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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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そんな昔のことは忘れたね / 著者:ちくわ - ch3

こんにちは、ちくわです。「もういちいち名前書かなくていいよ、タイトルにもあるんだからさぁ!」ひぃぃ、申し訳ない、そうだよね、でも今回ばかりはそうもいかないのだ。何しろ今回の「きあずま」は「アカウント名の由来と自分について語る」というものだからである。というわけで、ちくわが、私のハンドル。ちくわんとか、ちーくんとか、ちくたんとか、いろいろな派生したニックネームがあって、そのどれもなかなか気に入っている。さて、ちくわにまつわる話は、大きく分けて二つの時代に分かれることになると思う。同時に「私についても語る」ことになる関係上、あまり愉快な話にはならないだろうけれど、お暇な方は、おつきあいくださいませ。


「何で名前がちくわなの?」という質問は、それなりによく訊ねられる問いだったりする。少なくとも、好きな数学の公理を訊かれる頻度よりは高いだろう(ちなみにぼくの好きな公理は「空集合は存在する」である)。ところがこの”Why are you Chikuwa?”に対して、相手が期待しているような答えを返すことがぼくはできない。できないのだ。引っ張る話でもないので結論をいうと、要するに、なぜちくわという名を思いついたのかぼくも覚えていないのである。

SAPARi(さぱり)というアバターチャットをご存じの方がいるだろうか。いたら今ごろ画面のむこうでニヤニヤしておられるんじゃないかと思う。ソニーが運営していたもので、確か当時のVAIOには、そのチャットに参加できるブラウザがあらかじめインストールされていたのじゃなかったかと思う。今では似たようなサービスがたくさん存在しているのでどんなものか想像がつくと思うけれど、人間や動物なんかのキャラクターを操作して、仮想空間を動き回ったり、ほかの利用者とチャットで会話したりできるというもので、ともかく、小学生のぼくはその空間がとても好きだった。世はまさにブロバン黎明期、ウェブなどをぼくがようやく動き回り始めた頃ともほぼ同時期だったはずなので、まだ新鮮な「インターネットとの出会い」という部分でも鮮烈だったのかもしれない。とはいえ、そんなにずっとそればかりやっていた記憶もないので、「ハマっていた」のはそれほど長い期間ではなかったのだろうと思う。そのときぼくは「ちくわ」ではなく別のハンドルを使っていたように思うけれど、なんにせよチャット好きなマセた小学生だった。しかし、楽しい時間は長くは続かないもので、大人の事情でサービスが終了してしまい、涙することになる。

初めて「ちくわ」が使われたのは、それからしばらく経って、ドラえもんのファンサイトのチャットに入り浸るようになったときだった。どうしてドラえもんのファンサイトに入り浸っていたのかは今となっては定かではないけれど、あの頃はドラえもんファンサイトというのがちょっとしたクラスタをつくっていたのだ。ドラえもん一味。ちょっと違う。ともかくそこで、どこかのタイミングで、ぼくは「ちくわ」を名乗るようになった。どんなきっかけだったのかが、残念ながら思い出せない。ただ、いつも「こんちくわ~」とか挨拶していた(そういえば、定番の挨拶で「こん」とかあったけど、今でもどこかで使われているのだろうか・・・)との証言があるので、そのあたりが由来なのかもね。子供の考えることはよーわからん。ともかく、干支がひと回りしてしまうほど昔の話である。

その頃からずっと「ちくわ」を使い続けているのかと言えば、そんなこともない。しばらくは、ドラえもん以外にもコナンのファンサイトなどでまれに使っていた記憶がある(ウェブリンクだの、キリ番おめ!だの、バナーは直リン禁止!だのあった時代)けれど、ランドセルも窮屈になり始めたころ、あるときからぱったりとコテハン(固定ハンドル)を使わなくなった。めっきり、ぱったり。その頃はマジックとミステリィにはまっていて、奇術関係、推理小説関係のサイトを巡っていたように思う。

中学に入り、ネットは少しずつ学校の友達とのコミュニケーションにも使われるようになる。携帯は持っていなかったので、パソコンで、誰かが用意したチャットルームを使ってくだらないことをしゃべっていたり、今となっては黒歴史なのか何なのかもよくわからない学校裏サイトと呼ばれたようなあれ(裏という表現は完全に一方向から見た言い分でしかなくぼくたちにとってはあれが表だったわけなのだけれど)を覗いたり。そこでは本名あるいは本名をもじったようなハンドルを使っていたので、ちくわが出てくることはなかった。それ以外では、せいぜい掲示板に匿名の投稿をするくらいで、狭義のネット社会で自分を表現するということはしばらくなかった。あ、いやそんなこともないか、あれがあったな、完全に黒歴史だけれど、キャスフィとかいう学生ポータルサイトで、恋愛相談してたりした(大爆笑)。どんなハンドルつかってたか忘れたけど、ちくわではなかった。あとはあれか、相手自由のドリーム小説を探して相手のところに自分の名前を入れt・・・もうやめよう、これはぼくの黒歴史を出し尽くすための記事じゃない、やめよう、やめよう。はい。ぼくは、すごく普通の中学生だった。はい。ほかはニコニコ見てたりとか。うーん、すごく普通の中学生である。あ、でも、ニコニコ γ 世代なんだぜ(ときどきしたくなる自慢)。中高一貫の学校に通っていたので、どこから高校だったかよく思い出せないけれど、まぁともかく、高校に入ってもしばらくは、変わらないネット生活を送っていた。「ちくわ」再登場には、あと数年お待ちいただくことになる。


ぼくのネット生活の転機となったのは、高校三年生の五月頃である。その頃のことを思い出そうとすると、どうにも複雑な気持ちになる。というのも、その直接の出来事が、それほど明るい話題ではないからだ。2010年の春から夏にかけて、南九州の某県で流行した口蹄疫という伝染病のことを、覚えているだろうか。伝染病といっても、人間のものではない。牛、豚、水牛などの、家畜の伝染病である。防疫措置として多くの家畜が殺処分され、7月の終息確認時点で、その数は29万頭近くにおよんだ。ぼくと同世代か、あるいはそれ以上の年齢の方であれば、九州から離れた土地の方もテレビの報道などで記憶に残っているのではないだろうか。

ぼくはあの口蹄疫流行当時、まさにその南九州の某県 ― 宮崎県にいたのである。といっても、ぼくが住んでいたのは宮崎市内の、市街地の近くであったので、直接家畜の様子を見たわけでもなければ、家庭の生活の深い部分が直接の影響を受けたというようなこともなかった。けれど、あれはぼくにとっては単なる新聞記事上の出来事ではなかった。

ともかく、まずは話が逸れすぎる前に、当時のぼくのネットへの関わりについて淡々と記しておこう。ぼくが口蹄疫についてきちんと知ったのは ― なんて、本当に馬鹿げた表現である、「きちんと知る」なんてことが有り得ないと身に染みてわかったのが、あの出来事だったのだから ― ぼくが口蹄疫について「世間に流れている程度の事情を把握」したのは、ゴールデンウィークが終わるか終わらないかのころ。どうやら、宮崎が大変なことになっているらしい、ということ。そして、県外のマスコミはそれを大きく報道していない、という噂もネット上でまことしやかに流れていた。今にして思えば、それが正しかったのかどうか、もう確かめる気力もないけれど、そのときのぼくはとにかく情報が集めたかった。そして、得た情報を一個人として伝える術が欲しかった。そこで始めたのがTwitterだった……と、簡単にまとめるとこういうことである。当時はちょうどTwitterが世間に知られ始めた時期で、個人が発信する「リアルタイムに近い情報」を載せる場所としてそれなりに使われ始めていたのである。口蹄疫のことを調べ出してから、一週間後か、十日後か、そのあたりだったように思う。そこでハンドルとして選んだのが、「ちくわ」であった。7年だか8年だかの時を経て再びこの名前を使おうと思ったのは、少しでも情報を拡散したいがためであった。上にも書いたように、ぼくは小学生のころに「ちくわ」というハンドルでドラえもんのファンサイトなどで他人と交流しており、この名前で活動していれば当時の知り合いと再び交流できるかもしれないと思ったのである。そうすれば、「世間の人が知らない口蹄疫の情報」を伝える場所がひとつでも増える、と。Twitterのアイコンがブタである理由もときどき訊かれるが、これも同様である。このときに次々に殺処分されていった、あの豚なのだ。

総じて、苦い記憶である。口蹄疫そのものも痛ましい出来事であるけれど、さらにそれを取り巻いていた状況は今となっても、今になればこそなおさら、曖昧なままである。結局、何が正しかったのか、誰が悪かったのか、いや、そのような白黒思考の悪者探しこそが問題であったのか。ぼくはその年に受験を控えていて、終息後はどうしてもこの話題を常に調べ続けるということができなかったということもあり、今もぼくの頭の中には整理されないまま情報が散乱している。こんなに後味の悪い話は無い。

しかし、もっとも苦々しく感じているのは、そういったことよりもむしろ、自分自身の行動そのものである。18歳というのは、言い訳に使えるほど幼い年齢でもないだろう。そんな18歳のぼくのとった行動のひとつひとつが、とても苦々しく思い出されるのである。ネットの情報に踊らされ、毎日「情報収集」「情報拡散」と称して正しいのかどうかも分からないデータをバケツリレーする。学校に行けば自分の「情報」を他人と共有し、昼休みに弁当を食べながら熱心に「議論」する。政府からの援助が足りないと思い込めば、支援を求める署名を集める。作業場でバスタオルが足りなくなり、全国中から集められたバスタオルを整理する仕事が必要だと聞けば、友達を引き連れてその整理のためのボランティアに向かう。まったく、本当に……ばかみたいだった。

あれだけやっていれば、いくつかは、正しい行動だって含まれていたかもしれないけれど、しかし、それでも、本当に何もかもが幼かった。あんな大惨事が起きていながら、ぼくはどこか得意になっていた。自分は世間の知らない正しい情報を得ていて、それを使って行動ができるんだと信じていた。ネットがついに世界を変えると思った。自分が何かを変えられると思っていた。本当は何が起こっているのかなんて、きっと見ていなかった。今にして思えば、どうだったのかわからないことだらけだ。何が正しかったのかなんて、わからない。ぼくは当時の知事のやっていることを疑っていなかったけれど、振り返ってみれば問題のある行動だってあったように思う。ネットの情報は感情論に流れるきらいがあっただろうし、政治的に見れば明らかに右に傾いてた(さらにいえば、事実として、宮崎県は保守的な県であった)。そもそも、何かを白か黒かで割り切ることなどできないし、世の中の床屋政談は子供が思っているほど聡明なものではなかった。そしてきっと、現実に農家の人々が直面していたものは、ぼくの思い描いていたような世界ではなかったはずだった(ぼくと同世代でも、ぼくよりもそこに近い位置にいた人たちとその後会うことがあり、ようやくぼくはそんな単純なことに気付かされ、ようやく足場を崩した)。

ぼくが未だに政治的な ― 時事的な話題から距離をおいているのはそのためもある。もともと時事問題に対する心理的抵抗というのは中学生くらいからあったように思うけれど、あの出来事は直接のダメージであった。自分で何が正しいのかを見極めるなんてことが、果たして自分に可能なのか、また何かに踊らされるだけじゃないのか、そんな諦めというか、逃げがある。2010年の口蹄疫流行は、関係者にとっては直接のさまざまな傷を残す”事件”だっただけに、外野とも内野ともつかない位置で自分が浅はかな行動をしていたという事実が、どうしようもなくぼくを自己嫌悪に陥らせるのである。


ともあれ、そのときからちくわをずっと使い続けていることになる。Twitterを今のように、他人とのコミュニケーションの1ツールとして使うようになるとは(そしてこんな共同ブログまでその名義で立ち上げることになるとは)、当時は考えてもみなかったけれど、連続的にそのような使い方に変わっていったために、ちくわというありふれたハンドルも使い続けることになった。事実として、ちくわという名前でTwitterを始めたことによって、本当に様々な人と出会うことになった。災い転じて福となしたわけでもなく、不幸中のなんたらでもジンカンバンジなんとやらでもないし、こんなことを最後に書くのは(そのきっかけを考えてみれば)どこか冒涜的であるとは思っているのだけれど、書かないわけにもいかないのでこれは書いておくことにする。とにもかくにも、「ちくわ」が存在しなかった場合の今の生活というものが、想像がつかない。きっとそのあたりの話はいずれ書くことがあるだろうから、今回は何も具体的には書かないが、その意味でも「ちくわ」の再登場は大きな、あまりにも大きな転換点であった。


今回も長くなってしまったけれど、そういうわけで、ぼくがなぜちくわという名前を思いついたのかは、思い出せない。そして、ぼくが何故ちくわという名前をいま使っているのか ― なぜ再び使い始めたのか ― に関しては、思い出して楽しい記憶ではない。とはいえ、いつまでも目を逸らし続けていていい記憶でもないだろう。何度も思い出して、いつかそのブロックを壊せる日が来ると良い。様々な事情によってこの名前を使い続けることになったけれど、案外、この記憶をときどき思い返せるようにと世界の意志がそうしたのかもしれない、いやそんなことはないと思うけれど、ともかく、心に留めておくようにしたい。「そんな昔のことは忘れたね」では済まないのである。

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