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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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まぁだいじょうぶでしょ / 著者:ドーナツ - ch20

「暮らしの中で工夫していること」というテーマを一見して、「は、暮らしの中で工夫してることとかないわ。」と思ったクズ大学生はこちらです。
それを友人に話してみたら、「工夫して!」と言われてしまいました。

工夫していること、強いて言えばだれかとサシで話す時間を大切にすることくらい。
話をするという行為によって、日常的に他者を思いやる時間をもち、視野を広げる効果があると思っています。
大学生で一人暮らしをしていると、授業を受けている日すらも誰とも話さず生活することができてしまうので、ついつい独りよがりになってしまうのです。それを防ぐのはとても大事なこと。

でも、工夫していることって、本当にこのくらいしかないのです。
だから、逆に言えば、「別に工夫しなくても生きていけるっしょ」ということ。

以前プロジェクトでお世話になって顔見知りの大学の先生(主婦)が「子どもはご飯を与えておけば育ちます」とおっしゃったのだそうです。
この先生はかなりの豪傑ですが、こういう考え方はとても好きです。
とりあえず衣食住が整っていてともに暮らす人がいればなんとかなるということ。

生活をするのに気負う必要はないのです。
「工夫しなきゃ」と思わなくても、「まぁなんとかなるっしょ」と思えるように生活していれば、自然と工夫らしき何かをしているはず。
それが私にとっては「誰かとサシで話す時間を大切にすること」であり、それでもよくよく考えてみたら生活の工夫と言えなくもないなという程度の認識でやっていることです。

まぁだいじょうぶでしょ。
気負わず、楽に、好きな音楽でも聴いて、でも自分の意志に対しては真剣に、生きてゆきましょう。

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chiasma 21:「好きな言葉について語る」

chiasma 21:「好きな言葉について語る」
・「宝物のある場所」(ドーナツ)
・「好きなことを、書きました。」(てだ)
・「数百ヘルツの音に貫かれる」(セカペン)

*御題です、御題がやってきたのです。

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あとからきっとわかるよ / 著者:開発室Graph - ch1

こんにちは。はじめまして,はじめました。開発室Graphといいます。わけあってこの試みに参加することにしました。よろしくね。
僕が何者であるかはここでは深くは語らないことにしましょう。きっと,僕が何者かであるかはこの先ここで書く文章が示してくれますし,僕もそれがそうであると願っています。

はて,どこから書き始めていいやら,と思いましたが,やっぱり1は1です。1番最初のお題「私の好きな法則」から書き始めて行こうかなと思います。

僕が好きな法則は「後からそれがどういうことかわかる」法則です。「それ」がなんなのかが,きっとここでは重要になるとは思うのですが,それをうまく説明するのはとても難しいので,ここでは指示語でうまくぼかしました。
毎日の行動に意味を見出すのはきっと必要なのでしょう。有史以来から「なぜ生きるのか」とか「なぜ生きなければならないのか」について色んな人が考えてきました。そして,それを見出すことが,誰にとっても訪れる「死」へ一直線へと向かう「人生」の目的の1つである,というのが割と一般的な理論だと思います。
「なんでこんなことをしているんだろう」というのを,僕は毎日いろんなところで考えてしまいます。そして,きっとそれは僕だけじゃない,と思っています。そう思ってしまうのはなぜなのか,そう思ってしまうのは人間だけなのか,とか考えるとまた夜も眠れなくなってしまうのでこの辺でやめにしておきましょう。
「なんでこんなことをしているんだろう」と考えるのは,人間らしい行動だと思います。でも,それはあまり便利じゃない気もする。その理由が出るまで,僕たちは,その行動をやらないまたは,少しスピードが落ちてしまうからです。
なので僕は「あとからきっとわかる」の法則にしたがって生きることにしています。今回はそれをちょろりとご紹介しましょう。

ゆっくりと1つずつ毎日のタスクや,やらなければいけないことを分析してみると,なぜそれをするかが完全にわかっているものって,意外と少ないですよね。
なぜ学校へ行くの?なぜ朝起きるの?なぜ誰かと一緒にいるの?なぜご飯を食べるの?なぜ寝るの?に明確な答えを出せる人は,きっとあんまりいないと思います。
ここでは手っ取り早く「なんだかよくわからないけどやらなきゃいけないからやる」みたいなものだという風に定義付けておきます。

「なんだかよくわからないけどやっていること」は,やっている間はその意味はわかりません。でも,それはあとからきっとわかります。それは僕の経験上ずっとそうでした。断言できます。
まず1つ目は短いスパンでのこと。「やっていること」が完了したときに,その意味がわかるということは結構あります。僕たちはなにかをやるときにはそれをイメージしてから取りかかります。ああ,コレは思っていたことと違ってこういうことだったんだな,という経験は,とても心地いいものです。
2つ目は長いスパンでのこと。色んなことを吸収するにつれて,昔やっていたこと,つまり経験がふっと思い出されてきます。「ああ,これはこういうことだったんだ」と,そのときわからなかったことが理解されます。断片化していたと思っていた知識が,そこでつながる。
なにかを説明するときに,たとえ話を使うとわかりやすいですよね。そんな感じで,なにか複数のものに共通点つながりが見出される。こういう風に時間がたつとつながりが生まれていくっていうのが,脳の回路の中であったようななかったような気がするのですが,あんまり確実な話じゃないのでやめにしておきます。

そうやって,色んなものを「つなげて」いくのが「人生」っていう作業なんじゃないかな,と最近は思っています。この文章でいう「わかる」は「つなげる」と言い換えることができますね。
原理的にそれぞれの人で吸収するもの(人や本から)は違っているはずなので,それぞれの人で何が「つながる」のかも違っています。自分が「つなげた」とこを,「コレはこういうことだったんだよ!」と発表すれば,まわりは驚いてくれます。
今やっていることはあとからきっと「つながる」し「わかる」。そう信じることで,毎日の生活は少しだけ楽しくなるはずです。いつか訪れる「つながる」日に向けて,毎日をがんばれるはずです。僕はそうやって生きてきたし,生きていこうかな,と思っています。


なんか意図せずに壮大な話になっちゃいましたね。まだまだ若いのに何を偉そうに人生語っちゃってるの?って感じです。とりあえず今,僕はなんで「これを書いている」のかわかりません。でもこれもきっと「あとからわかる」のでしょう。そのために,この文章がずっとここに残されているといいなって思います。誰かがこの文章の内容をなにかと「つなげて」くれたらいいな,とも思います。

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*初心者ライターのための文章講座2 ― 私は言葉にする、ということ*

こんばんは、2回目の講座ですね。

前稿の『文章を書くときの大事な大事な心得』では、「誰にも何にも邪魔されなかったら、自分が確かに言いたいと思ってきたことを思い出して、それをとにかく書いていこう」という話を致しました。このことを、山崎浩一さんは「書き手にとっておいしいもの」と表現しています*1。

本稿では、「私は言葉にする、ということ」について考えて参ります。

テクニックは、まだまだ、先のことです。
(道のりは長いですが、退屈したら休憩なさってくださいね)。

・ユージン・ジェンドリン, 米哲学者のインタビュー動画, 当該箇所:2:37~ - らららぎ拙訳


...but the body is also the body from the inside. And then they're getting there slowly but they're still with emotions. Slowly they're beginning to understand that an emotion isn't just what they'd thought it was. It actually has something to do with the situation you're living in."
しかし、身体というのもまた内側(内臓的経験)を基にしているものである。ゆっくりとそこにたどり着こうとするが、しかしまず感情というものを感じるだろう。そしてようやく感情というものが、自分たちのイメージしていたものとは全く異なることに気付き始めるものだ。感情の実際というものは、状況を生きている何かなのである。


さっそくヘビーな引用から始めましたが、少しずつ理解していきましょう。

この「状況を生きている何か」のことを、ジェンドリンは「フェルトセンス」(felt sense)*2と名付けました。簡単にいえば「もやもやしていて、微細で、すごく複雑で、言葉にできない感覚で、でも確かに内臓で感じているというか、腹の奥底で経験してるはずの何とも言えない感覚」のことです。

皆さんにもあると思います。

「あーこの感覚、なんて言えばいいんだろう」という経験。喉に骨がひっかかって、むかむかして、無性にいらいらして、腹を抉られるような経験。そして、ほとんどの場合、唾液が骨を溶かしてくれるまで待って、溶けて気にならなくなった後は、何ともなかった顔で日常を過ごすことでしょう。

時間が経てばやり過ごせるから、私たちは、その「なんとも言えない微妙な感覚」というものを見過ごしてしまうのです。

このフェルトセンスと向き合うことで、自分というものへの理解を厚くし、本当に書きたいこと、本当に言いたいこと、自分の感じている世界、自分の受け取ってきた経験を記述できるようになることでしょう。

大事なのは、どんなときでも「心地」を見過ごさないこと
大事なのは、「心地」を自分なりに表現すること

生理的感情(もやもやっとした感情や心地)*3を言葉にするとき、われわれはどうしても、それを社会化してしまうものです。たとえば、ひとりでいて何となくもやもやする生理的感情を"言葉にしようとすると"、どうしても「寂しさ」という"みんなにとって分かりやすい言葉"を選んでしまいます

しかし、「本当に『寂しい』で伝えきれてるか」と聞かれれば、ほとんどの人が「そんなことはない」と言うのではないでしょうか。「孤独」「寂しさ」という"伝えやすい言葉"、"コミュニケーションしやすい言葉"は、コミュニケーションするうえで大事なものですが、そればかりを使っていると、「本当に表現したいとき」に何もできなくなってしまうでしょう。

つまり、辞書に載っている(手垢にまみれた)意味だけで社会的にやりくりするのではなく、自分独自の「コトバの回路」を設計して、辞書を乗り越えながら表現していくことが大事になります。「痛い」という言葉を知らない赤ん坊のように、「痛い」という言葉を使わずに、あの感覚を伝えなければならないとしたら、どのような言葉で説明することになるでしょうか。その制約にこそ、新しい回路を見つけるヒントがあるのかもしれませんね。

あなたの書きたいことを、あなたは既に知っています

既に感じていて、既に見過ごしてきたかもしれません


「何を書くべきか」という問いの答えは、自分の個性にあります。自分が感じてきたこと、自分が思ってきたこと、自分が見過ごしてきてしまったこと、それらが「みんなと同じではないんだ」と気付いたとき、自ずと何を書くべきかが分かってくるものです。

いい意味で「あなたとは違うんだ」と言えること
いい意味で「あなたはこれを持っていない」と言えること

「まだ誰にも言われていない(書かれていない)"それ"」をあなたは確実に持っているでしょう。私には、もちろん、"それ"が何だか分かりませんが、"それ"と向き合うお手伝いぐらいはできるかもしれません。よろしかったら、お声かけくださいね。

じっくり、じっくり、向き合ってみてくださいね。

ここには多くの御題(きあずま)がありますから、それらが何かの役に立つと思います。
急かすことはありませんから、ここでそれを「試しに」表現してみませんか?

それでは、第3回で会いましょう。

(この下にある註釈にも大事なことが書いてあるので、太字だけでも読んでいただけたら嬉しいです)。






*1:山崎浩一『危険な文章講座』より。
そもそも「均整」だの「バランス感覚」だのを必要以上にありがたがり、《ゆがみ》や《かたより》を矯正すべき欠陥のように扱う感覚は、ある一定のバランス枠からはみ出た者を排除したりする意識にも通じる。人間には《ゆがみ》があることこそ自然であり、また、そこから生まれるものに《ゆがみ》があるからこそ面白いのだ。いや、それどころか《ゆがみ》こそが、その人にとっての「均整」なのだというほうが正確かもしれない。(p.15)

書き手にとっておいしいもの」から書き始められた文章は、やはり読み手の食欲をそそる可能性が高い。読者をひきつける力を持ちやすいのだ。…つまり、何を差し置いてもまっさきに書きたいと思って書き始めたことへのあなたの愛情や気迫が、読み手に伝わり、それが何であろうが読み手の興味をそそらずにはおかないのだ。(p.18~19)

とにかく自分の頭から生まれたランダムでアンバランスな断片を、どのようにして他者にも共有してもらえる表現へと鍛えあげていくのか。(p.156)


*2:もともとはロジャーズという学者の「感官的内臓的経験」(sensory and visceral experiences)から来ている言葉です。「状況を生きている何か」というのは、ジェンドリがハイデガー哲学を継承しているところからくる言い回しですね。(ハイデガーの英訳者ですし)。フェルトセンスについて、公式サイトから引用します。
“Focusing” is to enter into a special kind of awareness, different from our every day awareness. It is open, turned inward, centered on the present and on your body’s inner sensations. When doing Focusing, you silently ask, “How am I now?”
(「フォーカシング」というのは、われわれが毎日のように行っている気づきとは違った、特別なタイプの自覚のなかへと進入していくことを言います。それは、己の内部をこじ開け、潜り、核心をつき、内臓的な感覚を見つけ出す作業です。フォーカシングをしているときは、「いま私はどんな感じだろうか」と静かに自問することとなるでしょう。)

Perhaps you feel just fine. Or perhaps there is something in the way of feeling fine. That inside place might not respond quickly, but it does respond. It will give you a bodily sensation that is more rich and complex than a simple “feeling good” or “feeling bad.”
(たいていはいい感じがするものであり、それは、いい感じのする何かがあるからです。それを感知する内臓感覚は、少し遅れて反応するかもしれませんが、それでもしっかり反応しています。その反応というのは身体的な感覚のことですが、それは「いい感じ」とか「やな感じ」といった簡単なものではなく、もっと豊かで、もっと複雑な感覚のことを言います。)

As you wait attentively, something forms inside you that is vague, indefinite, difficult to put into a words. You try to describe this sensation and maybe a sentence comes, or an image, maybe a word or two which describes this sensation, and lets you know that it has something to do with a certain situation or experience in your life. For instance, a depressing problem might cause you to say “I feel heavy,” or “It’s like an empty cave inside,” or “there’s a huge ball there, dark, fiery, no, it’s more like--” etc.
(じわじわと感じるのを待っていると、なんだかもやもやしていて、不明瞭で、名状し難い何かを内臓で経験することでしょう。その感覚を言葉にしてみようとすると、1~2個の言葉やイメージが湧いてきてくるかもしれません。既に人生のなかで味わったことのある感覚と、うまく結びつけて説明することができます。たとえば、「けだるい」とか、「ポカリと穴が空いているみたいに」とか、「なんだか大きなボールがあって、暗くて、むかむかして、いやもっと何ていうんだろう…」とか、そういった鬱積していて悩ましげな何かを抱くでしょう。)

This sensation in your body is called a “felt sense.” It lies behind your thoughts and feelings and is significant and full of meaning. It is a message from your body to you, and will speak to you when you listen. Contacting the felt sense is the important first step of Focusing.
(身体のなかで生じるこの感覚を「フェルトセンス」と称しています。思考や感覚の向こう側にあって、意義深く、重大なもの。身体からあなたへの、ひとつのメッセージともいえます。このフェルトセンスに触れることが、フォーカシングの大切な一歩目となります。)


*3:感情と開発 -人類学における応用的実践の新展開- 関根久雄(筑波大学)
ゴードンは人間の感情を生理的感情という一次的なものと、社会的感情という、他者との関係において社会的に生み出される二次的・構成的な感情の 2 つの次元に分類している。つまり、一次的な感情を二次的に言語化・行為化する際には、状況に適合するように感情を調整する装置としての社会的文化的規範を通過させているということである。このことを、感情喚起のプロセスを理解するための認知的評価に照らしてみると、感情は自己と事象の関連性に関する主観的評価によって生じるものであり、その表現は評価や解釈の結果の表明であるという。それを図式的に表すと、「事象→認知的評価→感情」という流れになる。ここでいう感情とはこの一連の認知的評価のプロセスによって行為される個人や集団の開発実践をめぐる諸経験のことであり、実践人類学において重要な点は、そのような感情を理解するための立論である。そこで、「事象→認知的評価→(一次的)感情」というプロセスの先に、さらに「→社会文化的規範を参照→行為化・言語化・身体化された(二次的)感情」という追加的な認知プロセスを想定したい。この二次的・構成的感情はさらに別の一次的感情を生み出す前提的な実践でもあり、2 つの次元は絶え間なく循環するプロセスの中にある

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数え方 / 著者:ドーナツ - ch14

数えることはどうも苦手で、5以上になってくると目視で数えることは出来ない。
そういえば中学の頃から数学はどうもぱっとしない成績だったし、数という概念に縁がない人間なのだろう。
そんな私が何かをわざわざ数えるということはほとんどしたことがないのは自然なことだ。

フランス語の試験の前、久々に数を数えた。ただし、フランス語で。
フランス語を始めて1年と少し経つが、ようやくフランス語で10まで数えられるようになった。

というわけで、今日は外国語の話でもしてみようと思う。
例によって外国語の数詞はとても苦手だ。
出てくるたびにぞっとする。

日本語に単数と複数の区別はないが、英語にはある……という話は誰もが乗り越えてきたところだろう。
その時点で、日本語と英語の「数え方」が違っているのがわかる。

フランス語も英語と同じく単数と複数だが、フランス語の70以上の数字は、あれ、何がしたいのかさっぱりわからない。
80=20×4でしたっけ。
でもきっと、フランス語母語話者の頭はそうなっているのだろう。

ところでアラビア語は、単数形と複数形の他に双数形がある。
一人称単数「私」、一人称双数「私たち二人」、一人称複数「私たち」と言った具合である。
双数形に初めてであったときはきっと戸惑うだろうが、「1の次は2、2の次はたくさん」というふうに、意外とシンプルな考え方なのかもしれない。
それは「数えない」という態度につながっているような気がして、私はアラビア語の数の概念がとても好きだ。

そういう風に、un, deux, trios, quatre, cinq...と、童心に戻って数を数えるのは悪くない。
数えなくたって生きていけることはこれまで生きてきた中でよくわかっているけれど、いろいろな数え方を知っていれば見える世界が変わってくるかもしれない。
アラビア語を勉強する中で、そんなことに気づいたりもした。

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呼びやすさを求めていた、ということにしておこう / 著者:公民たん - ch3

はじめまして。公民たんといいます。

わたしについては、自分のブログの方にプロフィールを載せてあるので、そちらをご覧いただけるとうれしいです。
http://komin-tan.hatenadiary.com



さて、さっそく御題について
まず、なんでアカウント名を「公民たん」で始めたのか。


そもそも、「公民」っていうのは中学校や高校で学ぶ教科の名前なんですよね。

でも、わたしは公民の教科書の内容もしゃべるけれど、メインは時事に関することがらをつぶやいています。

んじゃあなんで「時事たん」じゃないのか?



じ、実は、覚えてないんです…!



一応、アカウント名(公民たん)の後ろには 《時事》ってつけてあるんだけれど、なんでわざわざ「公民」という単語を借りたんだろう…。初めて訊かれたけど、覚えてない…


もういいや、
公民(こーみん)のほうが言いやすいから、ということにしておこう!!




続いて、自分について。
わたしは、

「みんなに、きょう起きたことを、きょう知ってもらいたい」

という思いのもと、存在しています。

メインのターゲット層は中学生や高校生ということにしてあるんですけど、部活とかアルバイトで忙しいということもあって、意外と高校生でニュースとか見られない人って多いんですよね。

そんな人たちにも、普段使ってるtwitterというツールで気軽にきょうの動きを知ってもらえたら…と思いつつ、記事を選んだりフリップを作ったりしています。

んーでも、自分もできごとの背景を理解しておかないといけないから特にフリップづくりは大変。

これから少しずつ精進していかないと…!!




こんな感じのわたしですが、

これからどうぞよろしくお願いします!

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3つの嫌いなこと / 著者:蛙教授 - ch19

私には嫌いなものが3つ在る。退屈、未調理のトマト、そして、自分より出来の悪い人間に主導権を握られること、だ。本当は気が進まないし、試みたことも無いのだが、いい機会だから、考えてみたいと思う。嫌いなものを褒める文章を。

私は刺激と新規の知見が好きだ。だから、退屈を嫌う。主観に於いて、新しいと感じられるものを得ていないと、精神状態が悪化するし幸福度が下がる。然し、世の中には退屈、俗にいう、平和な生活が好きな人間も存在している。其の人々の気持ちになって、私の嫌いなものである退屈を褒めてみたい。

「退屈が何故素晴らしいのか。其れは此の世が平和であるからだ。退屈である事に依って、自分の生命や自分の大切な人、物、事象が脅かされていないと確信する。大切なものが失われる。脅威に晒される。そういった物を良しとして、刺激を求める人間の気が知れない。彼らは愉快犯である。彼らは侵略する。退屈を好むことは、其の周囲の人間を不安定の中に突き落とす性質である。倫理に依ってではなく、幼稚な己の快楽の為に、他人を巻き込み、又、自らも辛苦の道へと邁進する。此れは蛮勇であり、狂気である。確かに、人類の長い歴史の中でrisk-takingな性格が、人類の大きな進歩を導いた時代もあっただろう。然し、今は21世紀で、此処は日本である。退屈を希求する精神は、平和と安定を好み、余計な事をしない高い倫理観を持つのだ」

次は、未調理のトマトを褒めようか。此れに関して言えば、純粋に私の味覚嗅覚の問題であり、全世界の人間が皆、生トマトを食べるべきではない、ということを主張するつもりはない。従って、此処では単なる主観的な好みの異なる人間を仮構し、褒めてみたいと思う。

「トマトは赤い。其れが料理に彩りを加える。目を閉じて欲しい。そして、トマトの無いサラダ、トマトの無いハンバーガー、トマトの無いピザ、トマトの無いタコライスを思い浮かべて欲しい。さぁどうだろうか。どんな色彩の世界が、読者諸君の瞼の裏に浮かんだであろうか。トマトの鮮やかな赤が欲しくなってきてはいないだろうか。そうだ、此れこそがトマトの存在意義である。料理というものは、味覚聴覚を愉しませれば、其れで良いというものではない。視覚的にも、十二分に愉しめなければならないものである。其の意味で彩りは非常に重要だ。トマトは其れを与える。更に、トマトが与えるのは彩りだけではない。高い栄養素、安価で供給される生産性の高さ、様々な環境で生育する逞しさ、小学生でも対応可能な育成に関する専門知識の少なさ。どれをとってもトマトは素晴らしく、此れからも導入されるべきものである。私の味覚、聴覚、視覚を楽しませる為にも」

最後に、「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られること」について、其の逆を褒めてみたいと思う。其の前に、此の状況が嫌いになった背景と、現実で直面する此の状況への、私個人の対応策を述べる。

私は不条理が嫌いだ。合理的でない理由、合理的でない采配に依って、十分なリソースがあるのも関わらず、目的が達成されないという事がある。不条理は、合理的な選択を行えない者が、其の主導権を行使することに依って、引き起こされる現象だ。私は、目的達成の為に合理的な判断能力、最適な手段を選択したい。少し考えれば、より最適な選択肢があることに気付くにも関わらず、知能の不足、経験の欠乏、情報収集能力の欠如に依って、事態が悪化するのを好まない。然し、現実にはそういった状況に陥ることは日常茶飯事である。どう対処すればいいか。

自分の思考空間の中に、現状採用されている手段よりも最適なものがあるのにも関わらず、其れを選択出来ない事に、強い苛立ちを感じる。ならば、自分が最適な手段を持たない環境に飛び込めば、其の苛立ちを解消できる。自分の不得手なこと、自分にとって未体験な分野に飛び込んで行けば、周囲の人間は、大体に於いて、自分よりも優秀であり、多くの事を学ぶことが出来る。苛立ちも少ない。私は、今までにこういった場所に来たことがない、こういった表象をしたことがない。そういう機会に対して、アンテナを張っては実際に経験することにしている。此れが「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られること」に対する嫌悪感を解消する手段だ。何も、力技で主導権を握り返すことだけが、合理的な選択ではない。では、此のスタンスに対して反論する事で、嫌いなものを褒めてみたいと思う。

「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られることが嫌いな人間がいるそうだが、自分はそう明言する事自体に抵抗がある。自分よりも出来の悪い人間、という視点で他人と接している時点で、他者をステータス、或いは、道具として見做している。自分にはないもの、自分よりも優秀な人間から学びたいと言えば聞こえは良いが、其の態度は他者を自分の目的の為に利用する行為である。常に自分の不得手な分野に手を出すということは、其の周囲の人間に対して益になるよう振る舞うのではなく、自分の個人的な好奇心を満たすため、個人的な苛立ちを解消するために、他者を利用している。其の人が学習している間の、コミュニティ全体の生産性は落ち、学習が一定水準に達したら、コミュニティを去るというのは、学習のフリーライドであり、他者に対して貢献しようという気のない人間の考えである。主導権という物の見方にも違和感を感じる。人間は常に誰かの支配下に置かれている訳ではない。人間は自ら主体的に選択し、主体的に生きているのである。其れに対して、主導権という幻想を導入し、自らの責任の所在を有耶無耶にするのは、倫理的にどうであろうか。以上を、自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られることに対する反対意見とする。私が此処で褒めたいのは、其の逆、自らの能力を活かして社会に貢献し、主導権という言葉で自分の意志と責任を有耶無耶にしない態度である」

如何だろうか。私は3つの嫌いな事について、褒めてみた。最後の一つに関しては、何やら詭弁めいた文章であると感じる人も多くおられるのではないか。此の論理展開はおかしい、此の議論は成り立たないというのがあれば、Twitterでも、此のブログでも、メッセージやコメントを飛ばして欲しい。忌憚ない批判を募集する。


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