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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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打破などないと知りながらも / 著者:らららぎ - ch22


 『R.U.S.E.』――なんとなく始めて気付いたら朝でしたレベルでハマっていた戦争シュミレーションゲーム。打破とか打開という中国語をきくと、このゲームを思い出す。戦争シュミレーションというのは、戦闘部隊をコマに見立てて、それを動かし、特定の目的(敵を殲滅だったり、敵を倒さずに目的にたどり着くことだったり)を達成するゲームのことで、地形(地政)やキャラクターの特性を理解し、瞬間ごと(あるいはターンごと)にうまく活かすことが重大となるところが面白かったりする。

 戦争を有利にすすめるためには、「いま=戦況」を把握することが肝心で、そのためには情報がとにかく欠かせない。あらゆる情報は《リアルタイム》を求められ、それにおいて兵力を操ることを「機動」(maneuver)という。

 打破というのは、機動をくりかえした結果でしかない。つまり、打破というアクションがあるのではなく、複数形の機動があるだけなのだ。打破や打開において大事なことは、何度も何度も機動すること――《自分の兵力を問題に集中させること》――である。

 それについて説明する。まずは引用から。

Dans la vie il n'y a pas de solutions; il y a des forces en marche: il faut les créer et les solutions suivent.
解決というのは、人生に属していない。あるのは、ただ前に進んでいく力だけである。その力を作ることで、解決は後から付いて来るものだ。
――アントニオ・サン=テグジュペリ『夜間飛行』(Vol de nuit)より、らららぎ拙訳

 戦争における兵力(兵士の数や物理的攻撃力)とは違って、個人的な意味での《兵力》というのは、サン=テグジュペリが言った「ただ前に進んでいく力 des forces en marche」のことだといえる。いまの自分がどんなに低い高度で飛行していようと、頼れるものがない夜を飛んでいようとも、進むしかないのである。キリの良い答えがみつからなくとも、モヤモヤやスランプに足を引っ張られても、具体的な道をみつけて、正誤に関係なく機動するしかないのである。

 その精神性は、若山牧水の詩歌のなかにもみられる。

幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
(どれだけの山や河を越えて行けば、寂しさのない国へとたどり着くのだろうか。そんなものがないと知りながらも、旅を続ける毎日である)

 《そんなものがないと知りながらも》という精神性によって、僕たちの個人的な兵力が再編成される。その兵力によって、機動――若山牧水でいうところの旅――を続けることができるようになり、そのうち打破とか解決といったものが生まれる(ように感じる)のだ。スランプというのは、(心の)夜である。だから夜間飛行をしなくてはいけない。立ち止まったら、機動力を喪ってしまう。

 そのとき空間識失調(プライドトラブル)*を起こさないように、重力とのバランスだけは保たねばらない。そのバランスというのが、《打破などないと知りながらも、打破はあると思ってただ前に進むこと》という幻想パワーである。自分の抱えている問題、自分が経験している夜、そういったモヤモヤに兵力を集中させるために、そういう幻想をみること、みとめること、しんじること、それが欠かせないのかもしれない。

 ありがとうございました。おわる。

 しーゆーれーらー







*****************

*空間識失調:[vertigo]暗い海の上や、水平線の見えない霧のなかを飛行機で操縦しているとき、平衡感覚を喪って、どちらが上で、どちらが下なのか分からなくなる状態のこと。このバーティゴに陥ったパイロットは、(ベテランであっても)上下を正確に示す計器よりも、自分の上下感覚が正しいと信じ込もうとしてしまうため、墜落事故が起きてしまうという。ここでは、最初の自分の感覚を正しいと信じたいと思ってしまい、現実(計器)とのすり合わせが取れなくなるところから、プライドトラブルとルビを振った。つまり、「私が最初に感じたこと、思ったこと、判断したことが正しい」と思い上がってしまうメンヘラ特有のプライドのあり方と、モヤモヤしている状態、混迷していて前が見えない状態の「夜」と、サン=テグジュペリの「夜間飛行」をかけて、「空間識失調」という比喩を用いた。

*also see:拙稿「乗り越えるというのは、自己を歯切れよく展開することである ― 『したいならすればいいじゃん』という無理解について」
http://ellizaveth.blog65.fc2.com/blog-entry-890.html

悩んで悩んで(答えは出なくとも)悩み抜いて、もやもやを「抽って」(破って)、自分にとっての春がぱーっと展開されたとき、「草」が生えてくるでしょう。そうして完成するのが《描破》という現象です。「抽 + 草 = 描」。どれだどれだと、たくさんある道や、たくさんある選択肢や、たくさんある未来の「視えている範囲」や「視えていない範囲」のことも勘定して、大人の意見を聴き、親の希望を慮り、理想の自分を参照し、悩み、悩み抜き、それでも「はっきりとした結論」を訴求することはできず、それでも歩まねばならず、揺らぎながら、震えながら、断念しながら、挫折しながら、「私は一体どこに辿り着くんだろう」と誰も答えを知らない問いを何度も試練にかけながら、自分を審問し、世界を問い糾し、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、いつか具体的な場所に《着地する》――その具体を「描」といいます。

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端数としての人生 / 著者:らららぎ - ch18

*「タン」と読むか、「は(し)」と読むかで、意味が異なる《端》。読んでいくうちに分かると思うけれど、僕は「は(し)」の方で使う。だから、「端的」とか「端正」といったときの意味は含まないで書くよ。このお題は「しんがり」を意識して作られたっぽいので、それについては編集長で数学ジャンキーのぶたさんに譲るとします。




 分かりやすいことは善いことである――という退屈な幻想は、《中途半端な存在よりも、キリのいい存在の方が善い》という幻想を連鎖的に生み出す。そういう幻想に賛成して生きている人たちは、自分という人間が「綺麗な数で割り切れる」と思い込み、自分にとっての「端数」を切り落とし、見かけ上の「一人前」を完成させる。

 人間なんて、到底、綺麗な数で割り切れるような存在ではなく、いつだって「約一人」という中途半端さを妥協的に背負い込んで生きているものである。根源的に「半端者」な僕たちは、いつだって《小数点以下の分際として》存在することを余儀なくされている。

 それを理解すればするほど、自己紹介が不能になっていく。《私》という存在は、小数点以下に広大なスケールを有しているため、どうにもそれを言葉で咄嗟に語り出すことはできないのだ。「4.8901213805989102」みたいな、豊かな広がりを持っている「端数な存在」の、整数「4」だけを抜き出して説明することは、なんとも退屈で、なんとも無意味に感じられる。われわれの個性は実数にあらず、いつも小数点以下の有理数に隠されているといえる。

 「顕微鏡を持ってこい、小さい数の大きなスケールを見ておくれ」――そこに僕らはいる。君が大差ないと思っていた存在には、信じられないほど豊かなスケールがある。「4」で知った気になるな。「4.8」で知った気になるな。「約5」にするな。分かりやすさ、それそんなイイですか。

 もうひとつの幻想――「私のアイデンティティは中央(実数)にある」。アイデンティティというのは、いまでこそ「俺はオタクだ」とか、「私はこのサークルの一員だ」とか、「僕はこの企業のために命を捧げる」とか、「ブランド品についてなら何でも知っている」とか、「君のためなら死ねる」とか、「俺はつまらないものが大っ嫌いなんだ、面白いものがないと生きていけないぜ」とか、そういう分かりやすいものに求められるようになったけれど、そんなのは誤ったアイデンティティである。僕らのあまりに個人的なことはほとんど全て、小数点以下の切り捨てられがちな《端》にある。終わりがけていて、隠れがけている、陽の当たらないそこにある。

 空港に行って、お土産を選んでいるとき、どうしても「絶対に誰も買わないだろうな」と思われる人気絶無の商品を買ってしまう。《買い支える》という表現の方が実情にあっている。誰にも買われないだろうものを、大丈夫、僕は気付いているよ、僕は認めているよ、と、まるで自分を鼓舞するかのように購入する。情けなく思えるかもしれないが、そういう切実な世界で生きている。

 他者から見て端数だったり、半端者だったりするからといって、僕もそれを端数だの半端だのに思う必要はない。ドラクエの経験上、端には宝箱がある。ときには災難(ミミック)もある。宝や難や――そういう振り幅の大きな経験が、面白い人生、個性的な人物というものを作り上げてくれると信じている。端というのは、そこに立つものしか知らない世界や環境があるのだ。そこに個人の価値があり、それを伝えていく難儀な仕事が、僕は好きなのかもしれない。

 もちろん、「分かりやすさが善さだ」という美風に酔っている社会に出れば、「面接番号20番の君、そうだよ君だよ。君という存在は5なのかね、6なのかね」と尋ねられる。そういう社会は、これからもしばらく続くだろう。そういうときに「いえ、私は5.329706431892です」と答えるのはナンセンスだ。他人の端数にかまっていられるほど、いまの情報化社会は暇じゃない。だからといって、それを人間関係に持ち込むようなミス(経済的合理性を追求した結果の非合理)を、おかして欲しくないというのが、僕の願いだ。

 誰もが端数を生きている。いやらしく言えば、端数にしがみついて生きている。人間であれば《大差ない》ことなど、誰もが知っていて、その人間というものが増えすぎて、僕らは狼狽する。そこから逃げるために、お金持ちになりたいとか、有名人になりたいとか、イケメンと結婚したいとか、どうにかして《勝ち組的な大差》をつけようとあがく人もあるだろう。「4」のやつが「10」になろうと、スケールはひとつしか変わらない。でも、「4」のやつが、実は自分が「4.638920283746110078」だと気づくことができたら、スケールが18もあったことに気づくのだ。個性というのは、数字の大きさではなく、スケールの大きさなのかもしれない。そして、これもまた幻想である。おわり。

 しーゆーれーらー

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紙の灯りの前のぼく / 著者:らららぎ - ch25


 言うまでもなく、僕と紙は書籍という形で接触することが多い。しかし、必ずしもその事実が「私と紙と読書と」みたいな昭和の文学少女的イメージにつながるわけではなく、むしろ僕にとって、紙は《灯りの存在と暗さを知るための用具》だといえる。

 パソコンをやっていると、何かを読むときの明るさが均一になる。いまも文芸誌の原稿を書いていたり、翻訳をしていたりしたら、夜が朝に変じたようだが、目の前にあるディスプレイの明るさは(ツムツムで放置しているあいだ以外)全く変わらなかった。ちくわさんの突発的長文ツイイトも、つけ麺食べたがっている方のほんわかダンシングライクツイイトも、よく知らない女子高生が冬の寒さを実感しているツイイトも、同じ明るさで読めるのだ。文明が何はともあれ発展したおかげで、仕事の効率が上がったのではあるが、そんなオフィス事務的なことの能率向上と引き換えに、灯りという存在を消し去ってしまっているのだ。

 本を読んでいてとても嬉しいのは、部屋の灯りを減らしておけば、めくるたびにページの照明が変化し、本を持つ角度や読む体勢を変えるだけでも影の形が別様に映り、「そうか光があるおかげで読めているのだ、そしてその光はほんの少しでよいのだ」ということに気付かされる。本を読むためには、(慣れていない人はどうだか知らないが)灯りがほんの少しあればよい。月が明るい日には、月夜の灯りだけでも事足りる。

 紙は光を反射して、《そこにどれだけの光量があり、私の視覚を支えているか》ということをリアルタイムで教えてくれる。だから僕は、本を開くことで、そこがどれぐらい明るくて、どれぐらい暗くて、「その明るさが自分に合っているか」といったことをチェックすることもできる。光環境チェックシートとしての書籍。

 君の部屋は、もしや明るすぎないかい――その問いに、きっと《本》が、《紙》が、答えてくれるだろう。ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー

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自分の代わりを求めてもよい / 著者:らららぎ - ch23


 ぼくらは、どこかのタイミングで、自分には価値がないということを知る。幼い頃に捨てられてしまった子はその時に、大切に育てられた子でも社会に出た時に、あるいは自分よりもすごい人に何度も何度も出会ってしまった時に、自分には価値がないのではないかという問いを生み出してしまう――ぼくらは、そういう《絶望性》をデフォルトで持っているのだ。

 自分には価値がなく「存在レベルで(しかも余裕で)交換可能」だと思い込んでしまう。そう思うほうが明らかに楽だからかもしれない。そしたら最後、あらゆることを「交換可能なレベルで」しか考えなくなり――世界を見たいように見るようになり――本質から遠ざかっていくだろう。

 ここでは、そういう若き幻想をどのように砕いていけばいいかを、ぼくなりに解説していくので、何かの足しにしてもらえたら幸せである。

 考えるべきことは、誰にも引き継げない個人的なことだ。たとえば、極論だが、あなたがお風呂に入り、恋人から電話が入り、途中で上がったとしよう。そのお風呂の続きを妹に頼む、なんてことはできないといえる。すなわち、《入浴は誰にも引き継げない》のだ。

 では、なぜ入浴は引き継げないのだろうか。それは「ぼくとあなたで一緒に積み重ねる」ことができないからである。共通の累積ではないと言ってもいいし、単にふたりの同じ行為の結果は集合しないと言ってもいい。表現は趣味に任せるが、要するに、個人レベルでしかありえないことが引き継げない理由である。

 よく、行けなくなったライブのチケットを譲渡する際に、「俺の分も見てきてくれよな」というが、これは(言外に含まれている意味を無視すると)原理的に無理なのだ。ライブという体験は、「ぼくとあなたで一緒に積み上げる」ものではなく、どこまで行っても個人の経験としてしかありえない。

 科学的知識のように「一般化」すると引き継ぎができるようになり、個人的なレベルで扱うと引き継ぎができなくなる。そのどちらも一長一短で、優劣をつけることはできないが、とにかくそういう違いがあるということを改めて確認しなければならないだろう。

 たとえば、誰にでも引き継げる「一般化された知識」の代表格に、マニュアルというものがある。全くスキルのないバイトでも、商品を売ることができるスグレモノ。マニュアル通りにすれば、だれでも同じにできて、だれでも同じになれる。

 逆に「個人的な理解」というのは、どこまでいっても個人的なものである。俺はここまで理解したので、後はお前がやってくれ、という引き継ぎができない。音楽を途中から代わりに聴いてもらうことができないのと同じように、理解というものもひとりのなかのひとつづきであり、他者に託すことはできない。

 自分が交換可能に感じたときは、(1)自分で理解し、(2)自分で表現し、(3)自分で生産するのがよい。これらは、はからずも「哲学」のやっていることなので、世間では、こういうことを「哲学」とか言ったりする。「経営者の哲学」とか「プロの哲学」とか、自己啓発本で目にしたことがあると思う。学問としての哲学ではなくて、「自分流の理解と表現による生産」という部分を引き抜いて、哲学と比喩するあれ。(学問として哲学をやっている人たちから評判の悪い比喩)。

 アタリマエのことだが、マニュアルは十全でない。いろいろな状況があって、いろいろな対処法がある。そういう《マニュアルには載っていないけれど、絶対に知っておきたいこと》を知っているのは、外でもない《ベテランの先輩》である。ベテランの先輩は交換可能ではない。ベテランは、自分なりの理解を――どうも一般化できないような形で――何度も自分のうちに積み重ねてきているのだ。そういった意味で、哲学者と呼べるだろう。

 哲学者は、分かるだろうか、単独である。マニュアルのような「誰かが作ってくれたもの」を、誰かと共有することはできない。自分だけで理解して、自分だけで表現する。それが妥当だとか、正解だとか、間違っているとか、誰も教えてくれない。孤独で、単独で、いつもひとりなのだ。交換できないということは、単独ということである。

――それが、そんなによいことなのだろうか。
――それが、本当にあなたの目指しているものなのだろうか。

 もう一度、よく考えて欲しい。あなたが「あなたのみ」になる方法はたくさんある。だが、本当になりたいのだろうか。交換できない、単独で、ひとりで、共感したフリをされることはあるけれど、本当に理解してもらえることはない。そんな存在になりたいのだろうか。なりたいならなればいいし、なりたくないならならないほうがいい。

 厳しいことをいえば、代わりがいることに絶望するような人間は、代わりがいなくなって単独になったときにだって絶望するといえる。同じ絶望ならどちらがいいのか考えてもらいたい。偉そうになってしまったが、ぜひ、今までとは違う角度から、いろいろ考えてみてほしい。

ありがとうござました。おわる。

しーゆーれーらー

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ささやかれた言葉たち / 著者:らららぎ - ch6

言葉にとって、ささやかれるという経験は、どれだけ珍しいことなのだろうか。伝言ゲームというメッセージ行為において、私たちが言葉を正確に扱えないのではなく、もしかしたら、言葉たちがささやかれることに慣れていないのかもしれない。

 ささやくことを、中国語では「嗫」(niè)という。これは「口を動かしながら、何度もつっかえること」(呑呑吐吐)を意味しており、そこからためらうことを示すこともある。あらゆるささやきには、どこか「負の目的」があるといえるだろう――つまり、人に聞かれてはいけない、大声で言うには憚られる、あえて確実に伝えてはいけない、みたいなこと。

 誘い受けと呼ばれる恋愛テクニックのひとつに「ささやく」というのがある。それは、「ブスの大声」なら無視できるけれど、「この世界中で、今この場で、おそらく私にしか聞こえないだろう誰かの小さな声」は、どうしても気になってしまうという人間の性質を利用したものだとおもう。あえて確実に伝えないことによって、他者の注意資源を獲得することができる。これはかなり戦術的だといえる。(ぼくの姉の子どもも、口だけ大きく動かして、何かを必死に伝えてるっぽくして、ぼくに「え?」と注意させることを好むテクニシャンである、そしてぼくはそれにまんまとはまって10回ぐらいまでは「え?なんだよー、なにいってるの?」って相手してしまう――ぼくは「ささやかれている」)。

 ささやかれるというのは、そんなに多くある経験ではないだろう。電車でUSBメモリを落としたとき、美しい女性が後ろからぼくに「あの…」―(間)―「USBが…」と、ささやいてくれたこと、あれはとても興奮した。そういえば、汚い話で申し訳ないが、異性が興奮しているときに出すと噂されている声も、でかい声より、ささやくような声の方が好きかもし…(ry)。

 閑話休題。つまり、無目的でささやくことはないのだ。ぼくらはそれを経験から知っている。ささやかれたことには意味があり、その意味の方に集中してしまうため、「ささやかれた言葉の一語一句性」を見失ってしまうのだ。それが正常だと、ぼくは主張したい。むしろ、ささやかれた目的を探らず、言葉を逐語できたところで、それはコミュニケーション不全なのだと強烈に指摘したい。(もちろん目的を探ったうえで、さらに一語一句間違えない人もいるだろうし、その人はそうとう集中しているはずだ)。

 伝言ゲームのミスは、人間主体でみれば、ささやきの機能が果たされており、言葉主体でみれば、そんな珍しいことしないでおくれよ、揺蕩ってしまうではないか、ということだろう。ささやくことで、人間は言葉を重視しなくなり、言葉もまた動揺する。言葉と人間が、ダブルで、複合的に咬み合わないので、ミスって当然ということにしよう。

 え?納得いかないって?――すまんやで。

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数を算えるということ / 著者:らららぎ - ch14

『修羅の国編』に登場した国を統べる三人の羅将の一人であり、北斗琉拳の使い手。「命のやり取りこそ最高の愉しみ」という信念を持ち、今までに自分の命を狙ってきた数多くの修羅を葬っている。 身の回りに自分の命を狙っている修羅や侍女をそれと知りながらあえて付き従えさせ、常に命のやり取りを愉しんでいた。鬚剃りを任せた修羅からの「あなたはそうやって何人の命を奪ってきたのですか?」という問いに対して「百人から先は数えていない」と言ってのけた。
(pixiv百科事典「ハン」より)

私にはいつも疑問だったことがある。どうして私もあなたも「一人」として数えることができるのだろうか。もし私が分裂したら、それは「二人」という数え方をするのだろうか。それとも「半人」という数え方になるのだろうか。川へ出かけていって、「ここにある小石の数を算えましょう」と引率の人が言ったとする。子供たちは同じ数を算えることができるだろうか。ある子どもは、大人から見れば「砂」のような小さいものまで「ひとつひとつ」丁寧に数え上げ、ある子どもは「ぼくが目で見てすぐに分かっちゃうような石は小石じゃなくて大石だよ。でも砂は砂なんだ」と言って、結局「小石というもの」をひとつも数えることができないかもしれない。

プラトンは完全なる「1」というものを考えたが、それが現実にないことも分かっていた。「1」という数は無頼である。ぼくも「1人」だし、きみも「1人」だ。だから二進法が必要なんだけど、じゃあ「ふたり」が一緒になったら、「ひとつ」のカップルとなって、「2」だったものが「1」になる。数学では操作といったりするが、変幻自在だなあ…と、子どもながらに不思議がっていた。

学校でお勉強をするようになって、「ひとつの秒」というものが変わることに驚いたし、「ひとつの惑星」が惑星ですらなくなってしまったことにも天を仰ぎまくった。ソクラテスは、これに対して、「人間は等しいというものを生まれつき知ってるからだ」という。これも、また、驚いた。

中学生のころ、漢字をどこまで崩したら、自分はその漢字を読めなくなるのか実験したことがある。きっとそれは、どこまでが「等しく」て、どこまでいくと「等しく」ないのかを知りたかったのだろう。だけどやっぱり、「ここまでは読めるよ」「いーや、ここまでいったらもう読めないよ」と議論になる。最終的に声の大きい人の意見が通ったり、根拠を出しまくったやつ、詭弁を叩いたやつが、その場の定義を支配してしまう。なるほど、社会だ。

羊が一匹、羊が二匹…眠りにつくような数え歌。前に通り過ぎた羊と、いま通り過ぎた羊と、これから通り過ぎる羊は、「区別されている」という意味を与える。「ひとつひとつ」を何か"として"扱うところに、数の本質がある。

英語の"count A as B"からも分かるように、「~として数える」は「~としてみなす」と言い換えられる。ぼくたちは「として」という関係の操作のために数を必要とする。何かの道具としての「働き」を、自分たちの操作できるレベルに落とし込むために、数量というものがあるのではないだろうか。つまり、それを、「数値化」という。ぼくたちが、数にしようとする、数えようとする、区別しようとする、扱えないものを確かめて扱おうとする、そういう行為を、数値化という。

だから、この御題は、きっと、「私が意味を与えたい、区別したい、価値を認識したい、実体があると思いたい、そう願ってきた無形の事柄は何か」というところではないかと思う。そういう気持ちで書いていくことにする。

閑話休題。

まず最初に思いついたのは、「貸したお金の額」だった。どういう意味で思い出したのかというと、これは私が「あえて数えないようにしてきたもの」だった。その努力の甲斐あって、それを貴重なものだと思っていない。あげたことと等しい、つまり、「無形で無価値なまま放置されているものに等しい」といえる。そのおかげで円満になったことが、おそろく(数えていないので確かめようないがおそらく)たくさんあっただろう。

だから、たとえば親に「あんた誰にいくら貸したの!」と怒鳴られて、とにかく数値化しなければならなくなったときには、便利な日本語「少なくとも」(at least in total)を用いるだろう。「少なくとも10万」とか言っておけば、総額が桁違いであっても答えたことになる。

つまり、あえて数えないというのは、「好意的に疎かにしている」ということで、とてもよい生き方なのだ。

3.11のとき、「死者が何人だ」というニュースが常に流れた。記録的だ!という報道側のメッセージは、何かの記念でもしているかのような違和感を感じた。数を算えてどうするのだ、と。もちろん、テレビの視聴者というのは、多かれ少なかれ、数でも算えてやらないと被害を想像することができない人たちだという、テレビ局側の都合もよく分かる(働いていたので)。ただ少なくとも、「それは数えるべきことなのか」という議論は、どこにもなかったように思えた。

この「数」という難しいテーマに取り組もうと思ったのは、私自身、数えることに無反省に生きてきたからである。この間も誕生日があって、23歳になりました~なんてへらへら数を算えていたけれど、「それは本当にそれでいいのか」と自問することはなかった。

高校生ぐらいのときは、付き合った人数とか、性交渉した人数とか、告白を受けた人数とか、付き合って何年何ヶ月とか、何年生とか、そういう数に本当に無反省に生きていた。手当たり次第数えたし、半年後のバイト代の計算まで努力していた。

最初に数を気にしたのは、金だった。お金を数えていることが、すごく馬鹿らしく感じてきたのだった。お金がないから高校は都立1校、私立1校しか受けさせてあげられないって言われて、母子家庭というものが経済的にどういうことなのか理解したし、母には悪いが、すごく馬鹿らしいなって思ってしまった。(駄目で元々という考えで偏差値的に無理して進学校を受けたら、ちょうど倍率が低くて受かってしまった)。

合格発表の日までは、働くことを漠然と考えていて、高校に行かないでも働けるものって何だろうって、心の準備だけしていたと思う。そこでも給料の計算に励んでいて、今思えば「こんなものを数えたいのではない」と思っていただろう。人生は、何をカウントして来たか、この御題と出会った今なら、そう確信できる。数えてきたこと、ひとつはお金だった。これは本当につまらなかった。

次に、トロフィと優勝メダルの数を算えていたと思う。1人を除くいまの知り合いは全員、ぼくがスポーツ少年をやめた後に知り合った人たちだから分からないかもしれないけれど、もともとぼくは野球をやっており、リーグ戦だろうと、遠投大会だろうと、個人成績だろうと、親としては誇らしい成績をのこすことができていた。過去の栄光。いまは落武者。

そのときの、まったく過去の、メダルやトロフィを数えている自分がいる。何個あるのか分かってるくせに、いじきたなく個数を調べる。さもしい、というのはこういうことか、と客観視して賢者になることもある。これは男が「今まで付き合った女の数を算えることによって、失くしかけた自信を取り戻す」行為と同じ構造のもので、とにかく価値があったのだということを、自分に言い聞かせている。懐古厨のテンプレみたいなものだろう。

友達には「電話帳の数を算える人」とか、「友達の数を算える人」とかいるけれど、自分にそういうのは無い。LINEの登録数も、グループ参加数も、再生数も、コメント数も、マイリス数も、スマイル数(こえ部)も、マイミク数も、フォロワー数も、そういうものは(あえてなのかもしれないが)数えないようにしている。その代わり、ブログのページビューは1000を超えても、10000を超えても数えている。

こうやって一緒に電車に乗るの初めて(1回目)だね」と教えてもらったことがある。あれがずっと頭のなかに残っていて、どうしてあの子はそれに気付いて、ぼくは気付かなかったのだろうか、と。それを「数えてくれた」というのが、すごく嬉しかったのかもしれない。

「いま使っている財布、もう8代目だよ~」と言っている子がいた。すごいと尊敬した。ぼくの財布は、何代目なんだろう。そもそも、たぶん、ぼくは貧乏な母子家庭の宿命的に、姉のお下がりばかりだったので、「私の財布」というのがどこからカウントされるのか分からず、すでに「数え始める」のを見逃してきたのかもしれない。数えることを不能にさせられているんだ、財布を大事にできるわけがない、そう言い訳させてほしい。

お下がりだから、洋服も「私の」がどこで始まるのか分からない。値段も分からない。どうやって大切にしてきたのだろうか。そういうこともあってか、中古というものを数えないようにしているのかもしれない。古本も、数えていない。何を貸したのか分からないし、貸したのかあげたのかも分からない。

なるほど。日記をつけるということは、その日その日を数えるということだったのか。だったらぼくは、「毎日」を数えてきた。ずっと24歳に死ぬと思ってきたら、そういうこともあって数えていたのだと思う。「日にち」というものに、それなりの祈りをささげてきた。「関西に行った回数」なども数えているし、「だれそれと一緒にご飯を食べていて、その子が食事中に笑った回数」などを数えるときもある。

ぐだぐだ思い出しながら書いてたからまとまりなんてなくなってしまったけれど、「記事のまとまり度数」なんて"数えずに終わりましょう"、ね。

ありがとうございました。

おわり。

しーゆーれーらー

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選ばれる権利を持ちながら / 著者:らららぎ - ch13

ずっと疑問だったことがある。
ー 宝くじがギャンブルというのなら、破産する人がいないのはなぜだろうか

他のギャンブルでは、破産した話をよく耳にする。射倖の煽度が違うからだろうか。「今日の損失を取り戻す」ということが、宝くじにあるのだろうか。

その違いのひとつとして、参加の仕方があると思う。

競馬であれば、騎手や馬を選ぶ。(プロは蹄鉄師を選ぶ)。
パチンコであれば、釘を見抜いて台を選ぶ。(かなり運だが)
スロットであれば、目押しという選択技術がある。(かなり運だが)。

公営ギャンブルも、スポーツ賭博も、カジノ系も、基本的に「選ばせれる」のが基本姿勢である。つまり参加者は「選ぶことで勝つこと」を目指している。

宝くじの発祥は「みずほ銀行(日本勧業銀行)の特殊な債権」だったという。この債権を買っておくと、"還元金"の他に"割増金"という莫大な利子の抽選権利を手に入れることができ、そのシステムから「割増金」の部分だけが切り取られ、現在の「宝くじ」(債権を買うけど還元金は無く、その代わりに高額な割増金だけが当たるくじ)になったとされている。

なるほど、もともとは「違うものを買ったらラッキーで付いてくるもの」だったのだ。つまり、宝くじの本質は「選ばれるために何かを介しているということ」だと、ひとまず言えるだろう。

それが当時は「債権を買う」というものだったが、今では無くなってしまったために、なるほど「日頃の行い」(善行)とか、「見えない権力への忠誠」(風水)とか、何を介するかは自由になっているようである。そして、参加者にとって、何かを介さねば「選ばれる」ことはなく、宝くじよりも「介するもの(こと)」の方が大事になってくるといえる。

破産しないはずである。
そもそもこれをギャンブルと言うのだろうか。

宝くじは「介すること」を教えてくれる。きっと胴元が自治体ということも影響しているだろう。自治体は、確かにお金がほしいだろうが、それ以上に自治体の存在を知ってもらおうともしているよう感じる。「これは宝くじの収益によって~」という枕詞には、どこか自治体としてのプライドというか、我々は市政であり、我々は市民であるという共同体的な自尊心を感じる。

宝くじは、市政にとって誇らしい代表のようなものなのだ。

そして、宝くじは、「当選」を与えるものである。当選を与えられた人は、これより「当選者」となる。何者にもなれない「一箇の市民」というものが、日頃の行いや風水に従うことによって、つまり「善良な市民」になることによって、「当選者」という存在者になることを願う。それが宝くじの周辺にある「」である。

宝くじはすぐ買えるが、すぐには結果が分からない。その間に善きカルマを積むことができる。いつもより部屋をきれいにしてみたり、いつもより元気に挨拶してみたり。宝くじを所有しているというのは、「選ばれる権利を持ちながら生活する」というきわめて尊くて、きわめて貴重な時間を得ることだといえる。

あなたは、「選ばれる権利を持ちながら生活したこと」がどれだけあるだろうか。学校の生徒会選挙期間中か、内定待ちか、プロポーズを宙づりにされているか。基本的には不吉でうしろめたくて自信のない「待機」しかしたことがないのではないだろうか。しかし、宝くじはポジティブである。待機している期間中でさえ、善行を積むことができる。(積んだところで当たらないという退屈な確率主義は勘弁してください)。

確率主義も、科学主義も、「自分の外部にある強い影響力」を信じない。「ツキ」とか、「運勢」とか、そういうものが本当に無いと言えるだろうか。ギャンブルの本質というのは、そういう「外部の得体の知れないやつの影響を意識すること」である。そうすることによって、人は謙虚さも知る。

「必勝法」などに頼ろうとする確率主義が、どんどんと横暴になっていくだけの話であって、ギャンブルをギャンブルする人は「運あるいはツキ」の前で謙虚になる。宝くじは、そういう要素が非常に強い。確率的にはふざけているし、自治体に持って行かれる取り分も暴利と呼べる。だけどみんが「宝」と呼んでやまず、それを富の象徴としようと必死になるのは、「お金」や「確率」では計れない<何か>がそこにあるからではないだろうか。そういう疑問を提示して、終わりにしたい。

ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー

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