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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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水瀬名雪に恋をして / 著者:nayuki - ch3



みんなでしんがり思索隊に参加してみることにしました。スタートに丁度良いと思ったので、お題03の「アカウント名の由来と自分について語る」から書き始めてみることにします。書くこと、アウトプットすることがあまり得意ではないので、それの良い訓練になればいいなというスタンスで、これからスローペースで投稿させていただくことにします。


(問)なんで”なゆき(nayuki)”なの?→(答)思い出のギャルゲ、大好きだったキャラクターから。それと、ほんのちょっとの決意。


いつからこのハンドルネームを使い始めたかは、正直なところ、よく覚えていません。僕が高校生くらいの頃、Twitterを始める前に入り浸っていたLivetubeというストリーミングサイトでは、その時ハマっていた美少女麻雀漫画に影響を受けて”K Ikeda“というアカウント名を使っていました。

nayukiというハンドルネームは、多分、Twitterを使いはじめた頃、高校を卒業した頃から使い始めたものだと思います。高校を卒業してから今まで、4年間ほど、nayukiという名前をずっと使い続けているわけですが、このアカウントネームを使うに至った理由は大きくわけて2つあります。

1つは、小学校時代始めてプレイした”Kanon”というギャルゲのメインキャラクターの1人、“水瀬名雪”がこの上なく好きだったからです。多分、僕の初恋の人。

・Kanon Standard Edition - Prologue



Kanonファンにしてみると、このキャラはあまり人気がないようです。というのも、”うぐぅ”で有名なもう1人のメインヒロイン月宮あゆの存在感が圧倒的だから。それに加えて “春が来て、ずっと春だったらいいのに” でおなじみの沢渡真琴のシナリオの完成度が作品中で1つレベルが抜けてしまっていること。残念ながら、これらのキャラクター人気に押されてしまって、名雪は正史ストーリーに大きく関わってくるメインヒロインの1人であるにも関わらずあまり人気がないようです。それでも、僕は大好きでした。

舞台が雪の町によく映える、とても綺麗な青髪ロングのストレート。朝寝坊、学校に遅刻する! とハラハラしている主人公に『100メートルを7秒で走れば間に合うよ〜』と、間の抜けた発言をさらっとする愛嬌の良さ。自分の本当の気持ちを大切にしたいと思いながらも、それをすることで好きな人を傷つけてしまうかもしれないというジレンマに、答えが出さないでずっと悩んでいる、いじらしさ。

名雪の好きなところをあげだしてしまうとそれだけで大変な量になってしまいますので、この記事では、”nayuki”というアカウント名をつけるに至ったもう1つの理由にフォーカスを当てることにします。

一見すると、ただ単に好きなキャラクターの名前そのまま借りただけ。実際のところは、名雪好きー! が大半の理由で、その他あんまり深く考えるような事はなかったのですが、それでも、1つだけ重要視していた要素がありました。

それは、自分の本名に少なからず何か因んでいるか、ということです。

あくまで本名に因んだ名前をネット上でも使うことによって、リアルとネットの境界線を曖昧にしていきたいという密かな思いがありました。そう思うに至った経緯の話は、僕の中学高校時代にまでさかのぼります。


”リアル世界とネット世界”という考え方。それって二項対立させるもの?。


僕の中学校高校時代は、今思い返すと、散々なものでした。勉強にも部活にも趣味にも、いまいち熱中することが出来ずに、特に何をすることもなくぼーっと過ごしていた毎日。他人と会話するのもあまり得意ではなかったため友達もあまりいませんでした。

気が付くとネット三昧の日々を送っていました。アダルトゲームや、ネットゲーム、ニコ動やニコ生に夜遅くまで入り浸るところから始まり、気がつけばLivetubeで自分でも配信をするようになっていました。

あの当時、何をするにも無気力だった”リアル世界”と違い、”ネットの世界”はとても楽しかったのを覚えています。そこには、同じ趣味を持った人たちが何百万といて、そういった人たちと簡単につながることが出来る。”リアル世界”でのフェイス・トゥ・フェイスでのコミュニケーションと違い、顔の見えていない相手とのチャットなら、コミュニケーション能力のあまり高くない僕にだって気軽に出来る。

そんなこんなで、リアル世界に居場所を見つけることが出来なかった僕は、ネットに”はけ口”を見つけることが出来ました。パソコンをつければ、楽しく話せる友人がいて、楽しく出来る何かがあって、楽しい時間を過ごすことが出来る。いつしか、リアル世界が面白くなくても、ネットの世界が面白ければ、それでプラス・マイナス0かな? と考えるようになっていました。ひねくれたネト充の出来上がりです。


それでも”リアル世界”は容赦なく立ちはだかってきて、完全にそれから逃げることなんて出来ないんだ。


長い間、ネット世界にどっぷりとつかっていましたが、正直内心では、”このままでは完全に駄目になっていってしまう”というのはよくわかっていました。背徳感から得られる快感のようなものがあって、だからこそ、ネットにあそこまでハマってしまったのかもしれません。

何年もかけて作りあげてきた習慣はそう簡単に変えることは出来ませんでした。ドラマのように、何か心を強く打たれるような衝撃的なイベントに遭遇して改心した、とかそういうのは一切なくて。それでも、色々な出来事を通してちょっとずつ変わっていくようになりました。

それは、例えば、受験の失敗からだったりします。高校時代の僕は(今も言えたほどではないけれども)全くといっていいほど勉強をしませんでした。勉強を本気でしない割に、勉強をなんとなくしている”振り”をするのは人並み以上にうまかった。問題集の問題をてきとうに暗記して、難しい分からない問題なんかは、それを理解したいという思いよりも、先生に良く思われたいという思いから積極的に質問しに行っていました。

今思えば赤面するくらい恥ずかしいことなのですが、あの当時の僕は、『このままなんとなく勉強していも、それなりの大学には合格出来るだろう』なんてことを思っていました。とても恥ずかしいです。

いざ本番。結果は大失敗。第一志望で受けた東京の私大は不合格。地元の大学の後期試験も申し込んでいたのですが、あの3月22日大震災の影響で、後期試験とセンター試験の結果を合わせた試験から、(後期試験を行わず)センター試験のみでの合否判定に変更。センターで躓いてしまっていた僕は、地元国公立にも合格することが出来ませんでした。

その時の僕は、今までに感じたことのないくらいのない恥ずかしさと情けなさ、そして母親に対する申し訳なさで頭のなかがいっぱいでした。そもそも、受験勉強というものに真摯に向き合ってこなかったにも関わらず、結果が悪くて失望するということ自体矛盾しているような気がするのですが、なんとかなるだろうと思っていたけれどもなんとかならなかったという経験は、過去あまりありませんでした。これからの将来をを大きく左右する(と少なくとも当時は思っていた)受験レベルでの失敗ともなると。それと同時に、僕に期待を掛けて、教育費をとことん費やしてくれていた両親を、いまさらになって裏切ってしまったというような思いに駆られて、なんだかどうしようもないような気持ちになってしまいました。

勉強云々にまず、生活態度、物事に対する考え方を少しずつ修正していかなければいけないと思いました。その時はじめに考えたのがネットとの付き合い方でした。


逃げ道としてのネットではなくて、良く生きるためにネットを使っていく。


ここに来ていよいよ始めの話に戻ります。『なんでなゆき(nayuki)なの?』っていう問いでした。それは、今までネットをリアルに対する逃げ道として使っていた自分との決別。ネットを、あくまで、リアルの延長線上にあるものとして利用していこう、リアルを良くするためにネットを使っていこうという、ちょっとした決意からでした。自分の本名に少しでも因んでいるアカウント名を見ることで、過去自分がおかしてしまった過ち繰り返さないように。そうすることで、今ネットをしている自分はまぎれもなく、リアル世界の僕なんだ、ということをいちいち確認できるように

そういった経緯で”名雪”という名前をツイッターで使い始めました。それが、後に英語圏の人達とも話をする機会が増えたりしたので”nayuki”というローマ字表記に後で変えて使うようになって、現在に至ります。

長くなってしまいましたが、以上が “nayuki” というアカウント名をつけるに至った理由です。

ネットにたちの悪いハマり方をしてしまったキモオタの挫折とそこから再起することを願っての小さな決意のお話でした。




終わり。

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*初心者ライターのための文章講座3 ― 良い文章を忘れること*

どうも、編集のらららぎです。

第一回目では「誰にも何にも邪魔されなかったら書きたいこと」を探して書いてみようという話をして、第二回目では「言葉にできない微妙な心地や感覚を書こうとすること」が大事だという話をしました。

今回は「良い文章を忘れること」について書いていこうと思います。

******************

誰かに何を教えるとき、「こうすると良い」「こっちのほうが良い」などという伝え方をすることがあるでしょう。

良い文章、良い学習(方法)、良い考え、良い動き、良い声、良い演技、良い姿勢、良い組み合わせ、良い発想、良い格好、良い引用、良い色、良い作法、良い態度、良いえとせとら。

「これがよくて、これがわるい」という覚え方をひとまず学習といいます。

僕らは何かにおいて自分が初心者だと思い込めば思い込むほど、「良いとされているそれら」の情報を一生懸命あつめようとするのです。

「これが良い文章(の書き方)だ!」と誰かが言っていることに耳を傾け、「なるほど、ほうほう」と頷きながら、良い文章とは何かという情報を拾って回るでしょう。それが「良い学習態度」だからかもしれませんし、それしか知らないからかもしれませんね。

しかし、最初のうちからそうやって「偉い人や先生が言っていた《特権化された良い文章》」を追い求めていると、それが特権化されていることに気づかないままになってしまいます。僕たちは、「良い文章」を教えてもらっているのではなくて、「特権的なこと」を教えこまれているのです。

誰かに何かを教えるときに、自分に発生している《特権的なこと》を自覚している人はあまり多くないでしょう。大学生の塾講師なんかがソレすぎて分かりやすいのですが、「これは良いこと(良いもの)である」という情報がどうしても自分寄りになってしまうものなのです。

今日ここで知ってもらいたいことは、スピヴァクという哲学者が提唱した「忘却」(unlearning)という概念です。

「教えこまれた特権をわざと忘れ去ること」をいいます。特権というのは情報の偏りです。偏った情報の塊です。良いとはこういうことだ、悪いとはこういうことだ。教えてくれる人がそうやって流し込んできた情報の偏りを、忘れちゃうことが肝心なのです。

「文章(センテンス)は短いほうが良い」――忘却。
「結論を先に書いた方が良い」――忘却。
「分かりやすい具体例が良い」――忘却。
「引用は必要なときだけにするが良い」――忘却。
「読みやすい文章が良い」――忘却。

そういう誰かが教えてくれた《教科的な良さ》は全て忘れてください。その後になってようやく、自分の感覚を信じてだいじょうぶになるのです。その後になってようやく、自分の《生々しさ》を知るのです。その生硬な文章に、あなただけの何かがあるでしょう。

忘却の方法ですが、それは自由です。無責任に言います、自由です。やることは簡単なんです。「いままで自分が良いと思ってきたことは、実は誰かに教えられた教科的な良さであって、自分の感覚で断言したものではない特権的なものなのではないか」と自問してください。

本を読んでいて「これ良い文章だな」と思ったときに、うまくフックを引っ掛けるんです。「あれ、いま良いって思ったけれど、それって本当に良いのか、いつか誰かが言ってた良さじゃないのか」というフックを仕掛けてください。それだけでいいんです。

すぐに文章がうまくなるわけじゃないですが、これを続けていけばいつの間にか自由に文章を書けるようになると思います。

もちろん、ここで《学習》したことも、いつかでだいじょうぶですから、欠かさず《忘却》するようにしてくださいね。

それでは、第四回で会いましょう。

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僕らはみんな中途半『端』な場所に立っている。 / 著者:こはく - ch18

こんにちは、こはくです。

最近、お酒が飲めるようになりました。

下戸だったわけではなくて、お薬を朝晩飲んでいたので一緒に飲むことができなかったのです。

病気もある程度落ち着き、薬を抜いても問題ないレベルになってきたので(一応薬は毎月出してもらっているのですが飲まなくても基本的に体は大丈夫な感じ。先週東京に1週間滞在しているときも一切薬を飲みませんでしたが、病気の症状は出ませんでした)、先日会社の同期にもらった今年限定の山崎ウイスキー(!)をいただこうと思ってグラスに注いだら、それを見ていた母にこう言われました。

「あーっ!ついに息子がアル中になった~w」

って。

……少し、ショックでした。

「子供を信頼できないんだな」っていう思いと、「物事を極『端』にしか見られないんだな」っていう二つの思いを感じて。

人間関係ってやっぱり、信頼で成り立ってると思います。

「息子がお酒を飲んでる。お酒を楽しめるくらいになったんだ、いやぁ感動的だなあ」

くらいに思ってくれることを僕は望んでいるのですが、なかなかそれは難しいようです(僕の社会的な立場が非常に危ういというのも関係しているのかな)。

『アル中』と呼ぶことで、お酒を飲むことに躊躇いとか後ろめたさを感じさせたいのかもしれませんが、僕はどうにもそういうものを感じることはできませんでした。

苛立ちというか、悲しさというか、

「子供を信じることができないんだな」

って考えばかりが、その言葉を聞いて浮かびました。



で、前者の『信頼』についてはこの辺で終わらさせていただいて、今回の主題は後者の「極『端』」についてです。

「息子がアル中になった。」

なんて、極『端』な視点なんでしょうか。

ウイスキーをほんの数十ml飲もうとしただけでアル中認定されてしまうような医療機関が、どこにあるでしょうか。

僕にはとっても不思議に思えます。



とはいっても、多くの人が誰かの立ち位置を決めつけ、極『端』に見てしまうことはある意味では仕方のないことでしょう。

物事を極『端』に考えるのって、とっても簡単ですから。

でも、本当は極『端』な立場なんて存在しません。

どれだけ片方に寄っていると見えても、僕たちは中途半『端』な場所に立っています。

人間は0か1しかないデジタルな存在ではないのです。



例えば、僕は煙草を吸いません。

そして煙草が嫌いです。

おそらく幼少期に父から受動喫煙していたのが大きな原因でしょう。

でも、喫煙所は好きです。

喫煙こそしませんが、あそこにいるといろんな人とお話することができるんですよね。

会社で働いていたころ、あそこで先輩の方とたくさんお話しました。

すごく心地のいい場所です。

休憩中じゃないのに休憩してる感じとかね。

煙草という視点において、僕はとても中途半『端』な場所に立っています。

煙草は嫌いだけど、煙草を吸う『場』は好き。

僕は0でも1でもない、中途半『端』な存在なのです。

これって考えたことない人にはすごく不思議に聞こえると思います。

「え、煙草が嫌いなら喫煙所なんて入る必要ないでしょ。

あなたの大好きなスーツに煙草のにおいが付いちゃいますよ?」

って言われるかもしれません。

でも、分かってる人にはこれは当たり前のこと。

極『端』な立ち位置なんて空想上の場所でしかなくて、現実の世界では中途半『端』なところにしか立てないのです。



じゃあ何で多くの人は、僕のことをアル中って呼んだ母みたいに、人を極『端』にしか見られないのか。

理由は、僕は二つあると思っています。

「自分の立ち位置を変えたことがない」から、そして「人々の立ち位置を俯瞰したことがない」から。

前者は要するに、いろんなことをやっているかどうかってこと。

今まで自分がやったことのないこと、興味のなかったことをどれだけやっているかどうかってことですね。

食わず嫌いなんかが分かりやすいでしょうか。

「食べたことがない」という立場からでは、その食べ物・料理のことなんて分かりはしません。

嫌いだと思っていても、一度口にすることでその料理に対する自分の立ち位置が分かるのです。

「ああ、これって実はこんな風味なんだ。食感は好きじゃないけどいい香りするなあ」

って感じで。



後者は要するに、『鳥』になれるかって話。

鳥のように高いところから人々を俯瞰すれば、誰がどこに立っているかは一目瞭然で分かります。

これは少し難しくて、想像力が必要です。

極『端』に考える人たちは、この想像するというフェイズをスキップしてしまっているのですね。

他人事のようにとあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたと違うんです。*

とは少し違いますが、僕が言いたいのは、僕たちは本質的に中途半『端』な生き物であることを知っておくべきだということ。

極『端』に生きることは、型にはまることと同義だと思います。

自分が中途半『端』であることを受け入れて、楽しみましょう。

こはく







*2008年9月1日に行われた福田元総理の辞任会見で発した言葉。中国新聞の記者が「総理の話は他人事に聞こえる、安部総理に続いて辞任することが自民党にどんな影響があると考えるか」という旨の発言をし、「政局を見通せば順調じゃないと客観的に見て取れる、あなたと違うんだ」という旨の答えをやや感情的になってしたことで有名になりました。もともとこういうぶっきらぼうな会見ばかりの政治家だが、辞任会見ということもあって政治に興味ない人の目にも入ってしまったのでしょう。


(編集・校正・註釈責任:らららぎ)

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打破などないと知りながらも / 著者:らららぎ - ch22


 『R.U.S.E.』――なんとなく始めて気付いたら朝でしたレベルでハマっていた戦争シュミレーションゲーム。打破とか打開という中国語をきくと、このゲームを思い出す。戦争シュミレーションというのは、戦闘部隊をコマに見立てて、それを動かし、特定の目的(敵を殲滅だったり、敵を倒さずに目的にたどり着くことだったり)を達成するゲームのことで、地形(地政)やキャラクターの特性を理解し、瞬間ごと(あるいはターンごと)にうまく活かすことが重大となるところが面白かったりする。

 戦争を有利にすすめるためには、「いま=戦況」を把握することが肝心で、そのためには情報がとにかく欠かせない。あらゆる情報は《リアルタイム》を求められ、それにおいて兵力を操ることを「機動」(maneuver)という。

 打破というのは、機動をくりかえした結果でしかない。つまり、打破というアクションがあるのではなく、複数形の機動があるだけなのだ。打破や打開において大事なことは、何度も何度も機動すること――《自分の兵力を問題に集中させること》――である。

 それについて説明する。まずは引用から。

Dans la vie il n'y a pas de solutions; il y a des forces en marche: il faut les créer et les solutions suivent.
解決というのは、人生に属していない。あるのは、ただ前に進んでいく力だけである。その力を作ることで、解決は後から付いて来るものだ。
――アントニオ・サン=テグジュペリ『夜間飛行』(Vol de nuit)より、らららぎ拙訳

 戦争における兵力(兵士の数や物理的攻撃力)とは違って、個人的な意味での《兵力》というのは、サン=テグジュペリが言った「ただ前に進んでいく力 des forces en marche」のことだといえる。いまの自分がどんなに低い高度で飛行していようと、頼れるものがない夜を飛んでいようとも、進むしかないのである。キリの良い答えがみつからなくとも、モヤモヤやスランプに足を引っ張られても、具体的な道をみつけて、正誤に関係なく機動するしかないのである。

 その精神性は、若山牧水の詩歌のなかにもみられる。

幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
(どれだけの山や河を越えて行けば、寂しさのない国へとたどり着くのだろうか。そんなものがないと知りながらも、旅を続ける毎日である)

 《そんなものがないと知りながらも》という精神性によって、僕たちの個人的な兵力が再編成される。その兵力によって、機動――若山牧水でいうところの旅――を続けることができるようになり、そのうち打破とか解決といったものが生まれる(ように感じる)のだ。スランプというのは、(心の)夜である。だから夜間飛行をしなくてはいけない。立ち止まったら、機動力を喪ってしまう。

 そのとき空間識失調(プライドトラブル)*を起こさないように、重力とのバランスだけは保たねばらない。そのバランスというのが、《打破などないと知りながらも、打破はあると思ってただ前に進むこと》という幻想パワーである。自分の抱えている問題、自分が経験している夜、そういったモヤモヤに兵力を集中させるために、そういう幻想をみること、みとめること、しんじること、それが欠かせないのかもしれない。

 ありがとうございました。おわる。

 しーゆーれーらー







*****************

*空間識失調:[vertigo]暗い海の上や、水平線の見えない霧のなかを飛行機で操縦しているとき、平衡感覚を喪って、どちらが上で、どちらが下なのか分からなくなる状態のこと。このバーティゴに陥ったパイロットは、(ベテランであっても)上下を正確に示す計器よりも、自分の上下感覚が正しいと信じ込もうとしてしまうため、墜落事故が起きてしまうという。ここでは、最初の自分の感覚を正しいと信じたいと思ってしまい、現実(計器)とのすり合わせが取れなくなるところから、プライドトラブルとルビを振った。つまり、「私が最初に感じたこと、思ったこと、判断したことが正しい」と思い上がってしまうメンヘラ特有のプライドのあり方と、モヤモヤしている状態、混迷していて前が見えない状態の「夜」と、サン=テグジュペリの「夜間飛行」をかけて、「空間識失調」という比喩を用いた。

*also see:拙稿「乗り越えるというのは、自己を歯切れよく展開することである ― 『したいならすればいいじゃん』という無理解について」
http://ellizaveth.blog65.fc2.com/blog-entry-890.html

悩んで悩んで(答えは出なくとも)悩み抜いて、もやもやを「抽って」(破って)、自分にとっての春がぱーっと展開されたとき、「草」が生えてくるでしょう。そうして完成するのが《描破》という現象です。「抽 + 草 = 描」。どれだどれだと、たくさんある道や、たくさんある選択肢や、たくさんある未来の「視えている範囲」や「視えていない範囲」のことも勘定して、大人の意見を聴き、親の希望を慮り、理想の自分を参照し、悩み、悩み抜き、それでも「はっきりとした結論」を訴求することはできず、それでも歩まねばならず、揺らぎながら、震えながら、断念しながら、挫折しながら、「私は一体どこに辿り着くんだろう」と誰も答えを知らない問いを何度も試練にかけながら、自分を審問し、世界を問い糾し、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、いつか具体的な場所に《着地する》――その具体を「描」といいます。

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ヤンキーでもないしDQNでもないし怖い人でもない。 / 著者:めがね - ch17

こんにちわ。めがねです。一回書いてたのですがデータが飛んで書き直しました。書き直しついでに、今回の記事から「私」と言うのをやめて、一人称を「僕」に統一する。理由は至極簡単。なんかしっくり来ない。ただそれだけ。

それでは今回は『私がずっとしたかった言い訳』(chiasma17)でお送りします。

・口が悪い=怖い人っておかしくないか

「言葉はね、言い方や、言い回しじゃない。内容はちゃんと伝えないとね。それが、言葉の役目だから。」
「言い方が悪いからヘソを曲げたり、傷ついた、やる気が出なくなった、と主張する人がいる。しかし、そのせいばかりじゃない。それが通れば、言い方や言い回しがよければ、何でもゆるされるような感覚になってしまう。それじゃダメでしょう。言い方や言い回しにだまされる人がいる。」
――via『詩的私的ジャック』

僕を知ってる方は分かっているかと思うが、知らない方もいると思うので記事の最初にことわっておくと、僕は結構口が悪い。思ったことを直ぐ口に出してしまうし、おかしいと思ったら相手の気持ちなどお構いなしに速攻で批判を繰り出す。頻繁に『殴りたい』『ぶっ飛ばしたい』『〇回ぐらい〇んだほうが良い』など粗野な言葉を使う。粗野な言葉を使うとヤンキーとかDQNだとかその類に思われがちだが、断じて違う。育った環境と土地柄のためである――と声を大にして言いたい。

特に人を威嚇したい訳でも、否定がしたい訳でも、相手に畏怖を植え付けたい訳でもない。誰かにも言ったし何処かにも書いたが、意見に悪いも良いもない。『自分の意見に近いか否か』だけを言葉か文章かにしておきたい。

ハッキリ言って、印象は最悪である。

『顔も良くない』『性格も悪い』『空気も読まない』『おまけに頭も悪い』完全に満貫である。これは現実でもそうだしTwitter上でもブレることはない。一貫してこのような感じだ。

勿論、僕に鍵付き裏アカウントなど存在しないし、表面上仲良くするくらいならリムーブだってする。僕の発言で別に相手にブロックされようとリムーブされようと関係ない。他人から誤解されようが批判されようが、こちとら知ったこっちゃない。

だって「僕自身の評価と僕が創る作品とは何の因果関係もない」からだ。よく『この人はこんな綺麗な作品を作るのにこんな性格悪くて作品まで嫌いになった。』などと言う人を見かけるが、ハッキリ言っておく。


『阿呆か。』


終始こんな感じなので、勘の良い読者は気付いていると思う。

――僕は『友達』が少ない。
――そもそも『友達』ってなんだ。

適当に相手の機嫌を取ってヘラヘラニコニコしてれば『友達』だろうか。
その場の空気を読んで「私たちズッ友だよね」とか言ってれば『友達』だろうか。
月に何回か集まって「ウェーイお前ら最高ウェーイ」とでも言えば『友達』だろうか。

僕の中では断じて『否』だ。大事なのでもう一回言うが断じて『否』だ。

僕が思う『友達』というのは、時間も距離も空間も関係なく、そこに居ればいつでもどこでも本音で語り合える人のことで、一朝一夕、一期一会で獲得できるものではない。膨大な会話の擦り合せと相互の理解によって成り立つものだ。

あくまで自分と相手の立場は『対等』でありたいといつもそう思っている。だから僕は口が悪いかもしれないけれど決して怖い人ではない。建前無しで当たり前に接し接されたいのでそうやっているのだが、人間はそこまで強くない。

他人の考えを否定することも、そこで認知の歪みや齟齬が発生するなら仕方のないことであるし、強制するつもりもない。それが原因でサヨナラされても当然であるし、批判は甘んじて受け入れる。

・対等でいたい

僕の友達にファッションセンスが壊滅的に『ダサい』奴が一人いた。いたと言っても別に死んだ訳でもなんでもない。『ダサい』のが多少改善されたのだ。高校の時は制服で頻繁に遊びに行っていたので、あまり気にすることもなかったのだけれども、その彼が大学生になり、私服を着るようになってから気がついた。あまりにも『ダサい』。

雑誌を読んだり、セレクトショップで結構良い服を買ったりしているのに、なぜだかいつも決まって『ダサい』。今は住んでいるところがバラバラなのだが、僕と彼ともう一人の友達とで良くつるんで遊びに行っていたのだが、会う度、会う度に『ダサい』ので、友達と僕で頻繁に『なんでその色をチョイスしたのか。』『その組み合わせ何なん?』『せっかくいい服なのになんでそんな風に着れるん?』『一緒に歩くの恥ずかしい。』などの駄目出しをしていた。

流石に彼も頭にきたのか『自分の身体に合った服』を選ぶようになった。原因は簡単で、身体が結構ガッシリしているのに、細身のジーンズやジャケット、シャツを着ていていつもアンバランスにピチピチだったからだ。それを一切止めた。憤りによってなぜ『ダサい』のか俯瞰して見れるようになったのだ。

一方、僕も散々な扱いを受けている。誕生日にアスペルガー症候群の本と統合失調症の本を送られたり、当時の彼女をみて『お前センスないよね。』と言われたり、待ち合わせのときに『あ、背が小さくて見えんかったわすまんの。』などなど。

その場ではキレるけれども、不思議と不快な感じにはならない。僕らは、歪みながらも一応『対等』を保っているからこそ無茶苦茶を言い合えるのだし、多少嫌味な行動でも寛容になれるだと思う。

だらだらと言い訳を書き続けて来たが、あんまり言い訳がましいとそれこそ『ダサい』ので、この辺で終わろうと思う。

最後にこれだけ言わせて頂きたい。

『ほーらw怖くないよーw』

それではまた。








(編集・校閲責任:らららぎ)

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きのこたけのこの境界線、それがぼくだ! / 著者:ちくわ - ch15

「ほんとうにおもしろい」という本は、子供のときにはおとぎばなしであり、それから冒険物に進むのであろう。おとぎばなしだろうが、冒険物だろうが、そのときに「ほんとうにおもしろい」と思ったその感じを忘れてはいけない。勉強なら「意志」でやらなければならない学科もあろう。しかし自由時間に読む小説に「意志」や「おつき合い」を妙な工合に持ちこむと、ほんとうの感興と、おざなりの感興の区別がつかなくなり、真の意味での読書の向上が害されるおそれがあるからである。探偵小説でもよいから、ほんとうにおもしろかったら、その「感じ」をたいせつにする。そして漱石を読んだときに、その感じが出たら、自分自身のために祝杯を上げればよい。それは明白な知的向上を示すものだからである。そのほんとうの「感じ」が出るまでは、同級生が漱石を持ち歩いてるのを見ても、ロマン・ロランを称えるのを聞いても、あわてて自分もわかったふりをする必要はない。自分におもしろくないということを公言する必要はないが、ほんとうにはおもしろいと思わないものを、おもしろいなどというふりをしてはいけないのだ。他人に対しても自分に対しても。特に自己をいつわってはならない。自己の実感をいつわることは、向上の放棄にほかならないのだから。
(渡部昇一『知的生活の方法』)


ぼくは、何かや誰かに対して「良さがわからない」と言えない人間です。「あの人にがて」「あの人こわい」と言うことはありますが、「あの人は好きじゃないな」と言うことが ― というより、思うことが ― できないのです。もちろん、「好きじゃない」という言葉は元々ずいぶんきつい響きを持っているので、公の場では言わないに越したことはないのかもしれませんが、「好きじゃない」「嫌い」という極端な表現に限らず、「これはつまんない」「これは良さがわかんない」といったような評価を口に出すのが苦手なのです。たとえば、難しく書かれた本を読んで挫折したときに、「こんなの何が面白いのかさっぱりわかんねえな」とは言わないだろうと思います。

「良さがわからない」なんて、ポジティブなフレーズではないのだから、別にいいではないか、と言われるかもしれません。確かに、ぼくはこの「何かに対してプラスでない評価をなかなか口に出せない、心の中でさえもなかなか言えない」ことによってそれなりに穏やかな性格だと見られているでしょうし、そのおかげで不必要な争いに巻き込まれずに済んだことも多かったように思います。しかし、です。「良さがわからない」がぼやけると、「良さがわかる」― 「あっ、これいいな」という気持ち ― もぼやけてしまうのです。

ぼくたちの輪郭というものは、無数の「あっ、これいいな」から成り立っています。「良さがわからない」と「あっ、これいいな」の間に引かれた線(イメージ的には面!! ほんとは面って書きたかったんだけど、タイトルに線って書いちゃったもんね!!)をひたすらつなげることで、ぼくたちの輪郭というものは形作られるものです。そうすると、「良いと思わない」が言えない(そして本当の意味で「良いと思う」が言えない!)ぼくは、自分の輪郭というものをどんどん見失うことになります。自分の言っていることは、本当に自分らしい発言なのか、自分の趣味や美学にそった言葉なのか、どうにも自信がなくなってくるのです。本当は、自分なりの輪郭というものは何かしらあるはずなのに。ついったーで言うと縦ふぁぼ状態ですね。なんでもかんでもふぁぼふぁぼふぁぼ。あとで見返しても、そこにあるのはタイムラインの写しだけです。

そして、哀しい影響は現在だけに留まりません。自分の輪郭がぼやければ、自分の輪郭の変化もぼやけます。つまり、いつかもし「本当に良さがわかった」と思える日がやって来そうになっても、それを捕まえることができないのです。それはもうほとんど、「本当の良さがわかる」瞬間 ― 冒頭に引用した文章で渡部昇一さんはそれを知的向上と呼んでいました ― が訪れることを諦めているようなものです。世の中には、わからないものを叩いたり排斥しようとする過激な人たちも多いですが、「わからないけど、わからないと気づく前に全部『良い』のほうに放り込んでしまう」ということをしているぼくも、「未来のために保留をしない」という点においてそういう人たちと何ら変わらないわけですね。

何かを「良いと思えない」と明言するのには、責任が伴います。「○○って何が面白いのかわからんわー」って呟くと、○○ファンが両手に生卵を持って押し寄せてきても文句は言えn……いや文句は大いに言っていいんですが、ともかくそういう可能性が存在するので、そこに責任が生まれるわけですね。だから「これは良いとは思えない」ということをきちんと述べている人の言葉は重みを持ち、文章全体、発言全体が引き締まるものです。その言葉が、それなりの責任を持って発されたものであると、聞く側も感じるからでしょう。逆にぼくは、そうしたことをはっきり言わないことによって、あらゆる責任を回避しようとしているのかもしれません。評価だとか感想だとか反応だとかを全て、「私はわかっていますよ!(だから生卵投げんといて!)」ということを伝えるためだけに使ってしまっているのです。それも大事なことなのでしょうが、なんとももったいないなぁと思います。自分の輪郭を丁寧に描写するために使えたはずの「イイネ!」を、宣言的な「イイネ!」でぐしゃぐしゃと塗り替えて消してしまっているなんて……。あたしって、ほんと宣言的!(©らららぎさん、最後の注釈参照)


さて、そんなチキンなぼくなのですが、「きのこの山」と「たけのこの里」、どちらが良いですかと訊かれれば「たけのこの里に決まってるでしょ起きて」と即答します。そう、ぼくは「たけのこの里」を愛しています。サクッ、とチョコ部分とクッキー部分を一緒にかじることのできるあの幸せは、きのこには到底つくりだせないものです。なぜ「きのこの山」派が一定数存在するのか、そもそもなぜ「きのこの山」などと言うものが生産され続けているのか、理解に苦しみながら二十数年を生きてきたといっても過言ではありません(過言です)。

こうして、ようやくたどり着くわけです。「きのこたけのこ戦争の理想的な終わり方」……。ふむ。理想的なのは、終わらないことだと思いますね。
「きのこたけのこ戦争は、このまま続くべきである!」
これがぼくの答えです。

きのこたけのこ戦争は、「これは良いと思う」「これの良さがわからない」と主張するための勇気を、ぼくたちに与えてくれます。勇気を与えるというのがおおげさであれば、格好の練習場になります。わからない、と言って自分の輪郭を探す練習。わからない、と言って責任を持つ練習。わからない、と言って未来の自分のために保留する練習。「なんできのこの山なんて存在してるんだ!」と叫ぶことが、そうしたトレーニングに使えるのではないでしょうか。だって、これは間違いなくぼくの考えだと、自信を持って言えるのですから。


ところで、終わらせないのが理想だとは書きましたが、ぼくは「んで、終わることはあるのか、ないのか」については特に触れていません。しかし……、このきあずまはぼくで3人目ですが、未だ「理想的な終わり方」を真っ向から提示する方が現れないあたり、やはり「きのこたけのこ戦争」は永久に不滅なんじゃないか!? とぼくは思いますね! ……なんて煽りもしつつ、ここは次の方にバトンをぶん投げて ― 結論を委ねて ― 終わろうと思います。いつも心に、たけのこの里。ちくわでした。



▽注釈▽
宣言的な…というのはらららぎさんが文芸誌に書いていた言葉遣いを使わせてもらったものです。らららぎさんは(「宣言的な『好き』」という説明の導入として)「かわいい」を宣言的になってしまった言葉のひとつに挙げていて、今の文脈にもあてはまるので、というかほぼ同じ話なので、少しだけ引用しておきます。
それは、元々の意味を離れ、次々と多義化していき、結局は「それが自分にとって理解のできる価値を有したものであること」をアピールするための言葉に代わったからだといえるかもしれない。つまり、本当はよく知らなくとも、「かわいい」と主張してしまえば、自分にはその価値が分かっているということになる。そういう態度をとることが「善い」とされているのだ。知っていることは善いことであり、理解していることは善いことである、そういう時代の価値観が言葉の使い方を巧みにすり替えてていく。かわいいというのは、何かへの主観的な評価ではなく、自分を善いものとして映すための宣言になったのだ。
(らららぎ「好きな人という多義的で独特な言葉に寄り添って」『あみめでぃあ』)

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考えすぎるということとわたしの救い / 著者:草薙菫 - ch8

教師「ねえ、転入生、なぜいつもそう雰囲気が深刻なんです? まるで世界がきょうでおしまいみたいに」
衣良「きょうはあしたの前日だから……だからこわくてしかたないんですわ」
――大島弓子 『バナナブレッドのプディング』p.10

 言葉や感情が積み重なり、重く息苦しくなって、あしたが来ると思うとこわくてこわくてたまらない夜があります。その夜は、自分が抱いている深刻さがとてもよく現れている時だと思っています。

 よく「考えすぎだ」と言われていました。「考えることが好きだからいいじゃないか」と当時は言い返していましたが、いまでは、相手の伝えたかったことが理解できます。というのも、同じ頃、「お前は中二病だ」と言われたこともありました。「中二病とはなんぞ?」と聞き返すと、それは「考えなくてもいいことまで考えていることだ」と教えてくれました。「考えすぎだ」というのは、そういう意味だったのでしょう。

 考えなくてもいいこと。自意識の過剰さ故に他人の思惑に思いをめぐらせて怯えること、過去の未練や未来の不安といったここにある今とは違う時間のことを考えては心を痛めることが、わたしにとってそれにあたります。(これは深刻がっていること、ですね。)

 しかしそれでなくとも、たくさんのことを考えることで心は疲弊します。今回は、なぜ考えすぎて (考えなくてもいいことだけでなく) しまうのかについて、とりとめなく記してゆきます。

 「平凡な家庭で育ち、五体満足で、容姿が特別に劣っている訳でもない。わたしが抱いている苦しみは、みなが同様に抱いているものだ。何者にもなれず何も成せないことを嘆き、思い描いていた人生を歩むことを諦め、誰からも理解されない孤独にひしがれているんだ。みんな同じように苦しんでいるのなら、わたしの苦しみが認められるほどの不幸な出来事が欲しい。いま抱いている苦しみを数値化して、他のひとと比べられる機械が欲しい。」

 最も考えすぎていた頃、こういったことを考えていました。自分の苦しみを、自分個人のものとして捉えていなかったのです。「みんな同じ」という言葉で抑圧していました。つらさを口にしたら、「みんな同じだ」という言葉を投げかけられることが多かったのです。その言葉が私の孤独を募らせていたと気づくまでは、自分自身に言い聞かせている言葉を、同じように他のひとにも投げかけていました。それは誰だって感じているんだよ、口にしないだけで、と。その言葉は、自分は凡庸なのだと虚しくさせます。人と接するなかで相手を大切にすることができないというのも、この考え方の影響かもしれません。相手の悩みを、真剣に受け取ることができず、軽んじてしまいます。

 深刻ぶっている、と自分に対して思ってきました。

 先で書いたように、これといって不幸な出来事が無いのに、恵まれているのに、周りのひとよりも生きづらさの中を生きてきたと張りあう気持ちがあるからです。

 繊細な自分が好きなのかもしれません。根が幼く頭たりんだから、「深刻さの中で答えを探り続けなければ」と考えているのかもしれません。

 自分だけの、代替不可能を示すものを持ちあわせていないと感じているから、自分の内面に焦点をあてて、他のひととの差別化を図っているのかもしれません。

 深くて薄暗い井戸の底から星明かりに向かって必死に手を伸ばしている者が、その場所から引っ張りあげられた時に眼前に広がる、はるかに続く地平線、のような救いを夢見ているのかもしれません。

 いちど心のバランスが崩れたら、昔のつらかった記憶がまざまざと思い出され、ぼろぼろになります。弱っているときは、さらに弱い気持ちのほうへと、容易に向かいます。自分を痛めつけようとします。時折、自分を苦しませる思考がわたしを捕らえて離さず、被害者意識や執着が生じやすくなります。

 それらがとても苦しい。

大丈夫、もう大丈夫だよ。暖かい背中。優しい手のひらが僕の頭をなでる。僕は小さな子どもになって、声をあげて泣きじゃくった。いままで抑え込んでいたすべての言葉が僕の身体からあふれだし、愛としか形容できないものが僕の身体のすみずみまでを満たしていく。もう、何の心配も後悔も、する必要は無いんだよ。あなたはあなたのままでいい。これ以上、頑張らなくてもいいんだよ。あなたが自分に罰を与えるのなら、わたしがあなたを許してあげる。あなたの過去も、あなたが抱いてきた想いも、全部。この先どんなに苦しい感情を抱いても、あなたはもう独りじゃない。独りじゃないんだよ。わたしも共にうけとめるから。いままで、よくがんばったね。
――かくのごとき夢あれかし『ぬくもり』

 要するに、無条件に受容することされること(すべてを許し許されること)を欲しているのです。そして、そうしてくださるかたと深く理解しあいたいと願っています。その存在は夢です。何かにさいなまれて限界に近づいている時、それを夢想すると、あたたかい液体が身体のなかを一瞬にして駆けめぐり、自分をさいなんでいたものが涙となって毒出しされる感覚になります。「愛し愛されたい」と言葉にするとき、わたしはこの存在を求めています。

 他人を理解するためには、まず自分を理解しなければなりません。わたしは自分を理解したい。他人と同じように自分自身も不可解です。こうしてブログや小説を書いているのも、理解するためという理由が大きいのです。

 深い安心の中を生きていたい。愛し愛されるひとと、溶けこみあい一体となって、永遠に近い時を共に生きてゆきたい。この願いがわたしの救いであり、執着や甘えの源泉といったわたしの弱みです。










(編集・校閲責任:らららぎ)

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