれませんね。

報道は過熱し、『私以外』の人々を巻き込んでいくのです。
(復讐 / めがね)


【教養】(きょうよう)――日本でしか通用しないような衒学趣味に近い知識の塊。

 ラテン語の「humanitas」(人間性)あるいは英語の「culture」(知的素養)から来ていると考えられていて、たぶんどちらの意味もあります。基本的には「教養がない」という意味不明な基準で人をバカにするときに持ち出され、相手の非専門性や無関心を高みから否定することができます。
 また、広くは「学びの幅」の意味を持ち、たとえば大学に入ったばかりの新入生が「どこに何の情報があるか知らない状態で、手探りと手持ちの知識のみで必要な知識を構成していく姿」も教養だといえるかもしれません。

いつだったか「ストックの教養もいいけれど、案外フローの教養も大切だ」と言った友人がいて、彼の言いたかった文脈とは違えど、まったくその通りだなとじわじわ感じる。何かを知ろうとして、学ぶ姿勢を見せると、それがたった1週間や1ヶ月のことでも、不思議なほど生活が「学ぶ」ということを中心に回り始め、そんな雰囲気が滲み出るものなのである。
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)

【クロスオーバー】(くろすおーばー)――[crossover]重複する部分。複数のレイヤー(層)が交差すること。

 狭義では「クロスオーバー作品」(Fictional Crossover)といい、それぞれ独立している物語同士が、ひとつの文脈のうえで交わることをいいます。アメリカのコミックでよく使われる手法で、日本では原作再現型のクロスオーバーで有名な『スーパーロボット大戦』、この間は『大乱闘スマッシュブラザーズ』で、マリオ(任天堂)・パックマン(ナムコ)・ソニック(セガ)・ロックマン(カプコン)というクロスオーバーがありましたね。
 「園児のために乗り物を紹介するビデオ」にアンパンマンとかバイキンマンが出てくるのが、すごく好きだった思い出があります。そういうのが《ダブり》の原体験だったような…。

別々の物語がクロスオーバーした時なんかはそれはもう興奮ものでした。
(帰り道というショートショート / めがね)

【ごった返す】(ごったがえす)――ごたというのは、ゴミや泥がまみれていることや、それを抽象的に混沌として表現する語。ごちゃとも発音します。

また、どうでもいいことではあるが、案の定私の部屋もものがごった返している。これは幼少の頃からなので、もうどうしようもない。「研究室っぽくていいじゃん」ということで、本などの書類に関しては床に積み上げるという手段をとっている。
(恩師の教え / ドーナツ)

拍手

PR

*きまぐれ索引(あ〜お)*


《あ行》
アイスブレイク――愛嬌――アルミ――因縁をつける――打ちひしがれる――馬が合う――演繹――。


【アイスブレイク / 打ち解ける】(あいすぶれいく / 打ち解ける)――集団を結束させるためにお互いの関係を開通させるための柔軟運動(a facilitation exercise intended to help a group to begin the process of forming themselves into a team)のこと。

 「氷を割る」というのは比喩ですが、お互いの緊張を緩和するという狙いを持ったアクションのことを言います。基本的には、ふざけた冗談とか、自分の恥ずかしいことを赤裸々に告白したりすることが求められており、初歩的なものでは握手とか笑顔だったりするものです。
 打ち解けるという言葉ですが、中国語の辞書には「13:打――建造(build)」とあります。たとえば、うどんを"打つ"(=作る)とか、船を"打つ"(=造る)などが日本にも入ってきていますね。もうひとつ中国語に「動詞を強調する」ための語法として「打つ」を使うときがあります――「打開」「打破」。
 これらの中国語の用法から、「良い関係を作って理解をする」や「本当に本当に理解する」という意味で、「打ち解ける」と言うのかもしれません。

最近、就活やインターンの情報を探していて、よく目にするのが「アイスブレイク」という言葉。その言葉に連想するイメージ通り、初対面の相手との間にある冷たい緊張・氷を壊し、打ち解けるようにする活動のこと。この法則は、そんなアイスブレイクの1つでしょう。
(ないすとぅーみーとぅー / ねぎとろ)


【愛嬌】(あいきょう)――もともとは「愛敬」(あいぎゃう)と書き、読んで字のごとく人から好かれたり、敬意を払われたりする人間性のこと。そこから「かわいげ」に意味が特化していき、「なまめかしさ」を示す「嬌態」の字を使用。

 「愛想」は(よいとかわるいとかの)評価であり、「愛嬌」は(あるとかないとかの)属性です。愛想なのか愛嬌なのか見抜くには、なかなか骨折れかもしれません。その証左として、「愛嬌をふりまく」という言葉が、「愛想をふりまく」と誤用されておりますね。
 愛嬌というのは、人間的な《隙》のことを言うと思います。だれかがだれかに愛嬌を認めるとき、それはストイックさとか合理性(隙の無さ)とかではなく、むしろ「自分のために残されている余地」があれば、好意を抱くことができるでしょう。

余裕も愛嬌もある「ら」の音を、いつでも呼びたい。
(調音点で活躍している音の群れ / らららぎ)

【アルミ】(あるみ)――13番の元素。

 マテリアル工学という「素材」の学問では、素材の特徴を端的に挙げていきます。たとえば、アルミニウムは、(1)軽い――鉄の35%。(2)強い――強度が高い。(3)耐食性が高い――酸化皮膜が表面にあるので腐りにくく、鉄のような赤錆が生じない。(4)加工しやすい――本文に出てくる「展延性」というものです。(5)美しい――白と銀の輝きを持っていて、それが長時間保たれるし、加工によってさらに輝く。(6)融点が低い――比較的に低い温度で溶けるので、リサイクル(マテリアルリサイクル)しやすい。(7)導電率が高い――比較的に軽い重さで電気を流せる。などなど、書いてたらキリがなくなるほど特徴があります。
  今年の1月には、外車のフォードが、車を全面的にアルミニウムすると宣言しましたね。アルミニウムは軽くて加工しやすくて美しいのですが、接合するための技術が難しく――たとえば、熱しているときに酸化しやすく入熱に厳しい管理が必要だったり、溶接の順序をうまくやらないとすぐにひずんだり、フローボールができたり、割れたり、表面の酸化皮膜を作業前に取り除く必要があったり――かつ、価格が2〜3倍程度で変動するため、どうしても高級車になってしまいがちで、一般用にするのは難しいです。日本でも、1900年代の終わりあたりから、部品部品をアルミ化していくようになっていますね。今後に期待です。

例えばアルミホイルや金箔、硬貨などがこの展延性を利用して作られていますね。アルミや金をプレスして紙よりももっともっと薄くしたものがホイル・箔ですし、硬貨は特定の形をした金型で同様にプレスすることで、僕らが使っている500円玉や100円玉が作られていたりするわけです。
(のびる、ひろがる / こはく)


【因縁をつける】(いんねんをつける)――理不尽な理由を無理やり当てはめて、相手を脅したり、不利にしたりすること。

 因縁というのは、仏教で「因縁生起」とよばれ、あらゆることには「直接的あるいは間接的な原因」があり、それらがすべて関わり合いながら生じるという考え方です。その性質から、割りとむちゃくちゃなことを言うのが仏教人で、たとえば「牛が人間にひどく扱われるのは、前世でよくない行いをしたからである」のように超越的な結びつけをすることがあります。
 「いちゃもんをつける」「超越的に理不尽に結びつける」「こじつける」(故事などの過去の――架空の――物語をあてはめる)など、外部のロジックを利用することは「つける」という動詞で表現されるみたいですね。付けるというのは、「合わせる」という恣意的な行為ですから、確かにぴったりの表現に思えます。

理由はなんだったか覚えてはいませんでしたが、中学生の時には良くわからん理由で因縁をつけて殴られたり、学ランをトイレで水浸しにされたりなどがありました。
(復讐 / めがね)


【打ちひしがれる】(うちひしがれる)――精神的に参って落ち込むこと。

 もともと「菱」(ひし)という葉があり、その実がつぶれたような形をしているから、「ひしぐ=つぶす」というようになりました。また、「ひしぐ」(拉ぐ)という漢字があてられたのは、中国語で「拉」は「摧」であり、「折って断つ」という意味だったからでしょう。(「打つ」については、【アイスブレイク】の項目を参照してください)。
 「潰される=打ちひしがれる」という受け身で使うことがほとんどで、その主因となるものをもってきて「絶望に打ちひしがれる」「悲しみに打ちひしがれる」と使うようです。
 「失意に打ちひしがれる」というのは、「がっかりすることでへこんだ」という微妙な表現になっていますが、意味は通用するし、おそらく「絶望に――」のパラフレーズでしょう。検索にもいくつか当たります。

時に大学で言われたことを思い出し、失意にうちひしがれながら歩く日もある。
(歩いて帰る道 / ドーナツ)


【馬が合う】(うまがあう)――意気投合する様子。やさしい馴化。全体的な馴良さ。

 馬といえば、BMWのことを「宝馬」と表現するぐらい馬と文明が密接に関わっているモンゴルや中国(馬のつく語が300程度ある!)ですが、私の調べた限りでは日本独自の表現のようです。そもそも彼らは「合う」というよりか、馬の耳をひっぱって無理やり跨って「格闘するようにして飼い馴らす」ので、こういう表現が生まれないのかもしれません。基本的には、馬のように「クセのあるもの」との相性のよさをいうときに使うようです。

ただ一緒にいるだけで心地良いだとかこの人と一緒にいる空気感が好きだとか、単純に馬が合うだとかそういった関係性の人々だと私は思っています。
(帰り道というショートショート / めがね)

【演繹】(えんえき)――いまある理論や前提を、ある何かに当てはめてみて、結論を予測する判断の仕方のこと。

 たとえば、「人間は必ず死ぬ」(いまある理論)→「私は人間である」(理論を当てはめる情報)→「だから、私は死ぬ」(結論を予測する)みたいに考えることを原則的に「演繹」といいます。形式論理学とか数式論理学という学問の範囲なので、興味のある方はお調べください。難しそうな記号たちが難しそうな顔で待っております。

もちろん法則というのは演繹的だから、(いつだってそうなる保証はないため)一回一回の適用がギャンブルになるけれど、
(人を呪わば穴二つ - シャッフルされる主語 / らららぎ)

拍手

× CLOSE

ブログ内検索

× CLOSE

Copyright © みんなでしんがり思索隊 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]