不肖、セカペンは自分が自分であることを証明できませんでした。
これは先日、とある携帯ショップに名義変更に行ったときの話である。私は二十歳を過ぎたということもあって、両親はそれまで父親名義にしていた私の携帯の名義変更をしようと言ってきた。特にそれに反対意見がなかった私は、すぐに最寄りの携帯ショップで名義変更をするときになった。
しかし、そこで問題が起きた。身分証明ができなかったのだ。
事前の説明では「(未成年のお客様は)保険証と学生証を持ってきてください」と言われていたが、この()の部分を、父や私は知らされていなかったのだ。私と父は様々な方法で身分を証明しようとしたが、結果として、私は私であることを証明できなかった。
「自分が自分である」ということの証明は難しいと感じた。しかし、誰もが「あなたは誰ですか?」というと問いに即座に回答することができる。そのときに答えられる自分の証は「名前」である。今回はその名前という自分の証明について語りたい。
その前に、私は私の名前について紹介したいと思う。セカペンという名前は、「セカンドペンギン」の略である。ここだけきくと、「二番目ということは一番じゃないんですか?」「二番目でいいんですか?」という疑問があがるだろう。これに対して、私は「二位じゃだめなんですか?」と謎のキレを見せるほど、強気ではない。私らは一番目ではない、二番目にしかなれない存在である。
「ファーストペンギン」という言葉がある。その意味は、「ある集団の中で危険や困難へ最初に飛び込み、安全性を証明する者のこと」とある。群れのペンギンたちが魚をとるときに、一番のりで飛び込んで餌がとれるかどうか、敵がいないかどうかを確認するペンギンのことだ。
この言葉を初めて知ったのは、高校一年生の頃の国語の教科書にのっていた「最初のペンギン」という茂木健一郎の評論であった(注1)。その評論の中には「英語圏では「最初のペンギン(first penguin)」といえば、勇気を持って新しいことにチャレンジする人のことを指す」とある。「不確実な状況に判断を下すという勇気をもった人」ということである。
このファーストペンギンにはなれないが、ビリやそこそこのあたりにもいたくない。最初の人が「ここ、いけるぜ!」と合図を出したら飛び込むといった二番煎じのペンギン。私らはそんな「セカンドペンギン」なのである。
実はこの記述をしているときに、名前を「セカペン」にするか「セカペンズ」にするかを迷った。その理由は、私は「複数形」であるからだ(注2)。そう、本名をもつ私は多くいる。狭義において二人、広義において五人。その五人はそれぞれ戸籍上の本名の他に、あだ名のような名前をもつ。その名前がある以上、私らは自分を形作られているとも、人に認められるとも言えるだろう。
つまり、「名前」は精神における「身体」なのである。
これは何も私に限ったような話題ではない。インターネットという場は、私たちと似たような作りをしている。一人の人間(一つの身体をもち、一つの心をもつ)は、必ずしも常に一緒というわけではない。Twitterのアカウントを複数持っている人であれば、この感覚は分かるのではないだろうか。例えば、学校用アカウントと趣味アカウントがあったとして、学校では趣味のことをあまり言わないものとする。その場合、「趣味に没頭する自分」というものは学校アカウントであらわれることなく、「学校での自分」が会話している。その逆もしかりである。
こうしたネット上は、ある種のペルソナ(ペルゾーン)としての人格が顕著にでやすい。そうしたペルソナを形作るのが、アカウント名、HNなのではないだろうかと私は思う。
さて、『pupa』(注3)という漫画の中で、ある二つの生物が島で生きていたときの場面がある。その片方が主人子にこう言う。「この島の中では、お互いを呼ぶ名前が必要なかった。あなたとわたしでよかった」というものだ(結構うろ覚えです)。
私が引きこもりをしていた頃、接触する人がただの一人(注2にある「悠」という人)しかいなかったときに似たような現象が起きた。私は彼を彼の苗字で呼んでいたが、彼が私のことを呼ぶことはなかった。本名が気に食わなかったから、呼ぶと嫌がるからというのもあったのだろう。お互いになんの違和感も感じていなかった。
しかし、中学三年になり、親友が私らの存在を知り、私も私として、悠も悠として話し始めたときのこと。
「アレが迷惑をかけるね」と悠が言った。 もちろん、親友たちが「そういう呼び方をするんじゃない!」と怒っていたが、悠も私も怒られるようなことだと思っていなかった。しかし、怒らせてしまうのは申し訳ないということがあり、それから悠が私の名前をたどたどしいながらも私のことを名前で呼ぶようになった。
そのときから、私の心境に変化が起きた。
それまで希薄に感じていた自分というものを強く感じるようになったのだ。いるかいないか分からない、存在感の薄い透明人間から、色をもった人間へと変化したという感じだった。その変化の理由を考えると、自分を自分として認めてくれている他者(同じ身体を持たない他者)と、自分の名前への意識が強く影響していると思われる。
長々と書いてきたが、要するに、「自分が納得できる自分の名前を大事にしよう」ということである。
こんな奇怪な私らですが、よろしくお願いします。二号@セカペンでした。
(注1):茂木健一郎が書いたってことは、ついさっき「最初のペンギン」の評論の作者が誰であるか調べているときに知りました。当時、茂木健一郎という名前すら知らなかったので、特に気にしていなかったですね。今の心境としては、「あのおじさん、こんなものを書いていたのか!」です(笑)。
(注2):私は"いわゆる"多重人格である。しかし、厳密に言うとビリー・ミリガンといった有名な事例のような「多重人格障害」というわけではない。Imaginary Friendがこれを書いている"私"の他に、4人いるというようなものだ。それが私の頭の中を動き回るだけでなく、外に出て”私の本名”をまとい、生活するということがあるというだけである。水月、悠、ぽん、二号、うなという風にそれぞれの名前も個性もがありますが、ここではそれらを総称して「セカペン」と名乗らせてください。「セカペンズ」にするか悩み始めたのは、うなの「複数形にしたらビートルズみたいだな、五人だけど」という一言があったからです。
(注3):兄妹愛やカニバリズムが詰まった漫画です。後輩が部室に持ってきてくれたときに、ぽんが読んでいました。妹が兄を食らう場面を見て、お腹がぐーっとなったというのは印象的でした(普通は食欲なくす場面なのにな……)。
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