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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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ふまじめ教育論 / 著者:てだ - ch11

 私は自分がバイトをしている塾で最も不真面目な講師であると認識しています。
 「今日は何やりたい?」と、授業計画を生徒に丸投げすることなどザラですし、授業1コマ90分のうち半分を雑談で消化するときもあります。そして報告書の内容に脳みそを絞ったり、宿題を出すのにあたふたしています。
 正直私の怠慢な部分もあります(というか書きながら少々ヤバい気がしてきました)。しかしながら、これらの行為は私の拙い教育理念にある程度基づいたものなので、今回はそれをお話させてください。

 私の教育理念、それは「勉強をいかに軽く考えさせるか」です。
 子供のとき勉強したことは将来に大きくつながるため、非常に重要であることは大人であればだいたい知っていることです。ただ、それを子供に理解させることはとても難しい。いくら周りの大人が強調しても、訳がわからず背負いこんでしまう子供はたくさんいます。
 塾に通う子たちも例にもれず、成績のことで親に叱られ、いつも「勉強しなさい」と言われて劣等感を必要以上に強く感じたり、「親は自分に無関心なんだ」と感じていることがよくあります。

 そしてそれらの感情が行き着くところは、だいたい「イヤだけれど勉強をやらねばいけない、よい成績をとらねばならない」です。

 もちろん塾講師の分際では人様の家庭教育の方針に口を出すなどとてもできません。そのおかげで巡り巡って私にお給料が入ってくるのですから。ですが私も中高生の時は塾通いが大嫌いだった人間の端くれ。私がこのバイトを辞める、後の時代には塾産業が少しでも衰退しているようこそこそと活動しているのです。

 そこで、「勉強をいかに軽く考えさせるか」です。
 これを実践するには大きく分けて2つの方法があると思っています。学習している内容に感情移入させるか、させないかです。
 前者は、得意教科ではその科目にまつわる雑談(高校、大学で習う内容とか)をしたりして関心が高まると、「勉強させられている」という生徒の心の負担がなんとなく減るかなというもの。後者は苦手科目について。なんとかして興味を持たせようと悪戦苦闘するよりはとにかく大量に練習問題を解かせて、深く考えずとも点数が取れるという状態まで持って行ったほうが効率がよく、本人もよい結果が出せるような気がしています(それまでたくさん励ましが必要な場合がままありますが)。

 中学校の時など、テストの点数だけで人生がどん底に思えてしまうような、一喜一憂の激しい小さな世界に暮らしていました。それはそれで素敵だったと今では感じるときもあります。
 でも、私は自分の教え子たちにはもっと大きな世界で生きていてほしいと願っています。勉強が好きならもっと深い知識の入り口を知ってほしいし、嫌いならば勉強なんて、と笑い飛ばせるような広い視野を持っていてほしいのです。どちらの場合でも「今勉強していることなんてちっぽけなもの」と思ってくれる子がいたら私の勝利です(何に対してだよ)。 
 割と熱く語ってきましたが、私に教職課程を取るつもりは全くありません。あくまで斜に構えた程度で、学校の授業なんてつまんないよねー、と生徒とクスクス笑いあう怠惰な塾講師の立場にしばらく甘んじる予定です。

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【企画】散歩がてらに同人誌即売会へ


 いつもお世話になっております。編集のらららぎです。

 先月の文芸フリマで、自分(とちくわさん)が主催の同人誌を初めて世に送り出し、その事実を思い返すたびに震えが止まらなくなる怪奇現象が起こっております。

文フリの戦利品どれもちょっとずつ読み進めているんだけど、「そうそうこういうのが読みたかったんだよ」というものに、どういうわけかよく出会う。それがもし錯覚なのだとしても、そんな錯覚を作り出してしまう同人誌の世界はやっぱりすごいなと思うし、たぶんそこで得た「書いている人が何か書きたいことを書こうとしていてぼくは今それを読んでいるんだ」という生々しい感覚を、一般の(商業出版された)本を読むときにもダブらせることができたら、それはとっても楽しいことだろう。写真を見て、その写真に似た風景をふと見つけるように。
――ちくわ『練物語』「毎日更新とか言ったのを早速忘れるところだった」より

 当たり前のことかもしれませんが、同人誌即売会には、同人誌即売会にしか売っていないものがたくさんあります。それが商業出版ではないものだからといって、商業出版の劣化版というわけではありません。確実に何かが根付いており、確実に何かが葺き込まれており、確実に何かが託されている「創作物」が、そこかしこにあるのです。

 そういうものとふれあいにいくこと、創造主の顔ぶれを見知ること、何も買わなくとも、それだけで読書経験が豊かになるかもしれず、それだけで自分の見聞世界が広がるかもしれず、それはそれはとても貴重なことでしょう。

 2015年3月8日(月)、川崎市産業振興会館の4F展示ホールで開催されるテキスト系だけの同人誌即売会『Text-Revolutions』の記念すべき第一回を見物(散歩)しに行きませんか?(関東のイベントでごめんなさい)。

 行って見るだけでも楽しいですが、もし参加者がおりましたら専用のお題を立てますので、(1)そこで気付いたこと、(2)買った同人誌の書評(読書感想文)などについて書き合ってみませんか。ご参加希望の方がおりましたら、どうぞ気軽にらららぎかちくわまで!

(このサイトに参加していない人でもご一緒にどうですか!)

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chiasma27:「ならば二兎得るためにはどうすればよいか」

chiasma 27:「ならば二兎得るためにはどうすればよいか」

『兎を追う』(天河野乃)

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紙の灯りの前のぼく / 著者:らららぎ - ch25


 言うまでもなく、僕と紙は書籍という形で接触することが多い。しかし、必ずしもその事実が「私と紙と読書と」みたいな昭和の文学少女的イメージにつながるわけではなく、むしろ僕にとって、紙は《灯りの存在と暗さを知るための用具》だといえる。

 パソコンをやっていると、何かを読むときの明るさが均一になる。いまも文芸誌の原稿を書いていたり、翻訳をしていたりしたら、夜が朝に変じたようだが、目の前にあるディスプレイの明るさは(ツムツムで放置しているあいだ以外)全く変わらなかった。ちくわさんの突発的長文ツイイトも、つけ麺食べたがっている方のほんわかダンシングライクツイイトも、よく知らない女子高生が冬の寒さを実感しているツイイトも、同じ明るさで読めるのだ。文明が何はともあれ発展したおかげで、仕事の効率が上がったのではあるが、そんなオフィス事務的なことの能率向上と引き換えに、灯りという存在を消し去ってしまっているのだ。

 本を読んでいてとても嬉しいのは、部屋の灯りを減らしておけば、めくるたびにページの照明が変化し、本を持つ角度や読む体勢を変えるだけでも影の形が別様に映り、「そうか光があるおかげで読めているのだ、そしてその光はほんの少しでよいのだ」ということに気付かされる。本を読むためには、(慣れていない人はどうだか知らないが)灯りがほんの少しあればよい。月が明るい日には、月夜の灯りだけでも事足りる。

 紙は光を反射して、《そこにどれだけの光量があり、私の視覚を支えているか》ということをリアルタイムで教えてくれる。だから僕は、本を開くことで、そこがどれぐらい明るくて、どれぐらい暗くて、「その明るさが自分に合っているか」といったことをチェックすることもできる。光環境チェックシートとしての書籍。

 君の部屋は、もしや明るすぎないかい――その問いに、きっと《本》が、《紙》が、答えてくれるだろう。ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー

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紙は、凶器だった。 / 著者:こはく - ch25

こんにちは、こはくです。

『あなたにとって「紙」はどのようなものですか』。
このお題を聞いてぱっと思い浮かんだのが、『紙は私を傷つける凶器である』ということでした。
紙を「面」ではなく、「線」として見たときのお話をしたいと思います。

折り紙、チラシ、教科書。
これらの紙類と一緒にいるとき、僕は常に恐れを感じていました。
彼らが、僕を傷つけるであろうことを知っていたからです。
みなさんも子供の頃、紙で指を切ってしまったことが何回もありますよね。
あれ、あれです。
僕はあれがとても怖かった。
走っていて転ぶとか、友達と喧嘩して青あざができちゃったとか、そういう痛みとかとは種類の違う痛み。
なんというか非常に鈍い痛み、「シュッ」という音と共に血が出てきてじわじわと鈍い痛みを感じるあの感触が、僕には耐え難かったのです。

紙で手を切ったことはここ数年間ありません。
彼がつけた傷跡は僕の指に残っていませんが、心の中には彼によって傷つけられたという記憶が残っています。
学校の新学期に手にした教科書によってつけられた傷。
母に「そこのチラシ取って」と言われて手にしたスーパーの広告によってつけられた傷。
好きなバンドのライブチケットを封筒から取り出したときにつけられた傷。
そんなことが僕の人生にも幾度となくありました。

その反動なのかは分かりませんが、僕はデジタルの世界に逃げ込みました。
本の代わりに中学の頃はコントローラだけ触っていればいいテレビゲームに熱中し、高専時代には携帯電話、社会人になってからはスマホをいじってばかりでした。
紙に触れる必要のない生活、傷つけられることを恐れなくてもいい生活を選んでいたのです。

でも周知のとおり、紙は僕たちに色んなことを教えてくれます。
教科書を開けばこれから僕たちが知るべきことが書かれているし、学術書を読めば僕らの頭をある意味で強制的に働かせてくれます。
勉学だけでなく、ライブのチケットを窓口に差し出せば一度しか観られない体験をすることができます。
そして何より、紙は痛みの感覚を思い出させてくれます。

それを思い起こしてから、僕は紙と接する機会が増えてきました。
恐れていたものを乗り越えることで、僕は成長する機会を手にできました。
この共同ブログを読んでいる方は本をよく手にする勉強熱心な人が多いのではないかなあ、と僕は勝手に思っているのですが、もし昔の僕のようにデジタル漬けの日々を送っているのなら、久しぶりに本を手にしてみてはいかがでしょうか。
あなたの知らないことを、紙が教えてくれますよ。
あなたの忘れていた事を、紙が思い出させてくれますよ。

以上、こはくでした。
おしまい。

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居場所をめぐる長い長い旅 / 著者:草薙菫 - ch10


 あなたは「居場所がない」と感じたことがありますか?

 新しく入ったばかりの職場や教室や部活動で、まだ仲良く話せる人がいない状況にあるから。いままで仲良くしていたはずのグループの中で、無視されるようになったから。《居場所のなさ》を感じる要因は、人によってたくさんあると思います。

 「居場所」は、「居場所がない」と感じられたときに、強く意識されるものです。
 わたしにとって、それは時々訪れます。

 たとえば、放課後。

 その後に予定のない放課後は、たいてい、家に帰るか喫茶店に行って勉強や読書をするかなのですが、どこへ行っても不正解な気がするのです。どこに行っても身の置き場がないように感じられます。そんな時、わたしは街を放浪します。「居場所のなさ」を引き連れて。

 たとえば、同じ年頃の人たちがつめこまれた教室の中。

 大学では人間関係に挫折して主に一人で過ごしていたのですが、教室によっては、一人で授業を受けているとき、涙があふれでてきたり、これ以上その空間にいることができずに退席したりしました。その時の感情を言葉にすると、世界に身の置き場所がない、といった感じでしょうか。落ち着かず、心細く、惨めな感じ。

 そんなわけで、わたしは人よりも「居場所」を強く意識するようになりました。

 卒論では「居場所のなさを抱えて生きてきたものが、日常場面で居場所を感じられるようになるとき、そこにはどのような精神力動が働いているのか」といった内容をテーマにしました。そこで知ったことや考えたことを踏まえて、わたしの場所についてお話します。

 「わたしの場所」という言葉の並びを見たとき、恋愛経験のない夢見る乙女のように、恋人や仲間がいる空間に、代替不可能な存在として、心から笑ったり泣いたりしているわたしを夢想します。実際に、ここが「わたしの場所」だとはっきりと感じたのは、わたしの存在を何よりも大事に想っていると感じさせてくれる人との関わりの中でした。

 わたしには、よくわからない概念がいくつかあります。「ありのまま」「心を開く」などの言葉に内包された意味がその内の一つです。

 先行研究では、

“臨床実践にかかわる研究において、「居場所」が「ありのままの自分」で居られる場所として定義されている。”

と述べられた上で、

“「ありのままの自分」を実感する上で、自己の困難な部分が表出され、受容されることが重要であり、その時、クライエントと治療者あるいは治療的な環境との間で、「依存」が達成されていなければならない。しかし、クライエントはこれまで、自分自身の困難な部分が、環境に十分に受け入れられず、そうした「ありのままの自分」は環境によって、あるいはクライエント自身によって否定されてきたという経緯がある。すなわち、「居場所のなさ」を反復するクライエントは、健全な形での「依存」を達成することができなかった歴史を生きていると考えられる。 (注1)”

と書かれています。

 確かに、「わたしの場所」を感じさせてくれた人は、居場所のどこにも無い感覚や、生きることの困難さなどに襲われているとき、わたしの避難場でもありました。わたしはそこで「ありのまま」に振る舞うことができました。つまり、感情をダイレクトに表に出せることで感情の種類が増えたり、その直接的な感情の中から言葉を発することができたりしました。(たとえば、何も考えずに心から、笑うことで楽しさを抱いたり、泣くことで安心感をいだいたり、できました。)生きてる感じがしました。しかし、いままで一人で耐え込んできた感情も、耐えられたはずの感情も、大きくなって現れてきます。そうして避難することを繰り返した結果、ずぶずぶと依存していきました。

 わたしは、自分の中で、依存と恋を見分けることができません。世間的に言われている恋とは、寝ても冷めても相手の存在が心の片隅にあって、求めて切なくなる感情のことを指すのだと思います。わたしの場合、愛される自信が無いにも関わらず相手のわたしに対する気持ちに寄りかかっていたため、見離されることや冷められることへの不安と、わたしと相手とのあいだにある距離感によって苦しくなりました。その苦しみの避難場も相手が引き受けるので、負のスパイラルです。寝ても冷めても相手のことしか考えられず、相手と会える時間がわたしの全てとなります。わたしは自分の肥大化していく恋心によって潰されます。

 それでは、健全な形の「依存」とは、どのようなものなのでしょうか。

 それを考えるにあたって、土居健郎の「甘え」に注目しました。わたしの中に、どんなに甘えても甘えても満たされない隙間があったからです。甘えには、素直な甘えと屈折した甘えがあり、屈折した、つまりよくない甘えのことを、「自己愛的甘え」と言います。

 「自己愛を自覚しなさい」とお叱りをいただいたことがあります。その時、自己愛という言葉が何を指すのか、わかりませんでした。そして自己愛的甘えについて研究を進めていくうちに、納得のいく文章に出会いました。

 “自己愛というのは、単に正しく自己を愛することとは違い、自己中心的、利己的なものであり、それはどのように利己的であるのかというと、精神的な弱みからくる欠乏状態によって、対象関係において、わがままで要求がましい状態を伴う。そして自己愛の中心的な問題として、十分に愛してくれない、満たしてくれない他者や、言う通りにしてくれない他者への不満や怒りを伴うといった特徴であり、このような自己愛的心理が「自己愛的甘え」である。(注2)”

 図星です。「居場所がない」と感じている時、愛されたい、全てを受け入れられたい、一体感によって満たされたい、などという欠乏感が強く現れていた気がします。これにより、健全な「依存」= 素直な「甘え」であると推測しました。

 そして、自己愛的甘えを解決したら、大切な人に依存せずに済むだろう、「わたしの場所」を安定して得続けることができるだろう、と考えました。

 素直な甘えはこのように書かれています。

“甘えとは分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚することである。つまり、「対象とは一体ではないことはよくわかっていながら、心のどこかでは対象との分離を否定している」心と、「対象と一体であると感じながら、同時に心のどこかではそうではない (対象と一体ではない) ことがわかっている」という心の相反する二つの心的態勢の同時的な共存である。(注3)”

“「自分」の意識は、甘える関係の中に埋没して失われていた自分を、甘えていた対象から分離して見つめるところに生起する。そこには、「自分を大事にしなければならない」というような自分に対する積極的な感情も含んでいる。(注4)”

 しかし、自己愛の傷つきによる欠乏感があると、相手に埋没したまま戻ってこれなくなります。「対象と一体であると感じながら、同時に心のどこかではそうではない (対象と一体ではない) ことがわかっている」という意識が難しいのです。離れているときに (相手の関心がわたしに向いていないときに) 一体を感じられず、分離の否定が先走り、相手が置かれている状況を考えられなくなります。

 自己愛的甘えの解決策として、このように書かれています。

“素直な甘えは、人間関係の基本に信頼や安心があり、相互的な信頼を軸にしており、「落ち着く」心理を含んでいるのである。そして、そのような心理を基盤にして、利己的で要求がましく、一方的な自己愛的甘えから脱却する (「いつまでも甘えていられない、自分を大事にしなくてはいけない。」と自覚する) ことが、素直で健康的な甘えにつながると考えられる。(注5)”

 お互いに信頼し合っている関係のなかで、自分の欠乏感から来る甘えを自覚して、その甘えを相手に満たしてもらおうと欲する代わりに、自分を大切にしようとすることで、素直な甘えができ、居場所を感じられるようになる、ということなのでしょう。

 ここで、新たな問題が立ち上がりました。「信頼」とは、何でしょうか。

 文字通りに解釈すれば、「信頼」とは信じて頼ることです。「頼る」は、自己開示をしたり、その存在によって心を休めたりすることであろうと、なんとなくわかりますが、「信じる」は難しく感じます。疑わないこと、ではないと思うのです。疑ってあれこれ考えた末に信じたものは、すぐに信じて受け入れたものより、価値があるような気がするからです。

 「対象と一体であると感じながら、同時に心のどこかではそうではない (対象と一体ではない) ことがわかっている」が出来ないのは、この「信じる」が出来ていないからではないでしょうか。

 もしも、その時の相手の言動が、真摯な気持ちから発せられたものであるという確信が「信じる」なのであれば、相手に埋没し、自分がない状態にあるとき、「信じる」行為は難易度が高いです。逆を言えば、相手がわたしの元からいなくなって依存が和らいだとき、過去のその人を「信じる」ことは容易です。

 共依存の関係 (あるいはわたしが一方的に深く依存していた関係) にあった相手がわたしのもとから立ち去った後も、わたしの中にはその人の存在があります。話したことや共有した時間は残るし、心に溶け込ませたものは分離できない。

 それは、「自分」の意識が新しく生起した、とも言えるのではないでしょうか。

 「わたしの場所」を感じ続けられるようになるためには、その「自分」を大事にしつつ、「自分」を無くさないように、ゆっくりと信頼関係を築いていくことです。



(注1) 中藤信哉 (2013). 心理臨床における「居場所」概念 京都大学大学院教育研究科紀要, 59, 361-373.
(注2) 土居健郎 (2001). 続「甘え」の構造 弘文堂.
(注3) 土居健郎 (1971). 「甘え」の構造 弘文堂.
(注4) 土居健郎 (2000). 土居健郎選集1 精神病理の力学 岩波書店.
(注5) 稲垣実果 (2005). 自己愛的甘えに関する理論的考察 神戸大学発達科学部研究紀要, 13, 1-10.






(編集・校閲責任:らららぎ)

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サーキュレーション / 著者:開発室Graph - ch24

「恩」とか「負い目」についてものすごく悩んでいた時期があった。大体いつごろだったか詳しくは忘れてしまったけれど,きっとその頃の僕は「人にする行為」についてものすごく悩んでいたように思う。

  だれかになにかをするときに「恩」を感じられるのもあんまり好きではなかったし,だれかになにかをされたときに「負い目」を感じるのも好きではなかった。
  でもそれらがまったくなくて平気かというと,逆にそういうわけでもなかった。「じぶんがした行為」について,恩とはいかないまでもある程度の感謝はしてほしかった。逆に相手からされたことをじぶんがなんとも思わず,感謝を示していないかのように思われるのも,それはそれで嫌だった。
  とにかくその頃のぼくは「他人に対してすること」に対してものすごく悩んでいたし,困っていた。その結果他人にどう思われるかについても,同じようにものすごく悩んで,そして困っていた。

  今でも「じぶんがしたことを他人がどう思っているか」についてはこれでもかってくらい考えてしまうし,その逆で「他人がしたことに対するじぶんの行為を他人がどう思っているか」も同じだ。それで僕の頭はぐるぐるしていたし,今もきっとどこかでぐるぐるしているのだと思う。

  他人のことを考えることはできない,と述べる人がこの世の中には一定数いる。他人のことを考えているつもりでも,結局「じぶんだったらどうするか」を考え,それにしたがって相手の行動を予測しているだけだ,と。
  「恩」とか「負い目」とかも結局はそのようなものかもしれない。じぶんが発した行動を解釈するのは,それを受け取った相手に他ならない。相手がどう解釈してくれるのかなんていくら考えたところでわからない。

  しかも「恩」とか「負い目」とかいうものは,必ずしもリアルタイムで作用するものではない。
  後から考えなおしてみて「あの人のあの行為はそういうことだったのか」という風に「負い目」を感じた経験というのはそれなりに多い気がしてしまう。
  「恩」についても似たようなことが成り立つ。「そのときはわかってくれなくても,いつか相手がわかってくれればいい」といったようなもののことだ。
そうやって色んな「恩」が気づかれたり発見されたりして「負い目」になっていくのかもしれない。

  考えれば考えるほど,他人との関わりというのがわからなくなっていく。「恩」にも「負い目」にもガチガチに縛られて,身動きがとれなくなってしまうようにも思えてくる。

  でもいつ頃からだったか,僕は(名付けるとすれば)「サーキュレーション」のような法則(ほど仰々しくないもの)を当てはめて暮らしている。その法則を使うことで,少しだけ毎日が楽になったような気がする。

  もう「恩を直接もらったり直接返したりする」ことはやめた。「負い目」を抱いて,恩をもらった人に返すことは難しい。それよりも,恩と負い目がぐるぐる回っていくといいんじゃないか,と考えた。

  「恩と負い目がぐるぐる回る」とは,「誰か」からされた行為を「恩」に感じたら,それをとにかく違う「誰か」へと運搬する。といったことを示す。そうやって「恩」や「行為」が世の中をぐるぐる回っていって,そしていつかはじぶんに「恩」を与えてくれた「誰か」に届くかもしれない。僕はそう考えることにした。「恩」を「恩」だと気づいたときに,負い目を感じることなくそれを誰かに運搬する。
  そうやって考えることで,僕は少しだけ楽に生きられるようになった。

  さっき「他人のことを考えることはできない」と言う人がいると書いたけれど,他人のことを考えるということは別に悪いことではない。むしろ相手のことを考えてなにかをしようとすることは,それができないとしても,少しは世の中を良くしてくれるだろう。
  だってぼくたちは,他人のことを考えようとしているからだ。それが無理だとしても逃げ出さずに,きちんと向き合っているからだ。

  気づかないうちに僕のところにも,まわりまわって誰かからの「恩」が届いているのかもしれない。あなたが発した「恩」も,まわりまわって誰かに届いているのかもしれない。

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