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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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断念に関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch2

こんにちは。黒崎咲夜です。

俺の断念してきたこと。
…正直、無いんじゃないか?と言う気持ちで筆を進めております。

俺は小さい頃から、自らやりたいことはみんなやってきた、または親や周りの人たちがやらせてくれた、という恵まれた環境に居ると思います。

特に、俺の父方の祖母は、現在も自らの経済力を用いて、初孫たる俺に様々な優遇をして経験させてくれています。そのおかげか、俺は様々な経験を今年22になる歳の割りには持っているのではないかと思います。

また、俺は非常に気が強く、傲慢不遜であるので(出会って2ヶ月の大学の教授から「黒崎さんはリアル西太后だ」だと揶揄されるレベルですのでお察しください)、「この俺がやると言ったらやるんだ!」と決めたらトコトンやり通すゆえに、周りが気を遣って譲歩してくれていたのかもしれません。

自らの望みを強い気持ちで貫き通すこと】。
これまで、様々な場面で断念をしなかった理由はここにあるのだと思っています。ただし、最低限の譲歩は必要ですし、これはさすがの俺でもやっていると思います(断言はしません、そんなことできませんから)。

だけれども、最終的に譲歩をしたとしても自らが結果に納得している、ということが、「物事を断念した」という意識を消し去っているのやもしれません。

さらに、何かを成し遂げる為ならば、自らに出来る全てのことは努力し、こなしてきましたし、何か物事を成し遂げるにふさわしい人間になるよう努めてきました。ここにも、断念したという意識が無い理由があるのかもしれません。

ここまで読んでおいて、俺は「断念」というか、「挫折」というものを味わった人間じゃないのだろうか、と思えてきました。
挫折をしないと、人間的に成長しないとは聞きますが、俺の場合、それは小中高大で受けてきた「いじめに対する対抗」で挫折を置換してきたのかもしれません。

さて、最後まで読んでくださったあなたに、是非お尋ねしたいことがあります。

断念したことが無いことは幸せなことなのでしょうか。
断念したことが無いことは、不幸せなことなのでしょうか。



黒崎 咲夜 / 2014.06.22





(編集責任らららぎ)

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因果性に関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch1

初めまして、どうもこんにちは。
黒崎咲夜と申します。

とりあえずここは自己紹介よりも、まず、書きたくても書けていなかったお題の1つ目を消化していきたいと思います。しばしのお付き合いしていただければ幸いです。

俺は地元大学で西洋史学を専攻しています。また、高等学校の教員を志しており、先日まで高等学校の現場で実習を行っていました。
そんな俺は、「歴史を学ぶ者」として、「教育を行う者」として、俺が心がけていることがあります。

それは【物事には必ず理由と結果がある】ということ。
つまり、「因果性」の話なのです。

歴史上の出来事は、様々な原因が1つの結果として生み出されたもの、というのはよくお分かりかと思います。ほんのちょっとの原因であっても、その原因が存在しなければ、導き出される結果も存在し得ないわけです。

自分の行い(=原因)によって、相手の行動(=結果)が決まる。

よく、「他人は自分の鏡である」という言葉を聞きます。
自らの行動によって、相手が返してくれる行動が変わって来るからです。

例えるならば、接客業。
店員にも「ありがとう」「助かりました」などと気遣いをしてくださる、雰囲気の良いお客さんには、店員も少しでも良い風に対応しようという気持ちになることが多いです。逆に、客は神様だと勘違いしているお客さんには、店員も不愉快で上っ面ばかりの態度になりかねません。

重要なのは、相手の行動を期待する前に、自らから動く。原因をなるべく良いものとするように努力すると、人間関係や社会関係が少しは向上すると俺は確信しています。

また、この因果性の考え方は、何かを他人に説明をするときや、自ら思考を深めるときに非常に効果的、効率的に働きます

先述した通り、俺は教育者を目指しており、先日まで高等学校で実習生として活動していました。そのときに参考にしたのは、4年近く勤めている塾講師の経験です。

今までの指導において、俺の今までの教え子複数人に尋ねました。
「どうしたら、何か物事を理解しやすい?」
彼らは揃ってこう言いました。
どうしてその物事がそうなったのか、理由が分かれば分かり易い」と。

俺は、なるほどな、と思いました。

俺は幸い、頭の回転が速いらしいのですが、何か物事を習ったとき、「何故こうなったのだろう?この理由は?もしかして先日習ったあのことかな?」という因果性からなる思考をしていました。だが、この教え子たちはその「因果性からなる思考」ができないのです。

いや、今までの教育で、教えられて来なかった、と言っていいかもしれません。

ちょうど、文科省の政策で、ゆとり教育として少なくなった授業時間の中、時間の無い教員たちは彼らに対し、受験に必要な物事だけをあげつらう。子どもたちは、教員たちによって、黒板やプリントに淡々と事項を挙げられ、理由も知らずに物事の名前だけはたくさん「知識」として頭の中に入っている…。これによって、因果性を考える思考が、育って来なかった。そして、物事に因果があることを知らずに育ってしまったのでしょう。

本来は自ら因果性の思考をやることが大切です。けれども、今まで何故その物事がそうなったのかすら教えられて来なかった子どもたちに、いきなり物事の因果を考えろと言うのも酷な話です。

と言うわけで、これを踏まえ、俺は実習期間に行った6回の授業は全て、物事の原因・理由も説明しました。

そして実習を行った生徒たちにアンケートを採ったところ、教授方法についての批判や改善要求はありましたが、50人近くの生徒全員が「先生の授業は、事項の原因とか理由を説明してくれたから分かり易かった」と回答してくれたのです。

この時に確信しました。物事の因果性を考えさせる指導を行えば、必ず生徒の思考力は上がると。

…話がずれました。
ですが、人間は【物事には必ず理由と結果がある】と言うことを理解すれば、自ずと思考力や理解力は上がると言うことは分かっていただけたかと思います。

より高みへと近づく為に。
俺はこの法則を念頭に置いて、これからもさらに『思考の深淵』へと近付いていきたいな、と思っております。



黒崎 咲夜 / 2014.06.22







(編集責任らららぎ)

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自信を持つこと ― how to maintain yourself / 著者:ちくわ - ch5

こんにちは。前回の記事のラストでも名乗りましたが、長すぎてそこまで読んでねぇよって方が多いと思いますので、きちんと挨拶しますね。初めまして、ちくわと申します。今回はお題の性質上、気をつけなければ上からものを言うような失礼な論調になってしまうのではと心配になりまして、ですます調で書いていこうと思います。おつきあいください。


さっそくですが、みなさん、maintain myself という表現をご存知でしょうか。英語で「自活する」という意味なのですけれど、今回は「一人暮らし」をこの言葉に読み換えて書いていこうと思います。(そうです、これは5番目のchiasmaですね)

さて、あなたがやっていることをあなたが自分で支える(maintain yourself)ために肝心なこと、それは ― 自信を持つことです。まーたこいつは今回も平凡なことを言ってるな、と思われるかもしれませんけれど、この自信というやつ、なかなか一筋縄ではいきませんよ。自信というのは、これをやるんだここまでやるんだと自分で決めることです。より厳しく言えば、何をいつどんな手段でどこまでやれば私はそれを良しとするのか、それを《無根拠に》選ぶことなのです。これは、とてもとても難しいことです。ぼくたちは、誰かに選んでもらったことには全力で従うことができるけれど、自分で選んだこととなると途端にそれができなくなるからです。


少し回り道かもしれないですけれど、こんな話から始めさせてください。いつだったか、ぼくが書いた脚本をもとに、友達と映画を撮ったときのお話です。その脚本の中に、ぼくは小道具としてインスタントのお汁粉を登場させました。劇中でAとBがお湯を沸かして、それをカップに注ぎながら会話する、そして食べながらまた会話する、そんなシーンです。さて、撮影日になり、小道具を買い揃えるためにスーパーや薬局などを回ったぼくたちは、意外とカップのお汁粉が売っていないことに気付きました。ふーむ困った。困りましたね。どこなら売ってるかなぁ、××にあるかなぁ、などと友人は「どうやってお汁粉を手に入れるか」を考えてくれています。うーん。うーん。

ここで言っておきたいのですけれど、ぼくはべつに特別な必要に駆られて小道具に「お汁粉」を選んだわけではありません。「ちょっとココ会話長すぎんよ~手持無沙汰だし何か食べさせたいな~でも撮影のときにも簡単に作れるやつがいいな~冬だしお汁粉かな~前たべておいしかったしな~」ぐらいなんです。そういうわけですから、ぼくは二軒回ってお汁粉が見つからなかったあたりで、「まぁお汁粉ないならお汁粉じゃなくてよくね」とか考えてたわけですね。ですので結局、ぼくが妥協点を一段階下げ、スープ春雨を使うということで、とくに問題なく話は進みました。(シナリオは書き換えなかったために、役者A=ぼく本人がスープ春雨を手に持ちながら「お汁粉食べよう」と声をかけるという何とも虚しいNGをやらかした件はこの際ですから忘れましょう)

これは小さなことです、しかし似たようなことはどんな物語でも起こっていることです。なぜそのキャラクタはどら焼きが好きなのか、なぜ妹はメロンパンが好きなのか、なぜシャナもメロンパンが好きなのか。セリフに使われている言葉遣いだったり、もっと根本的な、ストーリィやプロットについてにも言えるでしょう。これらは、始めの段階では、きっとどれでもよかったのです。お互いに絡み合っているとはいえ、究極的には無根拠な選択の積み重ねによって、シナリオというものは、物語というものはできあがっています。いかに複雑に結びついた物語と言えど、それがなぜそれであったのか、ということに関してはとても恣意的なのですね。どれでもよかった、でもそれにした。小説でも、演劇でも、音楽でも、翻訳でも、何かのメディアミックス作業でも、雑誌の企画でも、ブログを書くときでも、この恣意性&いずれかを選択しなきゃいけない事態というのと出くわすと思います。多くの方から「あるある!」って頷いて頂けるのではないでしょうか。そんな皆さんのために「あるあるボタン」を用意いたしました、押してちょ。

……まぁ何も起こらないんですけれどね。ごめんね。たまには手も動かさないと眠くなるかなとかね……。で、はい、もうひとつ大事なことがあります。ぼくが「あーもうお汁粉じゃなくていいや」って思い始めたそのとき、優しきわが友人たちは、ひたすら『どこなら買えるのかなぁ』と悩んでくれていた、と書きました。つまり、彼らはあくまでもお汁粉が必要という前提を疑わずにその先だけを考えていたのです。それを見たぼくは、ようやく自分と彼らの立場の違いに思い至りました。おわかりですね、ぼくはシナリオを書く予定の白い紙がスタート地点ですが、彼らは完成された脚本がスタート地点なのです。それゆえ、脚本の内容は彼らには絶対で、それを何が何でも尊重してくれるのです。ぼくにとってはそれは変えてもいい部分なのにも関わらず、です。

ここまでの要点をまとめますと、「どれでもいいんだけれど、どれかを選ばなきゃいけないときがある」そして「他人はその私の選択を踏み台にして思考を次のステージへ飛ばす、しかし自分はそう簡単にはいかない」ということですね。


ようやく一人暮らしの話に移ります、そうですね、部屋の掃除あたりを例にとって進めましょうか。ぼくは親もとを離れて今年で四年目です。しかし……最近でこそ多少はやるようになったものの、どうにも片付けや掃除をやり始めない人間なのです。ここまではよくある話。さぁ、ここでふと考えます。ぼくは、アルバイトの職場先である中学校・高校で使った教室の掃除をするときには、なんと生き生きとした顔で掃いたり拭いたりをやっているのです。なぜでしょう。これは、その時間分も給料が出ているからというのもあるけれど、それ以前にそれが他人のためだからです。基準が他人なのです。そのときに掃除をすることも指示を受けたからですし、理由は「ここで次に勉強する生徒が快適に集中することができるようにするため」なのでどこまでやれば良いかも自ずから決まります。一人暮らしだと、こうはいきません。めがねさんが早々と書いて下さったように、一人暮らしの最大の敵は「めんどくさい」なのです。指示するのも自分、動くのも自分ですから、「掃除しといてー」「なんでー?」「しらーん」「それやったらせんでええやん」となったり、「掃除しといてー」「どうやってー?」「しらーん」「それやったらせんでええやん」となったり、「掃除しといてー」「どんくらいー?」「しr(以下略  となったりします。あと重要な問いかけは「いつー?」とかもありますね、各自いろいろ考えてみてください。

じゃあどうすりゃいいんだと言われても、どうにかして自信を持ってくださいとしか言えないのです。上にも書いたように、ぼくたちの世界には「どれでもいいんだけれど、どれかを選ばなきゃいけないとき」があふれていて、そして一人暮らしはそれのオンパレードです。全てがそれだと言っても過言ではありません。そして、「掃除しといてー」「いつー?」「今でしょ!」まで頑張って言えたとしても、その「今でしょ!」に自分で従うこと(=自分で自分の選択を踏み台にすること)がとてつもなく難しいのです。頑張ってください、としか言えません。あなたも色んな人から「もっと自信を持てよ!」と言われることがあるでしょう、彼らはそういう意味で言っているのです。いや多分そうじゃないと思うけれど、そういうことにしましょう。「自信を持て!」というのは「頑張って選んで!選べるわけないけど選んで!!」「選んだことを踏み台にして次のところへ行って!自分の腕で自分を持ち上げることなんて物理的に不可能だけど、成し遂げて!!」ということです。無理ゲーですね。「だが、難しいゲームを簡単に済ませようとする奴に、ハッピーエンドは来ない」とどっかの神にーさまも言ってましたからね。頑張りましょう、ぼくも頑張ります。

最後にひとつだけヒントというか、最近ぼくがもがいているひとつのやり方を記しておくので、参考に使っていただけたら嬉しいです。これは主に《「ほにゃららしといてー」「どうやってー?」「しらーん」》対策だと思ってください。傾向と対策。単純ですが、ここで「知らんわけないやろ、考えてみ」と返すことを習慣化するという試みです。ぼくはやらなきゃいけないときにいつもこれで「じゃあやめよ」を繰り返すタイプのクズ人間なので、これでどうにかしようと思うのです。面倒だと思っていることでも、案外次に何をするかは考えればわかるものです、そりゃ人間のやることですからね。例えばこんな感じです。

「トイレが詰まったの直しといてー」→「どうやってー?」→「しらーん」→「知らんわけないやろ、考えてみ」→「ほんまにわからへんもん」→「じゃあどうしたらいい?」→「えーと、調べたらいい」→「そうそう、はい調べてー」→「どうやってー?」→「しらーん」→「知らんわけないやろ、考えてみ」→「ぐぐればええんや!」→「そう」→「きゅっぽんがあればいいみたい」→「きゅっぽんを買ってきてー」→「どこで?」→(中略「ggrks」的なあれこれ)→「100均で売ってるみたい」→「買ってきてそこに書いてあることをやってー」→「了解っす!」→「あとは、手順通りに」→実行→解決

どっかで見たことある人もいるかもしれませんね、菖蒲さんという方がこの間ブログに綴っていた内容をもとに作ってみました。このエピソードを読んだとき、ああこれはぼくにはできない(ときもある)ことだな、と思って、心に残しておこうと思ったのです。トイレのきゅっぽんなんて、くだらない話だ、誰でもできることじゃねーかと思うかもしれませんが、一人暮らしは本当に誰でもできるはずのことの連続です。初めてのことだらけなので、それが大変なのです。ではほかの点も細かく見ていきますけれど、とくに大事なのは赤字にした部分ですかね。まずは「じゃあどうしたらいい?」で自分の逃げ道をふさいで頑張って自分と戦いましょう。そしてどうにかこうにか手順を用意できたら、最後には「あとは、手順通りに」と自分を安心させてあげましょう。手順通りにやるのなら、バイト先の掃除と同じですね。終わったあとには「そうか、私は手順通りにやればこれができるのか」になるでしょうし、それが積み重なれば「そうか、私は手順通りにやれば大抵のことができるんだ、そしてひとつ終われば次のことに取り組めるんだ」になるかもしれません。ぼくはまだまだその域には達していないので、このやり方でなんとか少しでも maintain myself できるようになろうと思っているところです。一緒にがんばりましょう。こんなんで参考になったでしょうか。ほかのパターンでも、こういうの考えてみたら面白いかもね。


ここからしばらくは、今回の「きあずま」とは直接の関係がない話かもしれません。しかしまぁなんです、道は交差したあともどこまでも伸びてゆくものですし、すべての道はローマに通ずるんですからね、何かピンと来ることもあるかもしれません、お暇な方はどうぞ。

自分を支えることより一段階難しい課題として、他人を支えるってのがあります。もちろん、じっくり時間をかけて自分を支えることがある程度できるようにできるようになって、それから次の段階へ……とゲームのようにいけばそれがベストなのですけれど、「自分を支え」ることもままならない状態なのに「他人を支え」なければならない場合もあるでしょう。現実的に想像しやすい言い方をすれば、たとえば集団の真ん中に立つという状況がそれです。芝居の演出、映画の監督、楽団の指揮者、同人誌の編集者、サークルの長、飲み会の幹事、友達と街に出て「えー食えればどこでもいいよ、お前が決めてw」なんて丸投げされた人、なんでもいいですけれど、代表して集団としての決断=選択をしなければいけない立場にあなたがなったときです。

「他人を支える」というのは、上に書いた「他人のために掃除をやる」といったものとは似て非なるものです。他人を支えるというのは、自分を支えて、他人に踏んづけてもらうということにほかなりません。最初のお汁粉の例よろしく、集団のほかのメンバはあなたの決定を確定事項として踏み台にします。そりゃもう、ばんばん踏みつけていきます。《それじゃなくてもよかったかもしれないけれど、エイヤッ!とあなたが決めたその選択肢》をですよ。とても不安になりますね。心もとなくなります。しかし、ここであなたがその不安に負けて、「ふええ、ほ、ほんとはね、これじゃなくてもよかったんだ、ほんとは、ほんとは……どどど、どれにしよう……」とかもにょもにょ言い出して、自分で決めたラインから退行してごにょごにょやりだすと、さあ大変です。みんなはそれを踏み台にして進もうとしてるので、そんなことをすれば足場を失って総倒れです。ソーダ・オレ。なんか愛のスコールの味がしそうですね。

もちろん、選択肢をほかのものに替えたところで、この不安は解消されません(上の例のスープ春雨のように、「修正」が功を奏すことはあります)。じゃあどうすればいいのか。信じるしかありません。「自信を持ってください」。自分の選択をあなた自身が踏み台に使う勇気を持ってください。あなたがそれをしなければ、誰も次へ進めません。責任はとても重いでしょう、誰もその決断が正しいかどうかを判断できないのですからね。誰かから文句を言われるかもしれない、誰かを傷つけて泣かせてしまうかもしれない、あいつ暴走してると皮肉られるかもしれない、少し経ってから私はいま何でこんなことやってるんだろうって思うかもしれない、それでも、あなたは自信を持ってください。自信をもつというのは、「これで絶対大丈夫だ」と思うことではありません。大丈夫かどうか確信なんて永遠に持てるわけがないから、私はこれを踏み台にすることに決めて先へ進む、ほかの誰かも同じように不安なのだから(私のことくらい)私が犠牲になって=責任をとって、決めてやる、という決断をすること。それが自信ですし、集団の中心に立つ責任を果たすということです。

これはとてもとてもすごいことです。今のぼくにはとてもできません。だから集団をまとめようと奮闘している人はとてもとても強い人なのだなぁと思うし、尊敬のまなざしで見ています。だから、だからというわけではないのですけれど、本当に、自信を持ってください。志を持つことは本当に難しい、自分を貫くことは本当に難しい、それでも、だからこそ、自信を持ってください。選択肢はたくさんあるかもしれないけれど、選択をすること、決断をすることができるのは中央にいるあなただけなのです。大丈夫だよ、頑張って。


ここまで読んでくれた奇特な方々、本当にありがとうございます、さすがにそろそろ終わりましょうか。ひとり暮らしにおいて肝心だとぼくが思うこと、それは「自信をもつこと」です自信というのは、「これなら必ず大丈夫」なんていう魔法ではなく、んなモン永久にわからないんだから私が決めるしかないんだと決断すること、そしてそれをどうにか固定して自分で踏み台に、ジャンプ台に使うこと。きっとこれは、死ぬほど難しい。でも、それでも、ぼくもこのブログを自分の踏み台に使って、少しでも実践していこうと思います。読んで下さった方の中に、これから私も少しずつ maintain myself していきたい!!という方がいらっしゃいましたら、ぜひ、一緒に頑張っていきませんか。大丈夫、できるよ、ぼくたちなら。

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『めんどくさいが最大の敵』 / 著者:めがね - ch5

おはようございます。めがねです。
いつもお題ありがとうございます。
自分のブログは自分に問を立てて書くと言うスタイルなので、問いがないと中々書き進める事が難しいのですが、このように沢山の問を頂けると捗って捗って有難いです。
前置きはこの辺にしておいて、投稿者さまも早めに読みたいとの事なので朝も早いし少し眠いですが、自戒も含め書いていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

・『問題を先送りにしても結局の所、最終的にもっとめんどくさいことになる。』
端的に言うとこれが結論です。
私自身、几帳面な性格とはとてもじゃないですが言えません。
比較的『問題を先送りにするタイプ』な訳です。お恥ずかしい話ですが、私はこれで一つ仕事がなくなりました。業務能力の欠如という烙印を押された訳です。洒落にならなかったです。もの凄く凹みました。一ヶ月間ニートしたくらいには凹みました。
悪いことは続くもので困った事が起こりました。気がつけば、家の契約更新日が翌月と迫っていたのです。ひと月前までは普通に収入があったのですがニート生活をしていた事ので本来払えるはずのお金がない訳です。勿論携帯も止まりました。最終的に泣く泣く銀行に行ってお金を借りて、家を探し引っ越しました。
仕事をちゃんとしてなかったせいで最終的にたいした金額ではないものの借金まで背負うハメになった訳です。
これは結構最悪な例ですがもっと身近なもので言えば、電気を消し忘れる、寝るときに冷房入れっぱなしだった。とかそんな感じ。とりたてて大した事のないような事に思えます。
ちゃんと消していた月と消していなかった月の電気代を比べてみると良いでしょう。凄く顕著に金額という形でデータに現れます。
あとは思いつくのは学生さんにありがちな授業をバックレるとかですかね。身に覚えのある方もいらっしゃるかと思います。
授業でない→単位足りない→教授に土下座→やっぱり単位足りない→留年。
フローチャートにするとわかり易いですね。
ゴミ捨ての場合こうです。
ごみ放置→部屋汚れる→不衛生なので虫がわく→虫が気持ち悪い部屋にいたくない。
ひとが悪いとか自分が悪いとかではないのです。『めんどくさいという感情が最大の敵なのです。』
勉強もそう。仕事もそう。政治ですらそう。
めんどくさい事がもっとめんどくさい事を連れてきてコイツを放置するともっとめんどくさい事を連れてくるんです。
全部めんどくさいという感情が敵なのです。こいつが倒すべきラスボスなのです。

・あとがき
このめんどくさい。もといやりたくない病に精神科医や心理学者がこのような方法を取ることがあるそうです。
『まずはテレビを消して勉強してみましょう。そのあとで、なぜそんなに勉強したくないのか、考えてみましょう。』まず、症状に正面から取り組んでみて、その説明を後日に譲る訳です。
これが良い方に行くか現状維持なのかはわかりませんが。とりあえず目の前のめんどくさいは片付けられるので、もっとめんどくさい事はやって来ないでしょう。
私も最近この事に取り組んでいます。
一人暮らしは自由であって自由でない事がとても多いですが、一緒に頑張ってみませんか。

あと個人的にやってみて欲しいと思うのはマインドマップというものを仕事でよく使います。表現したい概念の中心となるキーワード、イメージを中央に置き、放射状にキーワードやイメージを広げつなげていくと言うものです。
試しにめんどくさいと思う事柄を中央に置いてこれをやらなければどんなめんどくさい事柄が起こるのか。という比較的ネガティブなイメージをできるだけ沢山連想してみてください。
先のことがなんとなくイメージ出来て、やらなきゃという気を起こさせてくれる効果があると思います。

そろそろ眠いのでおわります。

じゃあのー。




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調音点で活躍している音の群れ / 著者:らららぎ - ch3

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それ負ふ母も 吾を待つらむぞ

 山上憶良という詩人の詠んだ歌で、ひらがなに読み下すと「おくららは いまはまかむ こなくむ それおうははも わをまつむぞ」になる。この歌の解釈は様々あれど、定説では「宴会の席を中座するときに詠んだ歌」となっているらしい。これが面白いのは「ら」という音が過剰に織り込まれているところだろう。


Para bailar la Bamba(ぱ ばいらる ばんば)
Para bailar la Bamba(ぱ ばいらる ばんば)
Se necesita una poca de gracia(せ ねせした うな ぽか で ぐしあ)
Una poca de gracia y otra cosita(うな ぽか で ぐしあ い おった こした)
Y arriba y arriba, Y arriba y arriba(い あば い あば い あば い あば)
Por ti seré, por ti seré, por ti seré(ぽ てぃ せれ ぽ てぃ せれ ぽ てぃ せれ)
Yo no soy marinero. Yo no soy marinero.(よ の そい ま よ の そい ま
Soy capitán. Soy capitán. Soy capitán.(そい かぴたん そい かぴたん そい かぴたん)
Bamba, bamba...(ばんば ばんば)

 スペインの民謡「ラ・バンバ」。歌詞は歌い手によって少し異なるけれど、だいたいこんな感じなんだとか。「ラ行」で弾かれたところで曲に勢いがでる。



(wikipedia「硬口蓋音 - 音声学」より)

 日本語の「r」は、「歯茎はじき音」(フラップ "r")と呼ばれていて、一瞬だけ口のなかを「閉鎖」して(音声学的に調音して)、そこから弾くようにして空気のまとまりを放出する。これが「音の明度」を高めているように感じるのだ。山上憶良が「ら」を多用したところは、きっとここだったと考えられる。

――「ら」は外側に発散する。
――「ら」は明るさを押し広める。
――「ら」は陽気と歓楽を瞬時に生成し、言語空間の音楽性を整える
――「ら」は平和の音声であり、あらゆる制御に解放を唱え、他者を優しくする
――「ら」は、五十音のなかで唯一、連続で聞いても苦しくない音素である。

ららららららららららららららららら

 そこで、アニメのオタクというイメージを定着させるために、化物語の主人公「あららぎくん」の言い間違い「らららぎ」を名前にもらった。さらにアニオタを強調するときは、魔法少女まどか☆マギカの「明美ほむら」を併せて「明美ほむらららぎ」などと称するときもある。

 「ら」の明るさが好きなのだ。余裕も愛嬌もある「ら」の音を、いつでも呼びたい。ぼくの子どもが生まれたら、「等等等」(ららら)という名前にしてキラキラさせてしまおうか。冗談。

 とにかくこれが、アカウント名の由来。

 前口上で予想した通り、説明に寄ってしまったけれど、これが今の限界。
 自分について語るのは、別の機会に譲るとして、これはこれで終わり。

 しーゆーれーらー

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chiasma 02:「私の断念してきたこと」

chiasma 02:「私の断念してきたこと」
・「『復讐』」(めがね)
・「断念と私」(浜乃木 千春)
・「断念に関する思考」(黒崎咲夜)
・「背伸びしなくてもいいんだ」(こはく)
・「しちてんばっとう」(西洋中世史たん)
・「ネコの尻尾の耐えられなくない軽さ」(大人たん)
・「きらきらをまとう」(草薙菫)


*「もう2つ目なのかい!?」と、マスオさんよろしく驚いたかもしれませんが、「休みの日に一気に書きたい派」の人を考慮して、御題は出し惜しみせずどんどん出していく方針に仮決定いたしました。ですので、執筆者様各位は焦ることなく(御題の提出される速さに操られることなく!)ご自分のペースで執筆してくださっていただいて差し支えございません。

*御題は執筆者様・愛読者様のどなたからでも受け付けております。このブログは御題がないと死んでしまいますので、どうか池の魚に水を遣る気持ちで気軽にご提供ください。(拍手でもコメントでもツイッターでもラインでも、どこからでも受け付けております!)。


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断念と私 / 著者:浜乃木 千春 - ch2

 私は自分のことをそれなりに興味の範囲の広い人間だと思っている。だがしかし、ここで言う「興味」とはなにかを始めるきっかけとなる程度の小さなそれでしかなく、実際に興味の対象に手を出してみるとそれはすぐに薄れはじめる。続けていくことの面倒さに興味が塗りつぶされてしまうのだ。例えば私は読書を趣味としていて、有名な作家の本が話題に上がっていれば比較的気軽に読んでみることが多い。しかし最初に読んでみた一冊でその作家に対する興味を失うことも多く、結果一冊しか読んだことのない作家ばかりという状態になってしまっている。興味を深めていくことがなかなかできないのだ。
 さて、この記事の主題は「私の断念してきたこと」であった。では先に挙げたような経験、すなわち興味を持った作家の本をとりあえず一冊だけ読み、その一冊だけで満足してしまうという経験は、はたして「断念」と呼べるのだろうか。個人的な感覚としては、どうもそれは「断念」という域に達していないように思える。「断念」とは確たる到達点、大きな目標を意識していてこそ生じるものであって、興味本位でとりあえず手を出してみるというのは、最初から自分の興味が長続きしないことを予期した上での刹那的な行動であり、そこに到達先への展望は存在せず、故に「断念」にすらなっていない、と感じるのである。
 今こうして「私の断念してきたこと」を探すべく今までの人生に視線を巡らせても、そこには「断念」にすら到らなかった経験、その場限りの興味に基づく刹那的な経験しか見当たらない。なんのために生きているのか、その答えに将来への展望を据えたことも一度たりともないのだ。それは方針として刹那主義を採用していたからでもあるとは思うが、それと同時に、大きな目標を据えてそのために長期的に経験を積み重ねていくということが、自分には根本的に向いていないのだと、そのような諦念に甘んじていたからでもあるだろう。そして未だにその諦念、その甘えから抜けだせずにいるのだ。
 「断念」は目標へ到達する決意と表裏一体であり、精神的に向上心のない馬鹿であるところの私の人生にはこの決意がないのだろう。故に「私の断念してきたこと」というのもまた存在しないのだと思う。


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