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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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歩いて帰る道 / 著者:ドーナツ - ch4


 多くの人が、小学校のころは歩いて学校に通っていたはずだ。中学、高校と進むにつれ、電車通学やチャリ通が増えていく。私は小学校はもちろん、中学・高校も徒歩通学を貫いた。それはただ単に、親にぶち込まれた女子中が実家の徒歩圏内にあったから、というだけの理由ではあるのだが。

 大学に入って一人暮らしを始めてから、バス通学・チャリ通・原付通学などいろいろあったものの、今のところ徒歩通学に落ち着いている。だから私の帰り道の思い出は、いつだって歩くことに結びついているのだ。

 いつもより早めに家に帰る道は、日差しが照りつけていてどことなく街の様子もせわしなくて、ちょっとした罪悪感を抱く。大学で夜遅くまで課題に苦しんだ日は、夜風に吹かれながらくだらない歌を歌いつつ歩く。

 一人で歩く道も、誰かと歩く道も、どちらも忘れがたい。

 中学・高校も今通っている大学も、どういうわけか坂の上に位置する。歩いて学校へ行こうと思えば、どうしても坂を上らねばならない。それで、帰りは下り坂をのんびり歩いて帰ることになる。

 高校のときは、下り坂でよく転んでいた。友達がいれば助けてもらうし、それでも出血がひどくて先生の助けを呼んだこともあった。一人で若い悩みに思いをめぐらせることもあったし、チェロを抱えて用心深く帰ることもあった。

 大学に入ってからは多少大人になったのか、高校のときほどひどい転び方をすることはなくなった。でも、思考する力がついたのか、何かを考えながら歩くことが増えた。それは最近だと卒論のテーマだったりするのだが、田んぼのあぜ道を歩いているときにとんでもないことに気がついたりするのだ。時に大学で言われたことを思い出し、失意にうちひしがれながら歩く日もある。

 誰かと一緒の帰り道――歩きながら帰った思い出は、だれにでも少なからずあるのではないだろうか。他愛もない話をしながら帰る道は、その日が終わったという安堵感に包まれた愛おしい時間である。私にも大切な思い出がないわけではないが、そのことは胸にしまっておこう。

 だから、忘れられない印象的な帰り道の話をしよう。

 フィールドワークの帰り道である。遠いところを指定されよくわからない路線に乗るはめになり、案の定、その日の調査内容も私にとってはつらいもので、その日はフィールドワーク先で大泣きした。それで、よく知らない街で、よく知らない路線の駅へ向けて、一緒にフィールドワークをしていた友人と歩いて帰った。その友人はよくしゃべる。お前は口から生まれて来たのか、と問いたくなるくらいしゃべる。ちなみに、生粋の大阪人である。正直なところ、うっとうしいくらい良くしゃべる友人だ。

 その日も彼はよくしゃべっていた。その日は、私が大泣きした後で話す気にならなくて、友人は察してくれたのか、とりとめもない話をずっとしてくれた。その日は、彼の高校時代からの友達の話だった。電車に乗ってからもずっとしゃべっていて、彼が「大人になっていくと人間関係って変わるんやなぁ」というようなことを言っていた。

 彼の話を聞きながら歩いた日の夕日や道の広さ、駅の狭さが今でも忘れられない。

 大学に入ってから原付に乗ることが増えた。原付の程よいスピードに乗って帰るのも悪くないが、歩きながら経験することの密度は何物にも代え難い。だから今日も私は、大量の本と疲れと持て余している感情を抱えて、田んぼのあぜ道を歩いて家に帰って来た。





(編集・校閲責任:らららぎ)

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『復讐』 / 著者:めがね -ch2


 あいつを~♪どうやって殺してやろうか~♪
 2009年春、どしゃぶりの夜にそんなことばかり考えてた~♪

 こんばんわ。めがねです。こんな歌を道端で歌いながら歩いていたらなんて物騒なやつだとうっかり通報されても不思議ではないですねw

 chiasma02:『私の断念したこと』というお題を頂いたので、私は何を断念したんだろうと過去を振り返りながら考察していきました。

 断念した事はたくさんありました。バスケットボールを途中でやめただとかギターを買ったもののコードのFが押せないのでやめただとか、思い返せば色々ありました。ただ『断念した事』の中で自分が納得して断念した事がいくつかあります。そのなかで『復讐』というキーワードをピックアップしてお話して行きたいと思います。今回も足りない脳みそを――糖分を摂取しつつ――ぶん回していきたいと思います。お付き合いください。

・回想

 まず、お話をしていく過程で何故このような結論に至ったかという道筋の中で、僕のことを振り返ってみる必要があります。少し嫌な話もあるかもしれませんが、少しだけお付き合い下さい。

 私は、学生時代も今も親しい友人、私より年上の方々には、俗に言う『イジられキャラ』のポジションを確立しており、私もそれを許容しています。別段この事に関しては、なんの嫌悪感もありませんし、寧ろ「美味しいポジションでは?」くらいに思っています。

 ただ学生時代、特に中高生の時には、身体は大人にほぼそれに近いですが、心の部分は非常に未発達で、感情に振り回される場面が今以上に多かったと感じます。未発達ゆえの情け、容赦のなさから、時に『イジリ』とされていたことが唐突に『イジメ』に変わる瞬間が存在します。私は何度かそれを味わいました。

 理由はなんだったか覚えてはいませんでしたが、中学生の時には良くわからん理由で因縁をつけて殴られたり、学ランをトイレで水浸しにされたりなどがありました。高校の頃にはあまり勉強が好きではなかったので、入学したのが荒れた学校だったこともあり、人間サンドイッチなどといって大人数で上からのしかかられたり、体操服を捨てられたり、羽交い締めにされて複数人から殴られたり、ゴミ箱を頭から突っ込まれたりと、まぁなかなかひどい目に会いました。

 中でも最悪だったのが、僕が気に入ってバイト代で買っ使っていたメガネを2本ともお釈迦にされた事です。どうにかして殺してやれないかと本気で考えました。2年生の時が一番酷かったように思います。学校に行くのが嫌でよくサボって3限から出てみたりとかもしていました。

 この頃に上記の歌のように『復讐』という概念に取り付かれる事になります。

・諦めた理由

 もちろん人を殺すのは良くない事です。どんな理由があろうと命を奪うことは絶対的に悪であり、到底許される行為ではありません。しかしながら『命さえ奪わなければ他人にどのような行為を行なっても構わない』というのは、あまりに短絡的で思考が停止しているように思います。

 極論ですが私は、『人としての最低限の尊厳を失わせるような行為を行えば殺害という行為を行なっても致し方がない』と常日頃から思っています。勿論、死刑肯定論者です。

 人を人と認識していない人間に、こちらが人として接する必要性を感じません。しかしながら、世間はそうではなく私が仮に『イジメ』を行なった人間全員を殺害したとしましょう。世間の認識では『そんな理由で人を殺すなんてもっての他だ』となるかと思います。人は自分にないものは語れません。故に、殺害に至った経緯、背景などを推し量ることが出来ない訳です。

 ニュースなどで流れる情報も理由も憶測で、事実確認などせず人を殺したという事実だけ発表されるでしょう。『人殺し』としてのレッテルを貼られた私が、世間からどうのこうの言われて最終的に死刑になるとしても、それはそれで構いません。命を奪った私は絶対的に悪であり、裁かれるべきだと思うからです。

 ですが、僕を今まで支えてくれていた人はどうでしょう――父親、母親、妹、祖父、祖母、従兄弟、友人。

 報道は過熱し、『私以外』の人々を巻き込んでいくのです。私に産んでしまった、関わってしまったが故に『人殺しの○○』というレッテルがその人達に貼られてしまうのが、私には耐えられないと感じ諦めました。以上の理由から私自身の手による『物理的な復讐』を断念したわけです。

・今現在

 私自身の手による『物理的な復讐』は幕を閉じた訳ですが、私は今でも彼らを許すことはこの先もないでしょうし、彼らは人として認識していなかった私に行ったことを覚えていないと思います。子供が蟻の脚をもいで放置するような、道端にある石ころを蹴飛ばすような感覚で行っていたことなので当然でしょう。

 私の手によって『復讐』が完遂することは一生ないと思いますが、別の誰かの手によって『こんな人生予定してなかった』だとか、『俺のしたかった結婚生活はこんな生活じゃなかった』だとか、他の誰かの手を借りた『間接的な復讐』によって、彼らが死んでいってくれたらいいなと今は思います。

 皆さんが私の根の暗さにドン引きしたこの辺で終わりにしたいと思います。ちなみに刑事ドラマでよくある『○○さんはそんなこと望んでない!』とか言うじゃないですか。アレもムカつくんですよね。『知った風な口聞いてんじゃねぇよ、お前も殺すぞ』ってね。

 復讐から~はじまって~♪終わりはいったい何だろう~♪ 償いきれない過去だって. けっして君を許さないよ~♪

  じゃ、このへんでお開きということでありがとうございました。

 じゃあのwww





(編集・校閲責任:らららぎ)

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のびる、ひろがる。 / 著者:こはく -ch1


 初めまして、こんにちは。こはくと申します。とりあえず今回は自己紹介は省かせていただいて、本題である『私の最も好きな法則』について考えていきましょう。

 
《展延性》
という言葉をご存知でしょうか? 何やら難しく聞こえるかもしれませんが、早い話が広がってゆく性質と延びてゆく性質のことです。

 この性質を持つ物質(分かりやすいところでは金属ですね)は、応力――外部から加わる力――によって割れたり砕けたりするのではなく、もともとの形は保ったまま延びたり広がったりしてゆきます。

 例えばアルミホイルや金箔、硬貨などがこの展延性を利用して作られていますね。アルミや金をプレスして紙よりももっともっと薄くしたものがホイル・箔ですし、硬貨は特定の形をした金型で同様にプレスすることで、僕らが使っている500円玉や100円玉が作られていたりするわけです。

 これが、『私の最も好きな法則』の一部です――ここで『一部』とつけたのは、これだけでは好きな法則にはならないという意味で、《この物質における法則を、僕たち人間に当てはめて考えることで初めて、僕の好きな法則になる》ということです。この性質・法則は、僕たち人間にふかーく関わっているし、実際僕自身にふかーく関わってきた法則でした。

 僕は、展延性を持つ物質が応力を受けて形を変えるように、無数の応力を受けて無数に展延を繰り返し、形を変えてきたのです。

 例えば。

 誰もが多かれ少なかれ経験したことのある話だと思いますが、高校生の頃、定期テストである教科の点数がある同級生の点数より劣っていたことがありました。するとその同級生はここぞとばかりに僕を罵ってきました。

  「ふぁーwww何その点数wwwwwまじカスだわwww」

と(なにやらツイッターでよく見るようなセリフですがお気になさらず)。この時、僕はとても悔しいと感じました。無意味に馬鹿にされるならまだしも、合理的に馬鹿にされたことが悔しかったのです。だから、僕は彼を合理的に見返すために勉強しました。猛勉強の結果、僕は次のテストで彼の点数を大きく超える点数を取ることができました。(ついでにクラス内での順位が前回より20位ほど上がったのは嬉しいおまけ)。

 僕は罵倒という応力を与えられたことにより意識の形を変え、成績もそれに伴って可から優に形を変えたのです。

 社会人になってからも応力は僕に無数に降りかかってきました。社会人の方なら分かっていただけることですが、

  「俺は今までなんと狭い世界で生きてきたのか」

ということを思い知らされる毎日を過ごしました。こまごまとしたことはお話する必要はないと思うので同じく結果だけお話すると、僕は受動的に学ぶのではなく、能動的に学ぶことを常とするようになりました

 外部世界から降りかかってくる負荷、圧力、プレッシャー、ストレス――これらを受けとめ適切なエネルギーに変換することで、人は成長する。ダイヤモンドや氷みたく砕け散るのではなく、むしろその応力を利用することで自分の理想とする自分に少しづつ近づいていくことができる。

 ポジティブな絶望が、人を展延させてゆく。
 人間における展延性――これが『私の最も好きな法則』です。

 僕たちは展延性を持つ、『ひとつのかたまり』に例えることができます。
生まれた時の僕たちは何の形も有していない、ゴツゴツとしたかたまりです。人生とはすなわち、このかたまりを理想の形へ成形してゆくこと。自分自身を自分の理想とする姿へ成形し、彫刻してゆくことの旅なのです。って考え、如何でしょうか?

 ではでは、今回はこれにて。

 ありがとうございました!



 こはく



(編集・校閲責任:らららぎ)

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自然体 / 著者:水無月 紫苑 -ch1

はじめまして。この度共同ブログへ参加することになりました。水無月 紫苑(みなづき しおん)と申します。自己紹介は敢えて致しません。ここで書く文章から色々感じ取って頂けるとこれ幸い。

お題「私の最も好きな法則

私の最も好きな法則。それは、「何も考えず自然体で居た方が物事うまくいきやすい」という法則です。

例えば絵を描いている時。色々考えます。構図やシチュエーション、表情、ポージング。描いては消し、描いては消し。そうすると、「あれ?自分は結局なにを描きたいんだっけ?」というような思考の沼に嵌ってしまう

チカチカと光る画面を見ていると頭がハレーションしてしまうんでしょうか。(ちなみに自分はデジタルで絵を描いています)

結局その日は絵を描く事自体やめてしまったりすることも多々あります。
描きたい、でも、描けない。悶々とする日々が続きます。うーん このままではよくない。

そういうときは絵を描くということを忘れます。なんにもしません。ただ、だらーんと日々を過ごします。そうすると「無」の時間帯と言うんでしょうか、そういう時間が出来てきます。

そういうときになんとなくペンをとって、何気なく、本当に何気なく絵を描いている時があるんです。

なんと あら不思議。すんなりと絵が描ける!
こういう時、「自然体」というのはとても大事なんだなあとつくづく感じます。絵だけではなく、文章を書く時や日々を過ごす時も。

それではお付き合いありがとうございました。またいずれ。

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好きなもの の ひみつ / 著者:ネコ -ch1

はじめまして、ネコと申します。名前はもうありますが、ネコはネコです。 あまり言葉は上手くないものですから、ご容赦くださいませね。どうかお手柔らかに。


最初のお題は、"私の最も好きな法則"でしたね。 このお話をするにはまず、私の好きなもののお話から始めたほうが良い気がします。 しばしお付き合い下さいね。


私は、中光度赤色航空障害灯が好きです。 わかりますか、あの、高層ビルや鉄塔についている赤いひかり。 ほら、高いところでちかちかと点滅するあのひかりです。 夕暮れ、日が沈むときになると、仄かに輝きだすあのひかりのことです。


私、鉄塔も好きです。すっくと青空にそびえたつその銀色の佇まい。 順序良く並ぶかれらはとてもいじらしいし、 日暮れの柔らかいグラデーションをバックに浮かぶ あの細いシルエットほどきれいなものもないと思っています。


好きなものというのはあげるときりがないのですけど、このふたつは特に好きなのです。 見ていてどきどきするんです。郷愁にも似た、なにかを感じるのです。 街が見渡せるくらい高いところに上って、鉄塔や航空障害灯をぼんやり見つめるのがとても好きなのです。 (都庁からの眺めと、学校からの眺めが特にお気に入りです) ええ、何故でしょうね。それをずっと考えていました。


いっとき、鉄塔が好きな理由に関しては "これは人が生きていくうえで必要な電気を繋ぐためのもので この鉄塔の先にもまた街があり人がいるのだということを示唆しているからだ" と答えを出しました。


人の生きていこうという意志の現れであり、 目に見えない広がり、想像の余地、それを与えてくれるからだって。


けれどもこの答えには、友人との何気ない会話の中で疑問符が付きました。 友人は、「道路が好きだ」って言ったんです。「道路は人が便利に生きるために頑張って作ったものだから」って。 すごいなぁ、って思ったんです。私、道路をそんな風に見たことがなかったから。 それからちょっと考えたんです。私が鉄塔を好きな理由も似たようなものなんじゃないか、 でも私は道路にその魅力を感じない、だったら理由は、もっと別のところにあるんじゃないかしら?って。


(なかなか答えは出なくって、この悩みについて友人に話したら、 「鉄塔の方がカッコいいからじゃないの、結局ヴィジュアルでしょ?」と突っ込まれてしまって落ち込んだこともありました。 私は外見の美醜でのみ鉄塔が好きなのかしらってね――間違いではないんですが) (正解でもない) (探していたんです、何なのか……、私の心に響くこれは何なのかって)


でも何時だったでしょう、ある時気が付いたんです。 私、ずっと昔からそれを見て過ごしていた、ってこと。 私、小さいころ、団地に住んでいました。5階建の4階、コンクリートのひんやりした階段を上って左側の部屋。 鉄製の青く塗られたドアを開けて玄関に入って、すぐの和室、その左側のふすま。 それを開けると私の部屋でした。


その団地は坂の上に立っていて、私のお家は一番端の棟にあったものですから 景色が良かったんです、―――うん、とても。 すんでいた町が、すっかり見渡せました。もちろん、鉄塔も。 好きだったんです、その部屋の、窓からの眺めが。揺れるレースのカーテンと、吹き込む風。明るい窓辺。そのすべて。


それをね、ふっと思い出したとき、私はふかく納得したんです。 好きなものはあの部屋にあったんだって。いや、あの部屋にあったから、好きなのかもしれないって。


私の好きなものは幼少期に、そしてあの部屋に帰結するんです。もう戻らない、戻れない、帰れない、あの部屋にです。 とても素敵な法則でしょう?これが私のいちばん大好きな法則です。


ロマを歌わせるのは望郷の念であると聞いたことがあります。帰る場所を求めて歌うのだと、定住しはじめると歌うのを止めてしまうと、 そう聞きました。 私もまた同じ理由で何かを表現せざるを得ないんでしょう。私も似たようなものですから。


帰りたい、という意識はずっと、体のどこかでくすぶっています。 吉祥寺駅2番線に滑り込む電車、見慣れない車体。行先はあの街です。 私はそれを3番線ホームからみとめて、一瞬だけ逡巡して、それと逆方向の電車に乗り込むのです。 家に――帰るために。ええ、まだ、あの電車には乗れないのです。


ああ、脱線してしまいました。以上がネコのつまらない話です。 自分はとんだ懐古厨だと自嘲しています。(私きっと距離と空間のあるものが好きなのだわ!)


ではまたゆるりと書きますね。 お付き合い下さってありがとう。ごきげんよう。

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蛋白質から見る世界 / 著者:くびなが - ch1

蛋白質と世界の話をしよう。少し長くなってしまったけれど、最後までお付き合いいただければ幸いだ。

 皆さんは蛋白質 (一般的にはタンパク質と書かれることが多い) についてどれだけのことを知っているだろうか。蛋白質というのは面白いもので、生物 (細胞) のなかでぐにゃぐにゃしている物体なのだけれど、細胞の複製、代謝、免疫、物質の輸送、情報の受信... などなど生体における様々な機能を担っている。まあ、何か生体内での仕組みを想像してもらったならば、それには多かれ少なかれ蛋白質が絡むと考えてもらって問題はないだろう。そして、もちろん蛋白質というのは分類上の言葉であって、「蛋白質」という何かただ一つの物体が存在しているわけではない。例えば、代謝などにおける化学反応で触媒として機能する蛋白質は特に酵素と呼ばれるし、免疫において体内に侵入した細菌などの抗原と特異的に結合して不活化する蛋白質は特に抗体と呼ばれるなど、蛋白質というのはそれらの物体に共通する構造によって分類された一つの枠組みに過ぎない。そして、酵素というのも分類上の言葉であるから実際は化学反応の数だけ種類が存在するし、抗体などに関しても同様だ。したがって、簡単に蛋白質といってもその種類は星の数ほど (言い過ぎか?) 存在していると思ってもらって構わない。動物も植物も菌類も、生物ならばもれなく持っているものが蛋白質であり、生命を生命足らしめているものは蛋白質だと言っても過言にはならないだろう。

 それでは、次に蛋白質の基本構造について言及したい。まず、蛋白質とはアミノ酸が多数 (まあ、100 から数 100 くらい) 結合してできた生体高分子のことである。そして、蛋白質を構成するアミノ酸の種類は基本的には 20 種類だ。アミノ酸とアミノ酸は互いに手を取り合うことができるので、アミノ酸 A はアミノ酸B と結合して、アミノ酸 B はアミノ酸 C と結合して、アミノ酸 C はアミノ酸 D と結合して... といった具合に互いに連結して 100 から数 100 の数珠からなる一本の紐を作りあげることができる。このような一本の紐がぐにゃぐにゃと折りたたまれて平面や立体を形成してできるのが蛋白質である。また、折りたたまれた複数の紐同士が組み合わさってさらなる高次構造を形成することもある。そして、これらの立体構造はそれぞれの蛋白質に固有のものであり、それぞれが特異的な立体構造を有しているからこそ、蛋白質は多種多様な生理的機能を実現することができるのだ。つまり、蛋白質においては形態と機能が密接に関係していると言える。しかし、特異的な立体構造とは言ったけれど、結晶のような静的で固いイメージはあまり適切ではないので注意してほしい。特異的な立体構造をしているものがぷるぷるしているだとか、ぐにゃぐにゃしているといったような、そういう動的で柔らかいイメージの方が実際に近いはずだ。そして、蛋白質が働く場は水溶液中であることも意識してほしい。人間の 6 割だか 7 割は水だという話も当然に思えてくるだろうか。

 ようやく本題の入り口が見えてきた。アミノ酸からなる一本の紐が折りたたまれる過程は特にフォールディング過程 (folding process) と呼ばれるが、これは蛋白質の研究において盛んに探究されている領域の一つである。盛んに研究されているということは何かしらの興味深いこと、そして奇妙なことがそこで起こっていると推察されるだろうが、まさにその通りなのだ。私たちの日常においては考えられないような、想像を超えた現象がそこにはさも当然であるかのような顔をして存在している。先において、蛋白質はアミノ酸という 20 種類の数珠からなる一本の紐だと言ったが、では 20 種類のアミノ酸のうち何がどのような順番で並ぶかという情報 (蛋白質の設計図だとか比喩される) はどこからくるのだろうか。もちろん核である。核にある DNA に書き記されている。DNA にある情報が RNA を介して伝達されて、アミノ酸の数珠からなる一本の紐を作りあげるのだ。そして、気がついたら紐は折りたたまれた状態で蛋白質として働いているのである。「... ん???、紐はいつ一体誰の手によって折りたたまれたのだ???」。奇妙なことではあるが、どうやら紐は作られると同時に、誰の手も借りずにひとりでに、自発的にただ一つの立体構造へと折りたたまれていくらしい。この過程こそがフォールディング過程なのだ。(実際の細胞においては蛋白質のフォールドを助ける仕組みが色々とあるけれど、これらは蛋白質自身の能力あってこそのものだと考えられている)

 この世界のあらゆる物質はエネルギー的に安定な方向へと遷移する。熱いお湯を置いておけばぬるくなるし、冷たいジュースもぬるくなる。蛋白質もまた然りである。紐である状態よりも折りたたまれた状態の方がエネルギー的に安定であるから、自発的に折りたたまれるのだ。では、なぜ折りたたまれた方がエネルギー的に安定するのだろうか。折りたたまれるということは紐に何かしらの力が働いていることを意味している。蛋白質を構成するアミノ酸 (アミノ酸残基という) 同士に働く力、相互作用は 4 種類存在していて、クーロン相互作用 (静電気力による相互作用)、ファンデルワールス相互作用、疎水結合、水素結合がそれである。これらの相互作用は強さや有効範囲がそれぞれ異なっており、また相互作用する残基の組み合わせも隣同士のみならず、有効範囲内であれば 2 つ隣や 3 つ隣はもちろん、折りたたまれた結果近づいてきた 100 残基離れたもの同士が相互作用することなども考えられる。つまり、仮に残基数を 100 として、20 種類のそれぞれ性質が異なったアミノ酸が 100 残基一列に並ぶだけでも 20 の 100 乗の組み合わせが存在するのに、それらが 4 種類の相互作用によって互いに引力と斥力を立体的に及ぼし合う状況を想像してみてほしい。無限大にも近い組み合わせのなかには、紐であるよりも折りたたまれた状態の方が安定する残基の組み合わせが存在していても、然もありなんというような気持ちが湧いてくるのではないだろうか。そして、その組み合わせは想像以上に厳格に定まっている。100 の残基からなる蛋白質のうちのたった 1 残基が他の 19 種類のどれかと入れ替わったとしよう。そうするとその蛋白質の構造は崩壊して機能しなくなることがほとんどである。全体の構造によって部分が定義されており、部分的な構造もまた全体を定義しているのである。しかし、とても低い確率において、全体と調和しつつ機能を向上させるような変異が起こることがある。そのような変異は継承され得るのであり、継承されたならば次の世代のベースになるのだ。つまり現存の蛋白質というのは、生命のおよそ 40 億年という年月を経た試行錯誤の最前線であると言えよう。

 僕にはこの蛋白質の進化の過程が、まるで蛋白質のフォールディング過程と重なっているように見えた。蛋白質がより安定で機能的な構造へと進化していく様子が、紐である蛋白質が安定な立体構造へと折りたたまれていく様子と重なって見えたのだ。そして、それは種としての生物の進化にも同じものが見えたし、受精卵が個体へと成長していく個体発生にも同じものを感じる。1866 年にドイツの生物学者であるエルンスト・ヘッケルは「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説を唱えたが、なるほどそういうことを言いたかったのだなとヘッケルと同じ視座に立ったような気がした。そして、さらに言うならば、蛋白質のフォールディングの過程というアナロジーによって人間社会の変遷も記述できるのではないかと思うことがある。蛋白質のフォールディングというのは全体を見ればエネルギー的に低い安定状態へと移りゆく流れなのだけれど、部分部分を拡大して見ると必ずしもエネルギー的に安定な方へ行くとは限らないのだ。例えるならば、でこぼこした谷の斜面を谷底へ向かって転がり落ちていくようなものなのである。全体として下っているのだけれど、時々あるところでは引っかかったりもするし、凹みにはまったり、行ったり来たりを繰り返すこともある。しかし、いつかは谷の底に落ち着くのである。そうすると、これまでの人間社会の歴史が蛋白質のフォールディングに似ているような気がしてくる。人類のこれまでの歴史を振り返ると、様々な争いがあり、様々な主義・思想、体制が生まれては廃れてきた。様々な変化があった。もしも人間社会に蛋白質の自然状態 (折りたたまれた状態) に相当する谷底があるならば、我々は今谷底へ至る斜面のどのあたりの凹みにはまっているのだろうか。そして、蛋白質の美しい自然状態に相当する人間社会というのはどのようなものなのだろうか、ということに思いを馳せることがあるのだ。

 先ほど蛋白質の進化の話において、蛋白質という全体構造がアミノ酸残基という部分を定義しており、アミノ酸残基という部分によって蛋白質という全体も定義されるという話をしたけれど、ここでもう一つ視野を広げてみよう。仮に細胞が全体であると考えると、細胞という全体と蛋白質という部分に関して、蛋白質とアミノ酸残基の関係と類似した関係が成立することに気がつくと思う。ここからさらに視野を広げていくと、組織と細胞、器官と組織、個体と器官、環境と個体、地球と環境、宇宙と地球といった具合に似たような関係が次から次へと出てくる。これらの関係を構成する物理的な要素・要因はいずれも異なっているけれど、それらの関係性のみに着目すると類似した構造が現れるのは非常に面白い。何かしらの法則性を感じるのは僕だけだろうか。

 以上において、蛋白質のフォールディングという小さな現象を支配する法則性が人間社会や生命、さらには地球や宇宙といったような大きな現象さえも貫いている可能性を示唆した。僕らが生きるこの世界の根底を流れる何やら真理めいた法則性の存在を感じ取っていただけたなら嬉しい限りだ。まだ名前すらないような法則なのだけれど、(僕が知らないだけで名前が既にあるのかもしれないけれど、) これが「僕の最も好きな法則」である。というか、この法則の本質を理解したいと常々考えている。仮にこの法則に名前がないのであれば不便なので、代表して僕が名前をつけるとすると、初期の蛋白質フォールディングの問題において郷信宏氏が提唱した「コンシステンシー原理」という言葉を拡張・転用するのが良いと思っている。誰か代案があれば伺いたい。



 最後までお付き合いいただいた方々へ、ありがとうございました。何かしら得るものがあったのであれば、それ以上の喜びはありません。

 くびなが

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「恩師の教え」——私の最も好きな法則 / 著者:ドーナツ - ch1

私のやっていることは多岐に及び、そこに秩序など存在しないかのように思われる。
専攻はアラビア語だが、国内の離島へ行ってみたり、在日コリアンの調査をしてみたり、本をつくってみたり、短い大学生活の仲でまぁいろいろなことをやった。
また、どうでもいいことではあるが、案の定私の部屋もものがごった返している。これは幼少の頃からなので、もうどうしようもない。「研究室っぽくていいじゃん」ということで、本などの書類に関しては床に積み上げるという手段をとっている。

そんな性分なので、秩序や法則に従うことを是としない人間になってしまった。
いや、もともとそういう人間なのだろう。
中学高校のころ(中高一貫の女子校)では、封建的な部活の上下関係という秩序に耐えかね、よくトラブルになっていた。

だが、いくつか「これは従わざるを得ない」という法則がある。
それについて紹介してみよう。


中学高校の恩師に、なかなかに破天荒な人物がいた。
理学部を卒業した後、別の大学の文学部を卒業したという経歴だけでも十分破天荒だが、普段は生徒を追いかけ回し、授業では好きなことを言い、定期試験では中学2年生にセンター試験の改題を解かせるという、なかなか楽しいことをやっている人物だった。
高校3年生の夏休み、補習で「みんながどの大学受けるかくらいは全員把握しておかねばなりません、じゃ、○○大学受ける人手上げて〜?」なんてこともやっていた。
下手をしたら訴えられかねない人物である。

そんな彼の言葉には、不思議な説得力があった。
女子校という環境で異性の目に晒されることなく、いつも自由に振る舞っていた私たちも、なぜか彼の言うことはそれなりに聞いていた。
私も彼から、国立大の二次試験の5日くらい前に「お前は○○大(第一志望の大学)に受からなかったら人間として認めない。」と言われ、「まじかよ。」と思ったが、なぜだかその言葉に卑屈になるのではなく、受け入れてとりあえずがんばろうと思ったものだ。
結果受かってしまったので、なんなんやこの先生は、という感想。

私たちが彼から授業で再三言われた言葉がある。

「『いい人』の前には『どうでも』という4文字がつく」
「結婚は打算と妥協」
「何を考えているか分からないやつはたいてい何も考えていない」

高校を卒業してから、これらの言葉が真実であると実感することになった。
中高一貫の女子校という、アットホームではあるが閉鎖的な環境を飛び出し、いろいろな人に出会ってきた。
本当に何考えてるか分からんやつは何も考えていなさそうだったし、「あの人、いい人なのにね〜」と言われている男子には本当に彼女が出来なかった。
今のところ結婚は現実的ではないが、おそらくこれから分かっていくのだろう。

私が一番良く言っているのは「『いい人』の前には『どうでも』という4文字がつく」である。
当初、この人はいい人だと思ったら本当にいい人だったと思った場合もあるが、実は「どうでも」いい人ではなかった、なんてことがこれまでに何度もあった。
この人、第一印象はいい人だったのに、どうして仲良くなってからはこんなにちゃらんぽらんで私に対して失礼なのだと、憤慨するたびにこの言葉を思い出す。



この法則は、彼がその破天荒な人生の中で体得してきたものなのだろう。
だからこそ、その言葉には真実みがあり、私たちが今後の人生で応用していくことも出来るのだろう。

高校卒業間近の雪が降りしきる日、感謝と愛情を込めて、先生の外車に積もった雪の上から「LOVE○○(←先生の下の名前)」と落書きしてきたのは良い思い出である。

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