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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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*初心者ライターのための文章講座2 ― 私は言葉にする、ということ*

こんばんは、2回目の講座ですね。

前稿の『文章を書くときの大事な大事な心得』では、「誰にも何にも邪魔されなかったら、自分が確かに言いたいと思ってきたことを思い出して、それをとにかく書いていこう」という話を致しました。このことを、山崎浩一さんは「書き手にとっておいしいもの」と表現しています*1。

本稿では、「私は言葉にする、ということ」について考えて参ります。

テクニックは、まだまだ、先のことです。
(道のりは長いですが、退屈したら休憩なさってくださいね)。

・ユージン・ジェンドリン, 米哲学者のインタビュー動画, 当該箇所:2:37~ - らららぎ拙訳


...but the body is also the body from the inside. And then they're getting there slowly but they're still with emotions. Slowly they're beginning to understand that an emotion isn't just what they'd thought it was. It actually has something to do with the situation you're living in."
しかし、身体というのもまた内側(内臓的経験)を基にしているものである。ゆっくりとそこにたどり着こうとするが、しかしまず感情というものを感じるだろう。そしてようやく感情というものが、自分たちのイメージしていたものとは全く異なることに気付き始めるものだ。感情の実際というものは、状況を生きている何かなのである。


さっそくヘビーな引用から始めましたが、少しずつ理解していきましょう。

この「状況を生きている何か」のことを、ジェンドリンは「フェルトセンス」(felt sense)*2と名付けました。簡単にいえば「もやもやしていて、微細で、すごく複雑で、言葉にできない感覚で、でも確かに内臓で感じているというか、腹の奥底で経験してるはずの何とも言えない感覚」のことです。

皆さんにもあると思います。

「あーこの感覚、なんて言えばいいんだろう」という経験。喉に骨がひっかかって、むかむかして、無性にいらいらして、腹を抉られるような経験。そして、ほとんどの場合、唾液が骨を溶かしてくれるまで待って、溶けて気にならなくなった後は、何ともなかった顔で日常を過ごすことでしょう。

時間が経てばやり過ごせるから、私たちは、その「なんとも言えない微妙な感覚」というものを見過ごしてしまうのです。

このフェルトセンスと向き合うことで、自分というものへの理解を厚くし、本当に書きたいこと、本当に言いたいこと、自分の感じている世界、自分の受け取ってきた経験を記述できるようになることでしょう。

大事なのは、どんなときでも「心地」を見過ごさないこと
大事なのは、「心地」を自分なりに表現すること

生理的感情(もやもやっとした感情や心地)*3を言葉にするとき、われわれはどうしても、それを社会化してしまうものです。たとえば、ひとりでいて何となくもやもやする生理的感情を"言葉にしようとすると"、どうしても「寂しさ」という"みんなにとって分かりやすい言葉"を選んでしまいます

しかし、「本当に『寂しい』で伝えきれてるか」と聞かれれば、ほとんどの人が「そんなことはない」と言うのではないでしょうか。「孤独」「寂しさ」という"伝えやすい言葉"、"コミュニケーションしやすい言葉"は、コミュニケーションするうえで大事なものですが、そればかりを使っていると、「本当に表現したいとき」に何もできなくなってしまうでしょう。

つまり、辞書に載っている(手垢にまみれた)意味だけで社会的にやりくりするのではなく、自分独自の「コトバの回路」を設計して、辞書を乗り越えながら表現していくことが大事になります。「痛い」という言葉を知らない赤ん坊のように、「痛い」という言葉を使わずに、あの感覚を伝えなければならないとしたら、どのような言葉で説明することになるでしょうか。その制約にこそ、新しい回路を見つけるヒントがあるのかもしれませんね。

あなたの書きたいことを、あなたは既に知っています

既に感じていて、既に見過ごしてきたかもしれません


「何を書くべきか」という問いの答えは、自分の個性にあります。自分が感じてきたこと、自分が思ってきたこと、自分が見過ごしてきてしまったこと、それらが「みんなと同じではないんだ」と気付いたとき、自ずと何を書くべきかが分かってくるものです。

いい意味で「あなたとは違うんだ」と言えること
いい意味で「あなたはこれを持っていない」と言えること

「まだ誰にも言われていない(書かれていない)"それ"」をあなたは確実に持っているでしょう。私には、もちろん、"それ"が何だか分かりませんが、"それ"と向き合うお手伝いぐらいはできるかもしれません。よろしかったら、お声かけくださいね。

じっくり、じっくり、向き合ってみてくださいね。

ここには多くの御題(きあずま)がありますから、それらが何かの役に立つと思います。
急かすことはありませんから、ここでそれを「試しに」表現してみませんか?

それでは、第3回で会いましょう。

(この下にある註釈にも大事なことが書いてあるので、太字だけでも読んでいただけたら嬉しいです)。






*1:山崎浩一『危険な文章講座』より。
そもそも「均整」だの「バランス感覚」だのを必要以上にありがたがり、《ゆがみ》や《かたより》を矯正すべき欠陥のように扱う感覚は、ある一定のバランス枠からはみ出た者を排除したりする意識にも通じる。人間には《ゆがみ》があることこそ自然であり、また、そこから生まれるものに《ゆがみ》があるからこそ面白いのだ。いや、それどころか《ゆがみ》こそが、その人にとっての「均整」なのだというほうが正確かもしれない。(p.15)

書き手にとっておいしいもの」から書き始められた文章は、やはり読み手の食欲をそそる可能性が高い。読者をひきつける力を持ちやすいのだ。…つまり、何を差し置いてもまっさきに書きたいと思って書き始めたことへのあなたの愛情や気迫が、読み手に伝わり、それが何であろうが読み手の興味をそそらずにはおかないのだ。(p.18~19)

とにかく自分の頭から生まれたランダムでアンバランスな断片を、どのようにして他者にも共有してもらえる表現へと鍛えあげていくのか。(p.156)


*2:もともとはロジャーズという学者の「感官的内臓的経験」(sensory and visceral experiences)から来ている言葉です。「状況を生きている何か」というのは、ジェンドリがハイデガー哲学を継承しているところからくる言い回しですね。(ハイデガーの英訳者ですし)。フェルトセンスについて、公式サイトから引用します。
“Focusing” is to enter into a special kind of awareness, different from our every day awareness. It is open, turned inward, centered on the present and on your body’s inner sensations. When doing Focusing, you silently ask, “How am I now?”
(「フォーカシング」というのは、われわれが毎日のように行っている気づきとは違った、特別なタイプの自覚のなかへと進入していくことを言います。それは、己の内部をこじ開け、潜り、核心をつき、内臓的な感覚を見つけ出す作業です。フォーカシングをしているときは、「いま私はどんな感じだろうか」と静かに自問することとなるでしょう。)

Perhaps you feel just fine. Or perhaps there is something in the way of feeling fine. That inside place might not respond quickly, but it does respond. It will give you a bodily sensation that is more rich and complex than a simple “feeling good” or “feeling bad.”
(たいていはいい感じがするものであり、それは、いい感じのする何かがあるからです。それを感知する内臓感覚は、少し遅れて反応するかもしれませんが、それでもしっかり反応しています。その反応というのは身体的な感覚のことですが、それは「いい感じ」とか「やな感じ」といった簡単なものではなく、もっと豊かで、もっと複雑な感覚のことを言います。)

As you wait attentively, something forms inside you that is vague, indefinite, difficult to put into a words. You try to describe this sensation and maybe a sentence comes, or an image, maybe a word or two which describes this sensation, and lets you know that it has something to do with a certain situation or experience in your life. For instance, a depressing problem might cause you to say “I feel heavy,” or “It’s like an empty cave inside,” or “there’s a huge ball there, dark, fiery, no, it’s more like--” etc.
(じわじわと感じるのを待っていると、なんだかもやもやしていて、不明瞭で、名状し難い何かを内臓で経験することでしょう。その感覚を言葉にしてみようとすると、1~2個の言葉やイメージが湧いてきてくるかもしれません。既に人生のなかで味わったことのある感覚と、うまく結びつけて説明することができます。たとえば、「けだるい」とか、「ポカリと穴が空いているみたいに」とか、「なんだか大きなボールがあって、暗くて、むかむかして、いやもっと何ていうんだろう…」とか、そういった鬱積していて悩ましげな何かを抱くでしょう。)

This sensation in your body is called a “felt sense.” It lies behind your thoughts and feelings and is significant and full of meaning. It is a message from your body to you, and will speak to you when you listen. Contacting the felt sense is the important first step of Focusing.
(身体のなかで生じるこの感覚を「フェルトセンス」と称しています。思考や感覚の向こう側にあって、意義深く、重大なもの。身体からあなたへの、ひとつのメッセージともいえます。このフェルトセンスに触れることが、フォーカシングの大切な一歩目となります。)


*3:感情と開発 -人類学における応用的実践の新展開- 関根久雄(筑波大学)
ゴードンは人間の感情を生理的感情という一次的なものと、社会的感情という、他者との関係において社会的に生み出される二次的・構成的な感情の 2 つの次元に分類している。つまり、一次的な感情を二次的に言語化・行為化する際には、状況に適合するように感情を調整する装置としての社会的文化的規範を通過させているということである。このことを、感情喚起のプロセスを理解するための認知的評価に照らしてみると、感情は自己と事象の関連性に関する主観的評価によって生じるものであり、その表現は評価や解釈の結果の表明であるという。それを図式的に表すと、「事象→認知的評価→感情」という流れになる。ここでいう感情とはこの一連の認知的評価のプロセスによって行為される個人や集団の開発実践をめぐる諸経験のことであり、実践人類学において重要な点は、そのような感情を理解するための立論である。そこで、「事象→認知的評価→(一次的)感情」というプロセスの先に、さらに「→社会文化的規範を参照→行為化・言語化・身体化された(二次的)感情」という追加的な認知プロセスを想定したい。この二次的・構成的感情はさらに別の一次的感情を生み出す前提的な実践でもあり、2 つの次元は絶え間なく循環するプロセスの中にある

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