LNG | サイダー |
1. 極低温-162℃ (とっても冷たい) |
1. とても美味しい (よね!?) |
2. 粘度が水よりも低い (水よりサラサラしている,値にすると一桁小さい) |
2. 透明 (無垢を具現化した様) |
3. エネルギー (あやかれば元気をもらえそうですよね) |
3. のどを駆け抜ける泡 (全身に染み渡り定着する感じ) |
デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよいだろう。というか、そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである。デモの権利とは、体制の側が何とかしてデモなるものを秩序の中に組み込んでおこうと思って神経質になりながら認めている権利である。「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。
…デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。
…デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。
(國分功一郎「パリのデモから考える」より)
結局、まず自分がデモをやるほかないんですよ。なぜデモをやらないのかというような「評論」を言ってたってしょうがない。それでは、いつまで経っても、デモがはじまらない。デモが起こったことがニュースになること自体、おかしいと思う。だけど、それをおかしいというためには、現に自分がデモに行くしかない、と思った。…昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。
(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」より)
代表制は、たとえそれが効果的な代表であっても、民主主義を強化するのではなく民主主義を妨げるものであるということを2011年(から)の運動の非常に多くははっきりと認識していた。だからこそ、2011年(から)の運動は、代表制の政治構造と政治形態に対して批判を向けているのだ。民主主義の(未完の)プロジェクトはどこへ言ってしまったのか?私たちはどのようにすれば、民主主義のプロジェクトにふたたび取り組むことができるのだろうか?市民=労働者の政治権力を取り戻す(いや、実際には、はじめて実現する)ということはいったい何を意味するのか?2011年の運動が教える一つの経路は、この章で私たちが概観してきたような、貧困化され、脱政治化された主体=従属者(であること)に反逆し、叛乱を起こすことである。民主主義を実現=現実化することができるのは、この点をしっかり把握し、演じることができる主体が登場したときだけだ。
(ネグリ・ハート「declaration」、tessai-ekai訳:より)