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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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chiasma29:「私の上下関係――後発を認めたのはいつのことですか」

chiasma29:「私の上下関係――後発を認めたのはいつのことですか」
・「上下関係は逆転する。」(こはく)
・「『こんちくしょう、』精神」(てだ)


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「三位一体的な。」 / 著者:こはく - ch3

「琥珀、久しぶり。」



『・・・ああ、司か。』



「そう、僕。

最近話してないから忘れられてると思ってたけど、覚えててくれた。」



『そんなことあるわけないだろ。

お前を忘れるなんて、とんだ親不孝者じゃないいか。』



「あはは、親か。」



『親だろう、俺も夏希もお前がいなかったらこの世にいないんだから。

まあ、〈この世〉っていうのは少しおかしいかもしれないな、俺がいるのはお前の中だけだから。』



「そんなことないよ。

ネットなんかじゃ琥珀はいろんな人と接していて、いろんな人が琥珀のことを知ってる。

本当は司なんだけど、みんなは琥珀だと思ってる。

もちろんネットでは琥珀なんだけど、それは司なんだ。

不思議な感じだけど、なんだかんだで琥珀もこの世に生きてるんだよ。

そう、親というか兄弟みたいな感じかな。

夏希だってそう、あまり表に出ないからみんなは知らないだろうけど。

夏希がいるから僕は今こうして生きていて、もしあの子がいなかったら全く違う人生になってたはずだし、夏希も僕らと一緒にこの世に生きてるんだ。」



『そう、そうだな、俺たちは兄弟だ。

親子で、兄弟で、友達で、いろんな関係だ。

それが俺たちだ。』



「そうそう、使い方違うけど三位一体みたいな感じで。」



『ははは、三位一体な。

それよりかゼル伝のトライフォースでもいいかもしれないぞ。』



「ゼルダとリンクと、あとガノンドロフだっけ。」



『そうそう』



「じゃあガノンドロフは琥珀だな」



『おいおい、やめてくれよ!』



つかさとこはくとなつき。

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数百ヘルツの音に貫かれる / 著者:セカペン - ch21


 「好きな言葉」と言われると、どうしても「作品の中の言葉」ばかりが頭をよぎる。
 今回はそれに屈することなく、自分たちの耳できいて、心に残った言葉を紹介しようと思う。

「世の中にこれだけ本があるのに、自分の名前の本が、自分が書いた本が一冊もないのはおかしい!」

 我が母の言葉。

 幼い頃からいつもどこかに出かけると言えば、本屋だった。その言葉を初めて聞いたときは漫画にしか興味がなく、「自分の名前の本」がどうやってできるのかを知らなかった。

 母は小説を書かない。しかし、パソコンの説明を分かりやす書く、いわゆるライターだった。僕らは母の奏でるタイピング音を聞きながら生きてきた。

 小学五年のときに、ふとしたきっかけで小説を書き始めた僕らに、母が「僕が小説家にならなかったのは、恋愛経験なんてものがないからだ」と言った。あの頃は、「そんなものがなくても書けるやい」と思っていたが、今になって思うと、確かに大事なものだった。

 本屋の本棚を見ると、その言葉を口にする。その本棚はいつも新潮文庫が置いてあるコーナーだった。三島由紀夫に心酔していた母は、もしかすると小説が書きたかったのかもしれない。

「俺、この一日だけでおまえらのことを一生の友だちみたいに思うわ」

 小学六年生の頃、冬に学校で祭があっているときにたまたま会った友人と三人で遊ぶことになった。一人は元々一緒に遊んでいた友人で、もう一人は学校でばったりと会ったクラスメイトの男子だった(以下、H君)。そのとき、僕と友人はウイスキーボンボンを買って、学校の友人たちに半ば無理矢理食べさせて「うわーなんだこれ!」ってなるのを眺めて遊んでいた。

 その後、その三人で家の近所で色々と話していた。学校の友だちのこと、先生のこと、誰が誰のことを好きだとか、誰が誰のことを嫌いだとか、そんな些細なことだ。

「もうすぐ転校するんだ」

 夕暮れになって、H君が言った。その頃の僕らにとって、「転校」と「今生の別」は一緒のようなものだった。

「どこにいくの?」と僕の友人がきいた。

「わかんね。親のことだし。母ちゃんがどこに行くかだな」と、H君。

 当時の僕らは、母さんがどこに行くかということの意味の重さを知らなかった。

 門限が近い。上記の僕を貫いた言葉は、そんなことを思い始めたときに、H君が言った言葉だ。H君はその後、近くにあった比較的整った石を手に取って「俺はこれを持って帰って、今日のことを思い出す」と言った。

 彼は今でもどこかであの石を持っているのだろうか。

「誰かが私を好きだと言っているのか。なら、私はまだ生きていてよいのだな?」

 高校時代に、友だちと他愛もない恋バナをしていた。そのときに、「○○が君のこと好きなんだって」ということをその友だちに言ったときに、友だちが言った言葉だった。

 僕の知る限り、その女の子は変わっていた。勉強ができて、歌が上手くて、繊細な子だった。ブルーバックスを愛読書とし、小説はあまり読まない。そして、僕のことを「妖怪さん」と呼ぶ。僕が当時知っているその子については、このくらいだった。

「私はまだ生きていてよいのだな?」

 その言葉をきいて、僕は彼女について知った気になっていた自分に気づいた。それどころか、僕は彼女について何一つ知らなかったのだ。平坦な口調だった。平坦だったからこそ、その子にとっては普通のことなのだということが分かった。

「まあ、良いことならなにより」

 僕はそんなことを言った。特に深いところを言わないほうがいいだろうと思った。彼女は「うむ」と返答した。

「しかし、私のいったい何が好きというのか。物好き過ぎるだろう」

 そういうことは、本人には決して分からないのだろう。僕が彼女にできることは何もない。僕にできることは、どうか幸せにと願う事だった。
 
「男と女が話しているシーンに豚を書く必要はない」

 文芸部の恩師の言葉。車に乗って県大会の会場に向かっているとき、二人で延々と小説を書くことについて語っているときに先生が発した、熱のこもった言葉だ。

 その当時、先生は迫り来るラノベの嵐に困惑していた。先生が言うには、僕が入る前の文芸部では、ラノベの短編を書いてくるものが多かったそうだ。

「そのライトノベルというやつもな、完成していればいいんだが、不完全なんだ。あたかも、『続きがあります!』と言わんばかりの作品でな。登場人物の設定も何もかも丸投げで意味がわからん! 俺は読んでいてあれほど辛いものはなかったぞ!」

 そんな文句を言っていた。

「短編、しかもショート・ショートとなりますと、難しいですからね」

 見知らぬ先輩のことを考え、僕はそんなことを言った。

「どうでもいいことをつらつら書き、本編というものに何の関係のないものばかりだ。まったく、何が本当に書きたいものなのか分からない。第一な、男と女が話しているシーンに豚を書く必要はない。だが、なぜか豚を書きたがるんだよ。これは俺には理解ができん!」

 握ったハンドルを殴らんばかりの勢いで、先生が言った。「そういう時代なんですよね、今は」と言いながらも、僕は内心愉快な気持ちだった。僕はそういう作品を読めない人間であり、先生の気持ちのだいたいが理解できたからだ。

「おまえはそういうの見て面白いと思うか?」ときかれ、僕は「全然。ものにもよりますが」と答えた。

「だが、これも時代なんだよなぁ」

 先生は寂しそうに言った。きっと先生は昔も今と変わらない純文学青年だったのだろう。現代の小説をふりかえり、これから先生はもっとこうした気持ちを抱くのかもしれないと感じた。

 純文学の書き方は廃れてしまうのかもしれない。そうした恐怖が僕の中にもいまだ燻っている。読まれない作品ほど、悲しいものはないのだから。

 その後、先生と語った結果、先生からは「おまえは産まれてくる時代を間違えているな」と言われた。僕もそう思います。








(編集・校閲責任:らららぎ)

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画用紙にうつる私 / 著者:セカペン - ch25

白【しろ】:純粋さ、無垢、善、透明感、無、狂気。

 絵を描くための画用紙はなぜ白いのだろう。
 そう考えながらじっとその白を見ていると、だんだんと画用紙の中の何かに見られている気がした。

「君は優しい人だね」

 高校一年の美術の時間に、美術の先生が後ろから唐突にそう声をかけた。そのときの授業では「目の前にあるものを自由に描く」という課題が出され、私の目の前には花瓶に活けた花があった。私が選んだ画材は、一番なじみのある色鉛筆だった。

「茎の色に対して、花の色が薄い。ずいぶんと優しく色鉛筆を使うようだね」

 先生の目線に合わせて絵を見ると、確かに紙に下書きのように薄く描かれた花がある。私は少し恥ずかしくなり「ありがとうございます」と返した。その後、先生は「じゃあ、ちょっと壊してみようか!」と言って、いくつかの色鉛筆や絵の具を置いて別の人の絵を見に行った。

 優しい人だね。――その言葉だけが頭に残った。

 いったい、絵だけで私のなにが分かるのか。内心ばかばかしく思いながら、先生の指摘通りに色鉛筆を強く握った。が、その色鉛筆を画用紙に押し当てることができなかった。それどころか、強く色をつけることが、まるでカッターナイフで人を切りつけることのように恐ろしく感じられた。

 この出来事以降、私はしばらく絵を描くということから離れた。次に色鉛筆を握るのは、大学三年の春になってしまう。

「絵を描くと、すっきりするの。もやもやしていた気持ちとかそういうものがなくなっていくの」

 いつも教室で絵を描いている子がそんなことを言っていた。そこから考えると、”絵を描く”という行為にはカタルシスのような効果があるらしい。もやもやした感情を画材にのせて、紙の上に落とす。紙に感情をなすりつけ、自分と切り離すことで浄化される。その子にとっては、きっとそういうことだったのだろう。

 ならば、私はどうなのか。私は色鉛筆に何をのせたのか。答えはおそらく”自分自身”だろう。

 画用紙に自分自身を残す。画用紙の上にのった私は、存在感が薄くて、弱々しくて、淡白で、なにもない。その無意識に目をそらしていた自分を在り在りと見せつけられる。私が見たくない私を見つけてきて、反映してくる。

 それを否定するように強く色をつけようとしても、上手くいかない。それは「本当の私」ではないから、色をつけることができない。それでも無理をして色をつけるとするならば、その「本当の私」を否定して、壊して、跡形も残らないようにしなければいけない。だけど、無理矢理つけた色の絵も、また「本当の私」として、私を見つめているのだ。

 淡白で、薄情で、空虚で、純粋で、優しくて、味気なくて、正しくて、狂っていて、無茶苦茶で、傷つけることが苦手で、弱くて、何もない。

 画用紙は色鉛筆から色をとりながら、そんな私を見つけてくる。

 私にとっての画用紙は「鏡」だった。それも、外面ではなく内面をうつす鏡だった。どれだけ自分を繕おうとしても、画用紙までその意思が届かない。画用紙には全て見透かされている。 

 それでも画用紙に向き合う。
 私はこの画用紙に「私」を試されている。







(編集・校閲責任:らららぎ)

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【企画】書籍化


 文芸誌を作ろうとなったときに、印刷所をたくさん探しました。「栄光」いいなあ…「ねこのしっぽ」いいなあ…なんてことをしていたのですが、そのときからずっと印刷所に意識を向けていて、こういうのを「カラーバス効果」というのでしょうか、たまたま「ONE BOOKS」(redtrain.co)なる印刷所の情報をツイッターで知り、なんと1冊から同じ単価で印刷できるよーというのを売りにしているようです。(直接は関係ないですが、会社トップページのHOMEも発注も問い合わせもリンクできていないのは、おそらくサイトリニューアルしたときに消し忘れた残滓なんだろうと思うと切ないです)。


 赤電車というと、ツイッターの中の人が北国出身ということもあって、もう引退した北海道の711系のことを思い出しますし、イタリアのフレッチャロッサも鮮やかな赤い電車だったような気がします。由来、気になるなあ…。

 与太話は置いといて、『ONE BOOKS』さんの力を借りて、2015年の2月初旬に、この共同ブログ『みんなでしんがり思索隊』の書籍化を試みております。完全に私用で1部2部なのですが、もし「私の記事は印刷しないでください」という方がおりましたり、「ちょっと変更したいところあるんだけど」という方がおりましたり、「私にもください」(おそらく700円+送料)という方がおりましたら、ちょろっと教えてください。

 全ての記事を印刷することは紙面の都合上かなり難しいので、拍手数、PV数などを基準にして、(もちろん最低でも1人1記事は確実に入れていく方向性のもと)独断と偏見で記事を選んでいこうと思います。2月に出すということは、1月末には編集が終わるはずなので、12月・1月に書いていただけた記事も入れていくつもりです。まだひとつも書いてないよ〜でも載せて欲しいよ〜という方は、この冬休みを利用して、どうぞ執筆の方よろしくお願いいたします!

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chiasma28:「与えられていない言葉で考える<1>――《地球》」

chiasma28:「与えられていない言葉で考える(1)――《地球》」

7:3の割合なのに”地球”って変じゃね?」(めがね)

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紙はなんでも欠けている / 著者:ちくわ - ch25

ぼくと紙について。
ぼくと紙の、関わりについて。

紙に関わるとはどういうことでしょう。それは、紙を紙にすること、ではないでしょうか。ぼくが紙に寄り添ったとき、初めて紙が紙となる。そんなはたらきかけを、関わると呼ぶのではないでしょうか。

何かに「関わる」というのは、欠けている部分にこちらが手を加えて、完成させることなのです。

ラブやで~には、人の声が欠けています。(*) だからラブやで~に関わるとき、ぼくたちはそれを声に出します。声に乗って「ラブやで~」が発されたとき、初めて「ラブやで~」は「ラブやで~」になるのです。
漫画には、時間が欠けています。(**) だから漫画に関わるとき、ぼくたちはそこに時間を重ねて読みます。そこに読者なりの時間が流れ始めたとき、初めて漫画は漫画になるのです。
劇には、視点が欠けています。だから劇に関わるとき、ぼくたちは"観"客としてその劇に参加します。「この席から、この距離で、この角度で、この音の届き具合で、見たお芝居」という見方が生まれたとき、初めて劇は劇になるのです。

ぼくたちが何かに入り込むことができるのは、そこになにか足りないものがあるからです。それをぼくたちが補うことで、ぼくたちはそれに「関わる」ことができるのです。


紙というのは、そんなふうにぼくたちが入り込めそうな「ポジティブな物足りなさ」にあふれていて、それゆえに、関わり方も無数にあります。

たとえば、紙には「位置」が欠けています。
だから、ぼくはそれをどこにでも置くことができます。

紙を触るのが好きでした。紙は、ひっくり返すことも、斜めに置くことも、ぶらさげることも、やわらかく曲げて固定することだってできます。パソコンや携帯に表示された文字は、いつだって画面に収まっていてそこから動くことはありませんが、紙は位置も、形も、自分が決めることができるのです。そのせいで紙の山の中に埋もれ、どこにやったかわからなくなるわけですが……。

たとえば、紙には「立体感」が欠けています。
だから、ぼくはそれに高さを織り込んで(折り込んで)やることができます。

紙を折るのも好きでした。一歳だか二歳だかのころ、ぼくは一日に何百機も紙飛行機を折っていたのだと、聞かされたことがあります。折り紙も好きです。小学生の頃に折り紙の本を読んで、いつか悪魔や竜を折ってやろうと思っていました。けっきょく今でもまだ蛙しか折れないので、蛙しか折りませんが、一匹折れば満足するので、それでよいのかもしれません。箸袋で蛙を折ると、蛙は箸置きにもなりますね。箸を守っていた紙と、ぼくの<折る>という関わり方が組み合わさって、箸袋は箸置きになるのです。

たとえば、紙には「広さ」が欠けています。
だから、ぼくはそれに広さを与えてやることができます。

紙に描くのも好きでした。小中学生のころ、弟だけに読んでもらうマンガを、ひたすら描いていました。続けて練習したことがないので、人に見せられるようなものは描きませんが、自分で描くぶんには、紙と鉛筆さえあれば何だって描けるというのは素晴らしいことですよね。限られた紙の中に、海だって山だって、地球だって宇宙だって、無限に近い広さを押しこめることができます。描き終えることのできる小さなスペースだけを有する紙、そしてぼくの<描ききれないはずのものを描く>という関わり方が組み合わさって、キャンバスは絵になるのです。

たとえば、紙には「言葉」が欠けています。
だから、ぼくはそれを言葉で埋めることができます。

紙の上に文字を書くのは大好きでした。高校生になったばかりのころ、一冊のノート(***)を数人の友人で回しながら、お題を決めて1ページずつ掌編小説を書いていました。左に小説、右にみんなの感想……あずき色のリングノート。今でもぼくの部屋(のこのうずたかく積もった紙の山の中のどこか)にあるはずです。

頭で考えるのでもない、携帯で打つのでもない、パソコンのキーをタイプするのでもない、言葉を紙に書くというのは不思議なものです。紙には摩擦があって、画数の多い字を書くには相応の時間がかかりますね。要するに、現実世界で鉛筆を動かすための物理的なルールにぼくは抗えないわけで、なんだか「ぼくが書いている」というより、「ぼくと紙が書いている」と言うほうがしっくりきます。そういえばある先輩は、紙に言葉に書くことで、情報処理速度を落ち着かせて思考のオーバーヒートを止めると言っていました。じっさい、紙の上につらつらと文字を書くことは、何かのリズムを作っているように感じられるときがあります。思いついた言葉をリズムまで含めて書きとめたり、難解そうな文章や数式を書き写してそのリズムを掴んだり。そういったときに紙と鉛筆はぴったりだと思います。現実にでーんとある紙の存在に、ぼくの<言葉を書く>という関わり方が組み合わさって、紙はぼくの世界になるのです。


そういうわけで紙というのは、真っ白で、薄っぺらくて、面白味もなさそうな形でぼけーっとしていて、ポジティブな物足りなさにあふれています。抜けていると感じたものをそっと足してあげれば、どんな関わり方だって許してくれる、そんなほんわかした空気を紙は持ち合わせているのです

色が欠けていると思うなら、色を塗りましょう。
物語が欠けていると思うなら、物語を綴りましょう。
運動性が欠けていると思うなら、キムワイプ卓球をしましょう。

さて、今日は、紙のどこを埋めようか。

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<註>

*
隙間だらけだから、人の気持ちや体温が入り込みやすくて、馴染みやすいのがラブのいいところです。わかりやすくきらきらしているわけでもなく、また隙間が多いから変形しやすいので見失いがちになるのが困っちゃうところですが、それこそ「ラブやで~」の一言で、「あ、そうだった、ラブだった!」とラブに立ち返ることができます
「ラブやで~」の連鎖 / 著者:菖蒲 - ch1



**

***
春先に、このノートの話をらららぎさんとしていました。何それ面白そう、ブログでやろうよ、みたいな話になったのか、どうなのか、はっきりとは覚えていませんが、そんなこともあって生まれたのがこの ― みんなでしんがり思索隊 でした。ここは紙ではないけれど、ぼくにとっては紙のずっと先にあった場所だったりするのです。たくさんの方が参加して下さって、そしてたくさんの方が訪れて下さっていることを、本当に本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。ちくわでした。

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