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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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*きまぐれ索引(ら〜ん)*

《ら行》(ラブやで〜――ロマ――。)




【ラブやで〜】(らぶやで〜)――寝返りレタスさんの造語(新規概念)。

 明確な定義自体はないが、文芸誌『あみめでぃあ』に寄稿された『@各位 ラブやで〜』では、「ラブはひとつの人間的概念」「ラブとは人と人をつなぐ体温的姿勢のこと(あるいはそれを築きあげる装置)」「割り切れないものを割りきらずに受け入れること」「自分にとって不都合なものと向き合うための心構えをさせてくれる装置」「プライドを乗り越えるもの」「(ラブやでとは)相手の手元に置くような、控えめで《念押しの形でありながら全く押さない念押し》の役割を持っている」「温かくて鈍くさくて気取らない関西のオバチャン的なローカル感と空気感を持っている」「生き急ぎがちな人のブレーキ」「ラブな関係を築きたいなという宣言の形をしていない宣言(受け取らないことも可能な非明示的メッセージ)」などの言葉で説明されております。

私が大好きな法則…それは 、「ラブやで~」って言ったら「ラブやで~」ってなる法則です。
(「ラブやで〜」の連鎖 / 寝返りレタス)

「ラブやで~」って言うのは、なんていうかこう、愛じゃなくてラブって言っちゃって、しかも関西弁で、しかも波ダッシュ(~←これ)までついていて、ゆるーいかるーい言葉のようなのですが、まずこの「ラブ」というのが肝心要なのです。 
(同上)

【ロマ】(ろま、じぷしー)――主にヨーロッパにいる北インドの移住民族。外名あるいは蔑称としては「ジプシー」。
 とはいっても、民族を定義することは極めて難しく(ヨーロッパはどこの国を見ても人口の1/5ぐらいが移民ですし)、いまも多くの誤想や思い違いなどがあるらしいです。
 アメリカや日本は、ヨーロッパの「ロマ差別意識」に無関心ですが、最近ではEU内でかなり問題になっているそうですね。ホロコーストの迫害事件などからずっと、印象悪いようですから。
 そんなロマの「自由の悲痛」が炎魂的に(soulfully)溢れだしている音楽が、ロマ音楽というものです。以下にジプシージャズと呼ばれるジャンルのロマ音楽を載せておきますので、ぜひ聴いてみてくださいませ。独特で自由なリズム(主に7/8拍子とか、9/8拍子とか使います)、滑走するようなテンポ感のある非意味的に連続した音の群れ、最高速度の魂のうねり、とても素晴らしいものです。

・Tchavolo Schmitt - Valse à Dora


・Latcho Drom - Taraf de Haidouks


ロマを歌わせるのは望郷の念であると聞いたことがあります。帰る場所を求めて歌うのだと、定住しはじめると歌うのを止めてしまうと、 そう聞きました。
(好きなもの の ひみつ / ネコ)

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*きまぐれ索引(や〜よ)*

《や行》(夕暮れ――善い――陽気――。)



【夕暮れ】(ゆうぐれ)――太陽が水平線の方へと沈み、遠くなっていき、太陽光にある長い波長の赤だけが残り、空が赤色に見えるその短い時間帯のこと。

 赤は人を不安にさせたり、注意力を下げたりすることがあるそうですね。そこから「危険だ、安心できるものが欲しい」と判断がくだされ、帰宅願望が強まり、俗にいう「夕暮れ症候群」になるのかもしれないと考えられております。  
 
またノヴァーリスという哲学者は、「哲学とは、家に帰りたいと思う気持ちのことである」と言っていましたが、哲学の色は赤色なのでしょうか。

ほら、高いところでちかちかと点滅するあのひかりです。 夕暮れ、日が沈むときになると、仄かに輝きだすあのひかりのことです。
(好きなもの の ひみつ / ネコ)

【善い】(よい)――望ましい状況であること。

 「何が善いのか」を考えるのが規範倫理学と呼ばれる学問ならば、逆に「じゃあ善いとは何か」を客観的に考えるのがメタ倫理学と呼ばれるものです。
 始祖ムーアは「善いは定義できないが、善いものは直観によって知ることができる」としましたが、最近では「善い(good)とは、行為主体が持っている目的に対する手段の有用性である」という定義も最近では出てきています。
 人類はまだ「善いとは何か」について、よく分かっていないということです。もしこれを読んでいて、規範倫理学に興味がある方が、ぜひ倫理学者になって、さらに厳密な定義を作ってください。お願いします。

「自分がもともとどれだけ豊かに許されたかを思い出して相手を祝福しよう、自分を害するやつが裁かれることを求めながら日々を険悪に生きるのはあまり善いとは言えない。そんなことは神(教会)に丸投げして、あなたは自由な心で生きなさい、あなたはそうして良い人なのだ」ということである。
(人を呪わば穴二つ - シャッフルされる主語 / らららぎ)

【陽気】(ようき)――天候などが温暖である様子。天理教における「陽気ぐらし」は、昨日の後悔をせず、明日の不安をやめ、今日の喜びのなかで生きようという人生目標のこと。

 もともとは、古代中国哲学における「陰と陽」(阴阳)の概念です。陰は遠心=拡散(の結果)、陽は求心=凝縮(の結果)を示しています。対立している概念でありながら、並行している概念でもあり、日本語のイメージだけで理解しようとすると難しいでしょう。
 たとえば、お互いが影響しあって成り立つ概念なので、陰は「遠心の結果として陽性をふりまく」(温かい)、陽は「求心の結果として陰性を獲得する」(寒い)ので、日本語の絶対的で固定的なイメージとは逆の部分もあります。

「ら」は陽気と歓楽を瞬時に生成し、言語空間の音楽性を整える。
(調音点で活躍している音の群れ / らららぎ)

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*きまぐれ索引(ま〜も)*

《ま行》(免罪符――。)



【免罪符】(めんざいふ)――許してもらうための行いをした証(許されるための権力的な物的証拠)。

 キリスト教圏には、「みんな罪あるよね」という共通認識があり、それを神が赦しているという構図が常にあります。神が赦してくれてるので自由になれるのです。  たとえば、あるとき誰かが盗みを働いてしまったら、その罪悪感から解放されるために教会で「懺悔」(告解)します。そのときに「教会の床を掃除しなさい」とか、「聖書のどこどこを毎日唱えなさい」という免罪符(赦してもらうための行い)が指定されました。
 しかしキリスト教は、「十字軍」という侵略戦争でお金を使いすぎてしまったために金欠だったので、掃除や聖書なんてやらせずに、「所持金を寄付しなさい」みたいな風に言いつけをかえました。そのとき発行されていたものを「贖宥状」といい、それが「お許しのチケット」のようになりました。
 ちょうど活版印刷という技術の台頭と重なり、発行しやすくというのも流行の理由になるかもしれません。とにかくそこから、「~することを許されるための…」というのを免罪符と比喩するようになりました。

いろんなことに興味があるのです、というセリフを免罪符に、当時のぼくはのらりくらりと現在や未来の話を避けていた。しかし、いろんなことに興味があるという言葉は、この歳になればもはや、何にも興味を持っていないという言葉と等価であることにも、うすうす気づき始めていた。
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)


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*きまぐれ索引(は〜ほ)*

《は行》(破天荒――ハレーションする――フィールドワーク――封建的――。)



【破天荒】(はてんこう)――もともとは中国語で「前无此例,事情头回出现」(後にも先にもそんなことするやつはいなかった、ということ)という意味。

 中国がまだ宋という名前だった時代の『北夢瑣言』という話集に出てきます。科挙というすごく難しい国家試験の合格者が、ある地域からは100年以上も出ておらず、その地域は「天荒」と呼ばれておりました。そこにある男が出てきて合格し、天荒を破ったということから「破天荒=前代未聞」という意味につながりました。
 平成23年度の文化庁の調査では「破天荒=めちゃくちゃなことをする人」だと勘違いしていた人が7割近くあったらしく、すでに誤用の域を越えて、新しい語義として使われているようですね。

中学高校の恩師に、なかなかに破天荒な人物がいた。理学部を卒業した後、別の大学の文学部を卒業したという経歴だけでも十分破天荒だが、普段は生徒を追いかけ回し、授業では好きなことを言い、定期試験では中学2年生にセンター試験の改題を解かせるという、なかなか楽しいことをやっている人物だった。
(恩師の教え / ドーナツ)

【ハレーションする】(はれーしょんする)――ハレーションはもともと光学の専門用語で、フィルムに入った光が強すぎて(露光して)、光の輪っかみたいなもの(玉響)ができてしまったり、光の線(スミア)ができてしまったりして、ピントがぼやけること。

 私たちの使っているカラーフィルムは、多層乳剤発色という難しそうな名前の現象方式をとっており、上から、保護層>感光乳剤層>ハレーション防止剤>フィルムベースという構造をしています。この一番下にあるチョー平らなトリアセテート(フィルムベース)まで光が進入して、反射してしまい、もう一度、感光して(作用して)しまうことをハレーションと言います。
 似ている現象に「レンズフレア」というものがありますが、比喩としては、「ハレーションを起こす」(強い何かによって物の性質がぼやけること)などがあり、ここでは美術系の「緑と赤などの補色同士が隣り合って、色が干渉し合うこと」に近い語法だと考えることもできるでしょう。
 いずれにせよ、光が入りすぎて、ぼやけて曖昧になり、不明瞭、不鮮明、ちんぷんかんぷんといった状態になることを示す比喩です。

チカチカと光る画面を見ていると頭がハレーションしてしまうんでしょうか。
(自然体 / 水無月 紫苑)


【フィールドワーク】(ふぃーるどわーく)――文献を渉猟して読むだけではなく、実際に現場に出向き、その環境でしか見つからない視点や視座、あるいは考え方や問題点などを求めること。英語では「field research」(フィールドリサーチ)という。

 人類学者のエスノグラファー(フィールドワーカー)という人たちがやってることで、社会学や建築学にも応用されています。フィールドワークは帰納的なアプローチなので、たまに失敗することもありますが、一流の人類学者たちは、透明人間のような存在となり、できるだけ主観をはさまず、事実(一次的なデータ)を大切にしようと心がけております。
 その文化に共感的になることも、批判的になることも大事で、そのバランスの取り方も難しく、文化の担い手とのコミュニケーションや、「自分なりに考えてしまう」ことへの制止など、かなり難しい学術研究の方法とも言われていますね。

フィールドワークの帰り道である。遠いところを指定されよくわからない路線に乗るはめになり、案の定、その日の調査内容も私にとってはつらいもので、その日はフィールドワーク先で大泣きした。それで、よく知らない街で、よく知らない路線の駅へ向けて、一緒にフィールドワークをしていた友人と歩いて帰った。
(歩いて帰る道 / ドーナツ)


【封建的】(ほうけんてき)――封建制度の構造的な比喩。

 日本では鎌倉から明治維新まで、将軍(偉くて強い人)が家来に土地を与える代わりに、忠義を誓ってもらう制度がありました。その家来は、その土地で農民を支配して、年貢とか色々なものを受け取ることができます。
 そういった分け受けた土地のことを、中国語で「封土」といい、そこに領土を「建てる」ということで《封建》と呼ぶのですね。また、この制度だけでは商人と農民がコロコロ変わってしまうため、「士農工商」というルールができました。とてもシンプルで「農民の子は農民、商人の子は商人」というもの。
 ここから、「上の支配は絶対で、下から上に物申すことはできない体制」のことを《封建的》と比喩で説明するようになりました。

中学高校のころ(中高一貫の女子校)では、封建的な部活の上下関係という秩序に耐えかね、よくトラブルになっていた。
(恩師の教え / ドーナツ)

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*きまぐれ索引(は〜ほ)*

《は行》(破天荒――ハレーションする――封建的――。)



【破天荒】(はてんこう)――もともとは中国語で「前无此例,事情头回出现」(後にも先にもそんなことするやつはいなかった、ということ)という意味。

 中国がまだ宋という名前だった時代の『北夢瑣言』という話集に出てきます。科挙というすごく難しい国家試験の合格者が、ある地域からは100年以上も出ておらず、その地域は「天荒」と呼ばれておりました。そこにある男が出てきて合格し、天荒を破ったということから「破天荒=前代未聞」という意味につながりました。
 平成23年度の文化庁の調査では「破天荒=めちゃくちゃなことをする人」だと勘違いしていた人が7割近くあったらしく、すでに誤用の域を越えて、新しい語義として使われているようですね。

中学高校の恩師に、なかなかに破天荒な人物がいた。理学部を卒業した後、別の大学の文学部を卒業したという経歴だけでも十分破天荒だが、普段は生徒を追いかけ回し、授業では好きなことを言い、定期試験では中学2年生にセンター試験の改題を解かせるという、なかなか楽しいことをやっている人物だった。
(恩師の教え / ドーナツ)

【ハレーションする】(はれーしょんする)――ハレーションはもともと光学の専門用語で、フィルムに入った光が強すぎて(露光して)、光の輪っかみたいなもの(玉響)ができてしまったり、光の線(スミア)ができてしまったりして、ピントがぼやけること。

 私たちの使っているカラーフィルムは、多層乳剤発色という難しそうな名前の現象方式をとっており、上から、保護層>感光乳剤層>ハレーション防止剤>フィルムベースという構造をしています。この一番下にあるチョー平らなトリアセテート(フィルムベース)まで光が進入して、反射してしまい、もう一度、感光して(作用して)しまうことをハレーションと言います。
 似ている現象に「レンズフレア」というものがありますが、比喩としては、「ハレーションを起こす」(強い何かによって物の性質がぼやけること)などがあり、ここでは美術系の「緑と赤などの補色同士が隣り合って、色が干渉し合うこと」に近い語法だと考えることもできるでしょう。
 いずれにせよ、光が入りすぎて、ぼやけて曖昧になり、不明瞭、不鮮明、ちんぷんかんぷんといった状態になることを示す比喩です。

チカチカと光る画面を見ていると頭がハレーションしてしまうんでしょうか。
(自然体 / 水無月 紫苑)

【封建的】(ほうけんてき)――封建制度の構造的な比喩。

 日本では鎌倉から明治維新まで、将軍(偉くて強い人)が家来に土地を与える代わりに、忠義を誓ってもらう制度がありました。その家来は、その土地で農民を支配して、年貢とか色々なものを受け取ることができます。
 そういった分け受けた土地のことを、中国語で「封土」といい、そこに領土を「建てる」ということで《封建》と呼ぶのですね。また、この制度だけでは商人と農民がコロコロ変わってしまうため、「士農工商」というルールができました。とてもシンプルで「農民の子は農民、商人の子は商人」というもの。
 ここから、「上の支配は絶対で、下から上に物申すことはできない体制」のことを《封建的》と比喩で説明するようになりました。

中学高校のころ(中高一貫の女子校)では、封建的な部活の上下関係という秩序に耐えかね、よくトラブルになっていた。
(恩師の教え / ドーナツ)



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*きまぐれ索引(た〜と)*

《た行》(第二の矢――佇まい――たらしめる――たわいもない――チカチカ――中高度赤色航空障害灯(語釈途中)――手1――手2――哲学――。)



【第二の矢】(だいにのや)――どんな人間でも、痛いとか苦しいといった感情から心を揺らすことになる。仏教を知らない人は、その苦しさからさらに嘆き、迷い、混乱という第二の矢を受けることになるという仏教の考え。

 これは原点から仏典に翻訳されたものを、また私が訳したものですが、こうした仏教の原点の翻訳は実は最近になって進んだのです。それゆえ、これからまた仏教の時代がくるかもしれませんね。

たとえば仏教における復讐は「第二の矢」と呼ばれており、負が力を増しながら不必要にストロークすると考えられている。
(人を呪わば穴二つ - シャッフルされる主語 / らららぎ)

【佇まい】(たたずまい)――そのものがそこにあることによって生じている全体の様子や雰囲気。

 ただ「雰囲気」と違うのは、「ただずまふ」という「未然形+反復の助動詞」にあるかもしれません。雰囲気というのは「気」ですから、流れます。流動的。それに対して、佇まいというのは「固定的で、確実的」な面があるでしょう。その固定的な性質から「人、建築、場所」において使われやすく、「音、空、水」などには使わないことが多いと思われます。
 「たたずまふ」の「たた」というのは「只」という言葉に通じており、ストレートさ、実直さ、純潔さ、真っ直ぐさ、そういった観念を重視しているようで、鉄塔などカッコイイ建築物の持つ「直線的で、固定的で、確実的」な性質から生まれる「その場所の在る様子」(が何かは分かりませんが)のこと指し示しているのでしょう。
 「道路にその魅力を感じない」とは本文ネコさんの言葉でしたが、なるほど、道路はむしろ流動的で多様的ですから、佇まいというものは、ほとんど感じないのかもしれませんね。

私、鉄塔も好きです。すっくと青空にそびえたつその銀色の佇まい。 順序良く並ぶかれらはとてもいじらしいし、 日暮れの柔らかいグラデーションをバックに浮かぶ あの細いシルエットほどきれいなものもないと思っています。
(好きなもの の ひみつ / ネコ)

【たらしめる】(たらしめる)――常に既に〜でありさせる。

 「たり」という断定の助動詞と、「しむ」という使役の助動詞と、「り」という継続の助動詞を都合よく合わせたものが「たらしめる」(常に既に~でありさせる)です。
 本当であれば「切らせる」「取らせる」「あらせる」「たらせる」というラ行五段活用の使役にしたいのですが、それが口語のなかで継承されてこなかったために、「あらしめる」「たらしめる」という微妙な文語を使うはめになりました
 もっと言いやすい「する」という使役が使われていた時代もあります。「俺を男にしてくれ」(本当は「ならせて」が正しい)とか、「子どもを学者にする」(本当は「ならせる」が正しい)とか、「こんな空気にさせたのは誰だ」(本当は「ならせた」が正しい)とか、言葉の奥行きが抹消されている現代かもしれません。

動物も植物も菌類も、生物ならばもれなく持っているものが蛋白質であり、生命を生命足らしめているものは蛋白質だと言っても過言にはならないだろう。
(蛋白質から見る世界 / くびなが)


【たわいもない】(たわいもない)――手応えや正体がはっきりとないこと。

 「たわいもない」(たあいもない)は両方とも正しい表記だが、見出し語をみるかぎり、辞書の多くは「たわい>たあい」という位置づけをしているようです。「他愛」は当て字で、あまり使わないほうがよいかもしれません。
 語源がはっきりしておらず、「相手として不足」(手合無し)から来ているという説や、「利益無し」(とわきなし)から来ているという説もあります。第一の語義は「たわいなく眠りこける」などの、酔って思慮分別がなくなるという意味で、これを知らない人がなかなかいるようです。

他愛もない話をしながら帰る道は、その日が終わったという安堵感に包まれた愛おしい時間である。
(歩いて帰る道 / ドーナツ)


【チカチカ】(ちかちか)――光が点滅する様子の擬態語(Onomatopoeias)。

 しかし、光る様子を表す擬態語はいくつかあり、たとえば「きらっ☆」とか、「ちかちか」とか、「ぴかり」とかがあるでしょう。
 星・イルミネーションは「きら」系(きらきら、きらっ、きらり)、太陽は「ぎら」系、グラス・稲妻は「ぴか」系、蛍光灯は「ちか」系が多かったというアンケートの結果もあって、私は、綺麗なのが「きら」で、強くなったのが「ぎら」で、自然感があるのが「ぴか」で、(チクチクというのがあるように)鋭いのが「ちか」かなと思っています。

チカチカと光る画面を見ていると頭がハレーションしてしまうんでしょうか。
(自然体 / 水無月 紫苑)

【中光度赤色航空障害灯】(ちゅうこうどせきしょくこうくうしょうがいとう)――語釈執筆かつ画像依頼中。

私は、中光度赤色航空障害灯が好きです。 わかりますか、あの、高層ビルや鉄塔についている赤いひかり。 ほら、高いところでちかちかと点滅するあのひかりです。 夕暮れ、日が沈むときになると、仄かに輝きだすあのひかりのことです。
(好きなもの の ひみつ / ネコ)

【手1】(て)――。

 化学ではよく「結合の手」という比喩を使います。原子が《くっついて》分子になることや、(原子から成っている)分子が《くっついて》高分子(ポリマー)になるのは、誰のどんな「手」によるのでしょうか――それは「電気」です。
 原子の真ん中には「プラスの電気」があり、外側には「マイナスの電気」があります。その外側の電気同士がくっつきます。物によってはやたら強く引き寄せ合ったり、ダブルデートしている相手の恋人の方に惹かれてしまったり、蛋白質(アミノ酸のポリマー)なんかは巨大化すればするほど(構造化すればするほど)妙に群れるわけです。
 そういうのは「手」と呼ばれる電気同士が「磁場作用」(イオン作用)という不思議なチカラでもってうまく交換しあって、うまく結合して、過不足ないようにしているのです。落雷も静電気も、この「電気の交換」をしているといえます。
 まあ、こういうことは「実際にやってみる」のが一番いいんですよね。ストレッカーアミノ酸合成や、悪臭アルデヒドを作ってみたり、《臭いとか視覚を証拠にして》楽しむ化学をすれば、誰だって化学が楽しいものだと再発見できると思います。
 くびながさんの記事のように、化学には面白いことがたくさんあって、たとえば多細胞生物が織りなす様々な認識というのは、単細胞生物のときのイオンチャネル(膜になっている蛋白質)を使って行われていて、実際にすげえのは単細胞生物じゃーん!ってなったりするわけです。

アミノ酸とアミノ酸は互いに手を取り合うことができるので、アミノ酸 A はアミノ酸B と結合して、アミノ酸 B はアミノ酸 C と結合して、アミノ酸 C はアミノ酸 D と結合して... といった具合に互いに連結して 100 から数 100 の数珠からなる一本の紐を作りあげることができる。
(蛋白質から見る世界 / くびなが)

【手2】(て)――。

 「手抜かり」「手広い」「手強い」「手慣れる」「手始める」「手ぬるい」「手柔らか」、これらの「手」は実際に「手」ではなく、また比喩でもありません。古典で習った「いと」(甚)という言葉を縮めたものです。程度がすごいことを強調するため、ということです。「超」と同じでいわゆる過剰表現なのですね。
 つまり「お手柔らかに」というと、「あの本当に申し訳ないのですが、あなたがこれからとろうとしている手段において、それをとても堅くすることなくむしろ非常に柔らかく簡単にして欲しいのですが、よろしいでしょうか」という意味になります。

はじめまして、ネコと申します。名前はもうありますが、ネコはネコです。 あまり言葉は上手くないものですから、ご容赦くださいませね。どうかお手柔らかに。
(好きなもの の ひみつ / ネコ)

【哲学】(てつがく)――知を愛すること、あるいはまだ科学として位置づけされていない(解決されていない)問いについて考える学問分野。

 語源はラテン語の「philosophia」から来ており、意味は「知を愛すること」。西周(にしあまね)という明治時代の知的にうるさいおっさんが、「哲学」という仰々しい名前を付けました。
 哲学をひとことで言うのは難しいですが、「生きることにおいて、知ることがどのような意味を持つか」を考えることと言えるでしょう。もちろん哲学者のなかには「むしろ知ることは生きると同じである」という人もおります。変な哲学者は「哲学は郷愁である」とか言ったりもします。哲学者といっても、哲学で食っている人はほとんどいないでしょう。

それにつれて、ぼくは少しずつ「興味があるふりをしてたやつら」について知っていくことにした。言語学とか、歴史とか、哲学とか、ほんのちょっとずつで、世の中の学生に比べれば何もやってないに等しいようなちょこちょことした勉強(笑)だったけれど、どうしてだか、心が軽くなった。
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)

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*きまぐれ索引(さ〜そ)*

《さ行》(軸足を置く――思考の沼に嵌まる――視座――**自体――死の人称――シルエット――人格――進学先――呪詛――**性――刹那――。)



【軸足を置く】(じくあしをおく)――メインの足の運動性や方向性を強めたり支えたりする足のことを軸足といい、軸足を意識して置くこと。

 足(πούς)というのは、「地面の最も近くで接触しながら最大の重力を受けて身体を支えている」(地徳と触れ合っている)という点から、頻繁に比喩として使われるものです。生物にとって最も楽な姿勢は匍匐(ほふく)ですが、人間は足を犠牲にすることで直立し、そのために頭が発達しました。「足る」(充分に満たされている)という言葉を「足」という漢字で表すのもそのためだそうです
 軸足という比喩は、《中心》という意味で使われるかもしれませんが、本当に立派な軸足の置き方は「常歩」(馬の歩き方)だといえるでしょう。どちらの足も自在に軸足化できる、二軸的な歩調で安定的に進むことが肝心です。

そんな状況で、周りを見渡せばみんな何かに打ち込んでいるというのに、ぼくはどこに軸足を置けばいいのかもわからないままで、どこに軸足を置いても失敗するし、不安定で、何をしたって自分を信じることはとてもできそうになく、ぼくの芯はなんだっけ、自分が一番大事にしなきゃいけないものって何だったのだっけなんてことを、自然に考え始めていた。
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)

【思考の沼に嵌る】(しこうのぬまにはまる)――単一的な思考をひとつの沼とみなして、それに没頭してしまい、抜け出すことが出来なくなること。

 一見慣用句のようですが、《――に嵌る》の他には、「引き釣りこまれる」「誘われる」「入る」「陥る」「囚われる」「足を取られる」「沈む」「落ちる」「捕まる」「足を踏み入れる」などを繋げることがあり、その多様さから慣用句にはなりそうもありません。
 「嵌」という漢字は、中国語で「填塞」(隙間を縫って塞ぐ)という意味になり、大事なのは「塞ぐ」というところ。自分で塞ぐ場合は、いい意味で嵌る(没頭する)ことになるけれど、「思考の沼に嵌る」「罠に嵌る」「蟻地獄に嵌る」「深みに嵌る」「ドツボに嵌る」「泥沼に嵌る」という悪い意味の場合は、(抗うことができずに)「嵌められる=塞がれる」と考えるのが自然でしょう。
 「嵌る」というのは、それだけでは善悪が一目で分からないため、さらに分かりやすい文章を心がけるときは、「ぬかるみに落ちる」「混迷を深める」「惨状となる」「奈落へと後進する」「どうしようもなくなる」「身動きがとれなくなる」「悪戦苦闘を強いられる」「出口の見えないスパイラルに陥る」「隘路に嵌り込む」など状態の説明が明確なものを選ぶとよいかもしれませんね。

描いては消し、描いては消し。そうすると、「あれ?自分は結局なにを描きたいんだっけ?」というような思考の沼に嵌ってしまう。
(自然体 / 水無月 紫苑)

【視座】(しざ)――物事を考えるときの立場。

 人間には、5系統のインプットがあります――視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。(5つが科学の常識ですが「きっと6つ目の系統がある」と信じている人たちは、その6つ目のインプット系統を「超能力(第六感)」などと言ったりします)。
 人間は、インプットと情報処理を《視覚》に頼りまくっています。たとえば、「観点」「観念」「視点を切り替える」「見誤る」「見積もる」「見損なう」「視野を広げる」などなど、これらは《思考について説明している言葉》なのに、なぜか「目」に関する言葉で語られています。
 たとえば、いまここで急に「最寄り駅からあなたの家までの道のりを説明してください」と言われたら、意外と難しいのですよ。なぜなら、あなたはそれを「視覚イメージ」でインプットしており、ほとんど一度も「言語」とか「思考」でもって処理したことがないからです。

1866 年にドイツの生物学者であるエルンスト・ヘッケルは「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説を唱えたが、なるほどそういうことを言いたかったのだなとヘッケルと同じ視座に立ったような気がした。
(蛋白質から見る世界 / くびなが)

【**自体】(じたい)――名詞の後ろにつけて、その名詞を強調する語句。

 「**そのもの」とか、人の場合は「**自身」などとすることもありますね。たとえば、「私自身、それが信じられないの」と言ったとき、お分かりの通り、「もちろんあなたも信じられないでしょう」という気持ちが込められています。他にも、「発想自体は良い」と言ったとき、「発想以外の未熟な部分とは関係なく」という意味を付け足しているでしょう。
 あたまのなかで何かと比べているけれど、そっちのほうじゃなくて、というニュアンスがあるのですが、これは、「尺度の持ち出し」(比較を開始したよ)と、「話題の据え置き」(比較したけど焦点は変わってないよ)を同時にこなしている強調法だと言えます。 
 つまり、「いいかね、君自身の考えを述べなさい」と言われたら、「君の考え以外にも、この世にはたくさんの考えがありますね。教科書でもたくさん学んだし、私の考えもたくさん教えてきました。そういう比較はたくさんできますし、やるべきでしょう。しかし、いまは、そっちのほうじゃなくて、君が考えたことを君が述べなさい」という意味になるということです。

結局その日は絵を描く事自体やめてしまったりすることも多々あります。
(自然体 / 水無月 紫苑)

寄り道をすること自体もの凄く楽しいのですが、最近ハマっているゲームだとか、漫画だとか、音楽のことだとか、どこどこの店に新しいショップがオープンするだとか、内容の無いとりとめの無い話をすることが楽しかった気がします。
(帰り道というショートショート / めがね)

また物語の性質上『登場人物がいつも同じ人物』というように、物語自体は大変楽しいし幸福なのですが、道筋がいつも同じところを辿ってしまうところ、別れた途端に何故か寂しくなってしまうところが欠点かと考えます。
(同上)

【シルエット】(しるえっと)――輪郭だけ取り込み、中が黒(影)になっていること。

 1700年代、フランスではルイ15世がわずか5歳で王になります。成人後も政治に関心はなく、国政をフルーリーという人物に任せておりました。そのなかで財政を任された大臣の名を「エティエンヌ・ド・シルエット」(Étienne de Silhouette)と呼びます。フランスは長年戦争を繰り返しており、直近の7年戦争では惨敗してしまい、国土を大きく失い、財政状況も最悪となってしまいました。しかし、彼に財政再建の能力はなく、ただ行ったのは「肖像画は黒だけで描く」という節約術のみ――そのエピソードから、黒のみで描くことや対象の輪郭だけを容易に取り込む写真技術のことを、シルエットと呼ぶようになりました。

私、鉄塔も好きです。すっくと青空にそびえたつその銀色の佇まい。 順序良く並ぶかれらはとてもいじらしいし、 日暮れの柔らかいグラデーションをバックに浮かぶ あの細いシルエットほどきれいなものもないと思っています。
(好きなもの の ひみつ / ネコ)


【死の人称】(しのにんしょう)――ジャンケレヴィッチという学者が考えた「葬送の親密性」。

 他者の死への感じ方(感情移入の仕方)は異なるという前提に立っている考え方です。自分が死ぬこと、自分の目の前にある「あなた」が死ぬこと、よほど知らない誰かが死ぬこと――そういう親密性の違いによって、葬送の感じ方が異なると唱えました。
 そこでよく問題に取り上げられるのが、「医者は自身の患者の死をどのようにとらえるか」という問題です。柳田さんは「2.5人称の死」などと言っておりましたが、どうなのでしょうね。

「死」というものは、一様ではないようです。いわゆる死の人称(私の死、あなたの死、その他の死)というのも、死の質的な変化でしょう。
(死に泥む人間の存在 / 大人たん)


【進学先】(しんがくさき)――何かの目的をもって今よりも水準の高い研究機関で学ぼうという人が、「お互い会ったことないのに私を強烈に待ってくれている場所」として運命的に選ぶたったひとつの場所。

 そのため、進学先というのは、ほとんど「誤解」によって選ばれます。自分にとって最高で理想値の進学先を選ぶことはほとんど無理なので、「ここだ、ここが俺の進学先だ」という運命論的というか、ほとんど誤解によって選び、そこで人生のある期間を過ごす決意をし、実際に、その場所を何度も何度も経験することになります。

ぼくがその大学を進学先に選んだのは、入学してから専攻を選ぶことができるというその一点によるものだった。
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)

【人格】(じんかく)――ひとりひとりがそれぞれに持っている実体。

 明治時代に井上哲次郎という人が作った翻訳語で、語源は「personality」にあたります。この単語はキリスト教の影響をふんだんに受けていて、簡単に言うと、神というひとつの実体には、「世界を作った父」・「世界を救うために生まれた子=イエス」・「世界に働く不思議な力としての聖霊」という《3つのパーソナリティ=3つの役割》があるということです。3つそれぞれを「ペルソナPersona」と呼び、交換可能な俳優をひとりの人間がいくつも持っている、という程度のことです。
 また、倫理学では、カントが「Persünalichkeit」と「Person」を厳密に分けるべきだと主張し、和辻哲郎はそれぞれを「人格性」と「人格」のように訳し分けました。「人格は尊厳の担い手であり、権利の目的である」という考えに辿り着き、それならば「胎児は人格なのだろうか」ということがいまの倫理学で議論になっています。

影響を受けたものが人格を形成していく法則
(私の最も好きな法則 / めがね)

この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。
(私の最も好きな法則 / めがね)

【呪詛】(ずそ、じゅそ)――呪うこと。

 「お裾分け」の「すそ」は"要らないもの"という意味ですが、「呪うこと=呪詛ずそ」もまた相手を"要らないもの"として消し去りたい願望なのではないかと考えている人もおります。

人々は「怨みや呪いは、巡り巡って自分に返ってくるから」と教えてくれる。この「返ってくる」というのは比喩である。実際に返ってきているわけではない。では、悪口(愚痴)や呪詛(恨節)が返ってくるとは、何が起こっているのか。
(人を呪わば穴二つ - シャッフルされる主語 / らららぎ)

【**性】(~せい)――抽象名詞を作る接尾辞(拘束形態素)のひとつ。

 「**」の部分は結合対象語基と呼びます。程度をあらわす接尾辞は「必要"度"」「ローマ"風"」「風邪"気味"」「子ども"用"」「ゼリー"状"」「繊維"質"」「一"杯"」「出来"具合"」などと細分化されており豊富なのですが、最近では翻訳の発達に伴うようにして、あるいは機能性を重視するようにして、「**性」や「**的」に統合されつつあります
 それがあまりにも即席のため、「必要性」(必要度の抽象版)はあっても、「不必要性」(不必要度の抽象版)は無いなど、変な言語変化を起こしているのが現状です。
 話すと長いのですが、性質を抽象名詞で語った方が楽なんです。「勇気」と言われてそれぞれ思いつくところが違うと思いますが、「勇気」ひとつにくくった方がコミュニケーションが楽なんです。しかもそれを「まるで実体があるかのように」使うのがもっと楽なんです。つまり、よく「勇気をもらった」というでしょう。そんなものは実際は「もらえません」。実体がありませんから。
 余談ですが、物の数え方もパソコンや自動車が出てきたあたりから「台」でひとまとめにする傾向がありますね。そっちの方が楽ですから。

曲のイメージ・情景を重視するぼくの音楽方向性が大いに影響してそうですが、その時に抱いた感情と、似た雰囲気・展開の曲を好む傾向がありそうです。暗い気持ちに打ちひしがれた時に、ピアノ好きは思いっきりベートーヴェンやショパンの悲しい曲を弾いて(聴いて)紛らわすように。
(ないすとぅーみーとぅー / ねぎとろ)

この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。
(私の最も好きな法則 / めがね)

これらの関係を構成する物理的な要素・要因はいずれも異なっているけれど、それらの関係性のみに着目すると類似した構造が現れるのは非常に面白い。何かしらの法則性を感じるのは僕だけだろうか。以上において、蛋白質のフォールディングという小さな現象を支配する法則性が人間社会や生命、さらには地球や宇宙といったような大きな現象さえも貫いている可能性を示唆した。僕らが生きるこの世界の根底を流れる何やら真理めいた法則性の存在を感じ取っていただけたなら嬉しい限りだ。
(蛋白質から見る世界 / くびなが)

【刹那】(せつな)――[ksana / 念]75分の1秒(あるいは65分の1秒)ぐらいの短い時間のこと。

 もともとは、変化というものは「1/75秒」程度のほんの一瞬で起こるものだということを教えるためにインドで生み出された時間の単位のことらしいです。また他説では、「65刹那」のことを指弾といい、指を弾いているあいだにも「65」も時間の単位があるのだから時間は貴重だとお釈迦様が説教したとのこと。
 仏教には「刹那滅」(ksanabhanghasiddhi)という考えがあり、私も猫も魚も「1/65秒」しか生きていないということを論証(あるいは反論)しようと、研究者たちが勉強しております。この刹那滅論によって、私たちは「1/65秒」ずつ死んでいるので死を不安に思うことは馬鹿げていると諭されるのです。

「断念」とは確たる到達点、大きな目標を意識していてこそ生じるものであって、興味本位でとりあえず手を出してみるというのは、最初から自分の興味が長続きしないことを予期した上での刹那的な行動であり、そこに到達先への展望は存在せず、故に「断念」にすらなっていない、と感じるのである。
(断念と私 / 浜之木 千春)

今こうして「私の断念してきたこと」を探すべく今までの人生に視線を巡らせても、そこには「断念」にすら到らなかった経験、その場限りの興味に基づく刹那的な経験しか見当たらない。なんのために生きているのか、その答えに将来への展望を据えたことも一度たりともないのだ。それは方針として刹那主義を採用していたからでもあるとは思うが(…)。
(同上)

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