忍者ブログ

みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
MENU

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


あの帰り道 / 著者:開発室Graph - ch4


 たしか小学4年生の頃だったか,自宅の近くの鉄道の路線が廃線になった。

 電車に乗って遠足に行ったことは今もよく覚えている。小学生だからあんまり電車を利用する機会はなかったけれど,1両編成のディーゼルカーが田んぼの中を走っていくのはさながらトトロに出てくる猫バスのようで,すごく好きだった。
 そんなわけで,ぼくの家から最寄り駅まではものすごく遠くなった。徒歩だと1時間を超えて,自転車だと40分くらいかかる。たしかバスはなかったんだと思う。

 ぼくは国立の中学校に通っていたので,隣の隣の街まで電車で通学していた。ただでさえ最寄り駅まで遠く,そこから1時間くらいかかるので,母親に車で駅まで送り迎えをしてもらっていた。もちろん毎日送り迎えをしてもらっていたわけで,今となってみると本当にありがたいなあ,と思う。しかも中学校と高校の最寄り駅は同じで,つまり6年間ずっと送り迎えをしてもらっていたことになる。
 
 そういうわけで,ぼくの帰り道は母親と一緒だった。その間なにも話さないというわけにもいかないので,今日あったことやこれからの予定など,色んなことを話したのを覚えている。
 ぼくも普通に男の子だったので,反抗期を経験したこともある。そのときは口をきかなかったり,ふてくされていたりしたこともあるけど,なんだかんだ送り迎えをしてもらっていた。

 定期的にケンカをして,いつも送り迎えをしてもらう道を歩いて帰ったこともある。けれどその度に長すぎる帰り道が嫌になって,次の日からまた送ってもらう。
 なんだか情けない話だけれど,その頃のぼくは親なしでは生きられないんだ,ということを実感した。ヒステリックに怒るたびに「あなたなんか私がいないと学校にも行けないくせに」と怒鳴る母親のことは嫌いだったけれど,不思議とそれがおかしな理屈を言っているとも思わなかった。

 でも今はぼくはその帰り道では帰っていない。

 大学生になってから東京に出てきて,一人暮らしをするようになったからだ。ぼくの地元の愛知県に比べ,圧倒的に人もモノも多い東京での帰り道は,やっぱりあの頃とは大きく違っている。
 帰り道でときどき,この広くて人がたくさんいる東京で,ぼくはひとりなんだ,ということを実感する。すれ違うたくさんの人はぼくとは無関係な他人であって,今日あったことすら,話すことはない。頑張ったり頑張らなかったりした毎日は,だれにも報告することがないまま,終わっていく。
 そんなどうしようもない「さみしさ」とときどき闘いながら,帰り道を帰っていく。もちろん毎日こんなにアンニュイになっているわけではなくて,なにかが上手くいかなかったときとか,だれとも話さなかったときとか,そんなんだけど。やっぱり人間はひとりでは生きられないみたい。

 そんな毎日が重なったあと,ぼくは無性に「家に帰りたく」なるのだった。やっぱり生まれ育った土地での帰り道は,(少し大げさすぎるけれど)大都会でずたずたになったぼくを癒してくれるように感じる。これがホームシックとか,望郷とかいうやつなのかもしれない。
 そしてときどき実家に帰省して通るのは,もちろんいつもあの帰り道だ。帰るたびに,景色は変わっていたり変わっていなかったりして,なんというかものすごく「ほっこり」とした気持ちになる。そして母親と,東京であった話したいことを話して,話したくないことを隠して,うちに帰る。かわいい二匹のにゃんこが待っている。

 そいういうわけで,ぼくの好きな帰り道は以上のようなことになる。毎日使っていたときは気づかなかったけれど,やっぱりぼくはあの帰り道が大好きだったのだ。
 今のところはないけれど,もし東京にいてなにもかもが嫌になったら,ぼくは新幹線に飛び乗って,あの帰り道を帰るだろう。そんなことは,ないといいけれど。







(編集・校正責任:らららぎ)

拍手

PR

chiasma31:「企画、見せ合いっこ」



 ディズニーランドがあります。ディズニーランドを作った人、ウォルトがいます。ウォルトは企画書を書きました。世界中の子どもたちにとってイチバン幸せな場所を作りたいという気持ちを書きました。結果はボツでした。

 そりゃあ、聞いてる方からしたら「はあ? 不思議なファンタジーランド? ウェスタン開拓のフロンティアランド? ハラハラドキドキのアドベンチャーランド? 未来に行けるトゥモローランド? 子どもが世界でイチバン幸せな場所? おいおい君はラノベの読み過ぎじゃないかい?」といったテンションなわけです。

 そこで諦めるわけにはいきません。どうしても作りたい。世界の子どもたちのために、そういう場所がどうしても必要なんだと気合を入れ直し、知り合いのイラストレーターに絵を描くよう頼みました。ウォルトは夢を語り、ハーブは絵を描く。それを二日のあいだ突貫し、最後の企画書をニューヨークに持っていきます。最大手のテレビ局が出資してくれることになりました。

 ウォルト・ディズニー・プロダクションに日本から誘致がかかります。オリエンタルランド社と三菱地所です。オリエンタルランド社(三井不動産・京成電鉄)は浦安誘致案、三菱地所は富士山麓誘致案を持っていました。順当にいけば東宝を窓口にする三菱がモノにしていたはずの交渉だったのですが、紆余曲折あって三井(オリエンタルランド社)が誘致に成功します(『夢の王国の光と影:東京ディズニーランドを創った男たち』)。

 子どもにしたら夢を壊すような話ですが、ディズニーランドにだって企画があったわけです。本場を作った人、それを日本に誘致した人、新しいパレード、新しいアトラクション、新しいフード、新しい料金、新しいパーク内ホテル、新しいグッズ……何をするにも企画があり、それをまとめている企画書があります。それを書いている人がいます。

 昨日読んだ西尾維新のノベルス、先週飲んだコカコーラ、先月ダウンロードしたねこあつめ、受験期に世話になった私大センター利用システム、あらゆる商品には、それを考えてくれた人がいるわけです。

 僕には姉がいて、スーパーで半額の寿司を買ってきて、ふたりで食べたことがあった。そのとき姉はマヨネーズとワサビと醤油で寿司を食べていて、本当に驚きました。企画というのは、こういうものです。「こういう味わい方もあるんだぜ」というスタンス。気取らず、新しい方向に導いてくれるパワー。さりげなく、そして強大であること。


 これはピザの新しい企画。「買った人が食べるんじゃなくて、買った人が届くピザ」です。分かるでしょうか。ピザってものを変えるんじゃなくて、ピザってものの在り方を変えてしまう、あるいはピザってものの「楽しみ方」を変えてしまう、そういうさりげなくて強大な何かなのです。

 企画、作ってみませんか?

 (1)オリジナル商品・企画(ここに載せると本当にすごいものだったとき特許がとれなくなるのでお気をつけて)、(2)既にあるものの架空企画(ビニール傘の企画書を書いてみたり、渋谷森の図書館での新しい企画を勝手に考えたり、何かの新定番を見つけたり)、(3)歴史上の企画書(大化の改新の企画書を中臣鎌足になって考えてみるなど)など何でもあり!

 ものすごく真面目に考えて、パワーポインタ(リンク先はGoogleDrive:「プレゼンテーション」でパワポっぽいのが作れます)で作るのもアリ! 手書きで画像や絵を載せるのもアリ! 文字だけで着実に書いていくのもアリ!

 みんなで見せ合いっこしませんか。面白いキャッチコピーを考えているだけでも楽しいですよ。

拍手

海外へ行くこと / 著者:ドーナツ - ch7

昔からクラシック音楽が好きだったり、世界史や地理が好きだったり、大学に入ってからは海外と直接つながるような専攻をしていたわりに、「海外へ行くこと」そのものに対しては何故か抵抗があった。
両親がそれほど旅行好きではなく、旅行した経験が少なかったからかもしれない。
大学に入ってから一人暮らしを始め、両親からの呪縛から解き放たれてたびたび国内旅行へ行くようになったが、海外旅行へ行こうという発想はなかなか持てなかった。物理的に忙しかったのもその一因かもしれないけど。

とは言え、専攻が専攻なので、いつかはそのメンタルブロックを壊さねばならない。
そんな確信のような義務感のような何かを常に抱いていた。

壊し方は非常に大胆だった。
「留学してしまおう!」というわけだ。
留学したい願望はもともとあったし、何よりも海外に住むという、ある種「逃げられない」環境に身を置くタイプの渡航を人生初めての海外にすれば、このメンタルブロックを粉々にすることができる、そんなことを思ったのだ。

そんなこんなで、私の初海外は留学だった。
渡航はトランジット先まで一人きり、12時間のトランジット含む長距離渡航。

留学生活も7割ほどを終えた今思うのは、「海外に行くのってそんな難しくないよね」ということだ。
文化は違えど、どこの国にも普通に生活している人たちがいる。
言葉の問題さえ乗り越えればそこで暮らすことが出来るのだ。
現地の人と友達になることだってできる。
逆に、海外旅行に慣れてしまっていたら、海外は「旅行する場所」という刷り込みがなされ、海外を過度に特別視するようになってしまっていたかもしれない。

良くも悪くも、生まれて初めての海外を留学に設定することで、海外や海外生活に対する幻想が消えた。

20年も生きてきて壊しきれなかったメンタルブロックは、大胆すぎるほど大胆に壊すのが一番ではないだろうか。
それをやってのけてしまった今だから言える。
メンタルブロックを壊したい人は、私のことを思い出してほしい。

拍手

現象の端に立つ / 著者:エアリーズ - ch18

どうもこんばんは(執筆時間深夜0時)エアリーズでございます。
ちょっと思うところあって端について語らせてもらおうと思うております。

さて、皆さんは攻殻機動隊(*1)という作品をご存じでしょうか?
ここに来られる方は割と知ってそうですね。私にとっては思考回路の体感三分の一を形成しているのではないかと思うくらいには影響を受けた作品でした。
これのアニメ第二期でオープニングテーマに使われたOrigaさんという方の「rise」(*2)という歌がありまして。ちょっとこれの一部を載せてみたいと思います。
I'm a soldier, значит я
И ответчик и судья
Я стою на двух концах огня
Огибая виражи, обгоняя смерть и жизнь
Я бегу сразиться с тенью лжи

どうでしょう?
分かりません?そうですよね。私もロシア語はさっぱりなので読むことすら不可能です。
ということでこの訳をネットから引っ張ってきました(間違ってたらお手数ですが教えてください)(*3)
I'm a soldier つまり私は
被告人であり裁判官
火の両端に私は立つ
カーブを切り生と死を追い越し
偽りの影との戦いに走る

いやぁ中二くさそうな歌詞ですな。なんですけど、この若干理解に苦しむ歌詞にいろんなものを感じることが出来ます。特にこの部分
「火の両端に私は立つ」
火の両端ってどこなんでしょう?
ゲシュタルト心理学(*4)によれば、人間は背景である「地」の上に、ある存在との差異を見出し、その差異を「図」として切り取ることで存在を「情報」として認識することが出来るそうです。つまり、「あるものが存在する」という情報において図(あるもの)と地(あるもの以外)の間には境界が生まれるし、むしろ境界こそが情報と言えるかもしれません。
私は火を情報として認識します。「あ、そこに火がある。何か燃えてんのかな」って。
そんな私は火以外の「背景」から火と切り取っていて、火と火以外の背景との間には境界があるはずです。図である火から見たらその境界は「火の端」となるでしょう。
そんな境界を私達は情報としては認識しているはずですが「火の何が端なのか」を実体から見れば事はそうも簡単で無くなります。
火とは燃焼反応(*5)です。可燃物の内部にある炭素や水素等が空気中や同じく物質中の酸素と結合して二酸化炭素や水や光や熱を発生させています。しかし、物質である二酸化炭素も水素も酸素も(場合によっては炭素も)私達の目には見えません。熱は周囲に放射し、風などに乗って広く分布していきます。
では、仮に私が風一つ起こさず空中を自由自在に動き回れるとしたら「火の端に立」とうとしたとき、どこに立てばいいのでしょうか?
燃焼反応の始点である可燃物の横に立てば他人から見た私は火の「ど真ん中」にいるように見えるでしょう。終点である熱の放射が届かない所に行けば火の「遥か彼方」にいるように見えるでしょう。物質に着目しようものなら空気中に混ざった二酸化炭素や水蒸気はもはや「地」であって境界を持ちますまい。
光ってる端が端じゃないのかって?ご名答です。
多くの人にとって火は光ってるもので、その端を、つまり可視光線の限界を火の「端」だと見做しているように思いますよ。
でも暗闇で見える火と炎天下の火の「端」は同じですかね?急に明るくなった時や暗くなった時は?
人間には確かに可視光という見える光の波長の「端」がありますが、目のコンディションや個人による差もあるんだとか。
そもそも、見えるところの限界が端ならば、目の見えない人にとっては、火には「端が無い」=「存在しない」事になってしまいます(*6)。
なんともややこしいですね。
で、なんでこんなにややこしいかというと、火というのが一個の固定した「物体」ではなくてある「現象」だから起きる問題なんだと思うんです。
もし可燃物が光を出しながら熱共々外に出たりなんてせずにある狭い空間を対流するなり行ったり来たりしてくれればその端っこが「火の端」だったはずなんです。
それが、可燃物が光とか熱とか出しながら他の物質になるという現象、言い換えれば変化であるからどこら辺を境界に、端にしていいか分からないんです。

ふう、かなりいろいろと喋りましたが、ここからが本題です。
これって人にも言えませんかね?
人は物体だろって?いやまあそうなんですけど……
でも「あなたの思考」の端ってどこでしょう?
勿論目に見えないので指し示す様なものではなくって。
さっき私はゲシュタルト心理学の話に少し触れましたが、地だの図だの言ったのは私ではなくて心理学者(*7)さんたちです。
ではこれを考えている私は私ではなく心理学者さんでしょうか?
いえいえ私ですよ。
恐らくこれをご覧になってる方も、いろんな話を聞いてこれを読んでらっしゃると思うので、いろいろと「他人の考え」をあなたの意識領域の中に取り込んでいるはずです。
その中で何か主張するとき、どこまでが「自分の思考」でどこからか「他人の思考」かの端ってなかなか見えないのではないですか?
といって例えば会話で私があなたと喋っていて、あなたが私の意見を受け入れ難いと思えば、その時あなたは「私の意見」というものを認識していて、あなたの意見との間に差異、そして境界、端を感じているはずです。
人の「思考」なるものがどのように出来ているのか、これ自体はかなり深い問題で科学的に解明するのはかなり厳しいと聞いていますが、恐らく思考とはそれぞれの人間の中にある現象なのでしょう。そしてそれは言語化された他者の思考を受けて経験や環境などを混ぜていくなかで自分の意見を構築していく変化の過程であるからこそ、どこから「自分の思考」であるのか読みにくいのです。

攻殻の歌詞からまあよくもここまで、と思うほど話が飛びましたが、分かりにくいとはいえ火であれ思考であれ現象にも私達は端を認定します。
だからなんだという話なんですけど、別に端があろうがなかろうが困りゃしません。困りゃしませんが、今私がそうしたように、そうした「端」を探して、それが自分にとって端なのかどうか見てみる。っていうのは中々悪くない感覚です。
火でもいいんですけど、ちょっと近寄り過ぎると熱いので。
まあ自分の思考辺りが手頃でしょうから「両端に立」ってみるのはいかがでしょうか?
私の方は今丁度一時を回ったので(*8)、そんなことをしてるといい感じに眠くなれるんじゃないかなぁって思ってます。はい..



*1:士郎正宗原作の近未来SF漫画、後に映画・アニメなどのメディアミックスがなされた。
*2:アニメ版第二期「攻殻機動隊Stand Alone Complex 2ndGIG」のオープニングテーマ曲(地上波除く)なお、歌っていたアーティストのOriga氏は2015年1月に肺がんのため死去。今回これを書こうと思ったきっかけも、久々に曲を聞いたからであった。
*3:参考にしたのはCMSB(http://cmsb.web.fc2.com/)、他のページでは概ね同じ訳であったがいかんせん筆者がロシア語もキリル文字も皆目理解できないため正しいか確認する方法を持たない。
*4:心理学の一派。ドイツで生まれ心の構造性や全体性を対象とした。「ゲシュタルト崩壊」のゲシュタルトである。筆者も齧っただけでこれ以上は良く知らないので興味があれば個々人で調べて頂けると幸い。
*5:正しくは上記に挙げた以外の化学反応もあるし、そもそも化学反応でない火も存在するが、ここでは特に単純なものを挙げた。ろうそくが燃えているような様子を想像してもらいたい。
*6:もちろんここで「火を見ることの出来ない人にとって火は存在しない」と考えるのも十分ありえる。しかしながら能動的に火を認識しないにせよ、見ることのできる他人から「そこに火があるよ」と言われれば「火がある」という情報から受動的に火を認識しなければならず、結果的に火の「端」を(恐らくは熱などから)画定することになるであろう。
*7:余談だがこれを私に教えたのは法哲学の先生であり、恐らくこの先生も心理学の本なり学者なりから聞いた後に彼の思考という現象を通しているはずなので、ここでは心理学者ではなくこの先生なのかもしれない。
*8:既にお気づきの読者も多いであろうが、この文章はいわゆる「深夜テンション」にて執筆されている。ここの文章に限らずある程度まとまった量の文章を書くにあたってこの深夜テンションはもはや必要条件と化しつつある筆者である。しんがりでは「書き切る」事も大切ゆえこのようになっているが、「riseの歌詞なんかよりお前の文章の方がよっぽど中二臭いわ」などと言わず同じ深夜テンションで読んで頂けると筆者冥利に尽きるというものである。

拍手

【文芸誌】サンプル文章


(画:瓜原)

2015年5月4日の文学フリマで刊行する文芸誌『あみめでぃあ』第二号のサンプル文章を載せております。創刊号のサンプル文章はコチラです。


【第二号・サンプル】
*******************
※「html」と表記されているもの以外は、どれもドロップボックスから共有しているPDFデータです。

※サンプルは、途中から(都合よく1~2ページに収まるように)抜粋したものであり、原稿通りの組版ではないことがあります。予めご了承くださいませ。また、PDFビュワーによって崩れる場合がございますが、本編では問題ありません。

《訂正箇所》
※p.103下段左・組版ミス(行数過)あり
※p.114下段全・組版ミス(行字数少)あり
※目次・ドーナツ「読む /(言葉なき声) / 音なき声」の抜けあり
※目次・寝返りレタス「先へ逃げゆく」→「先に逃げゆく」
*******************

通販購入フォーム(第二号)
http://bit.ly/1y5Oo2Y

著者に求める水準
http://lalaxchatte.blog.fc2.com/blog-entry-69.html

校正者の募集(終了――本当にありがとうございました!)
http://chiasma.bangofan.com/projects/amimedia0010

執筆スケジュール(済)
http://twipla.jp/events/119052

企画書(第二号)
http://bit.ly/1EpVDQ4

企画の意図(創刊号・第二号)
http://chiasma.bangofan.com/projects/amimedia000

冒頭
サンプル

目次
サンプル

解説:ロバ『百年経たり、概念語り』
/実物をお楽しみに!/

あみめでぃあ内リンク
/実物をお楽しみに!/

プロフィール
サンプル

奥付
サンプル

まえがき
サンプル


【著者ラインナップ・サンプル】
******************
*文字数の見方(本文字数 - 註釈字数 - 総字数[words]
*註釈字数は、著者註・編集者註を合わせたものです。
*サンプルは今のところ二章づつ出しております。気分次第で三章づつになることもあります。
*章を立てていない著者のサンプルは書き出しのみとなります。
******************
★ちくわ『すくうこと。一度きりの私に、何度でも手を伸ばすこと。』
私はこの風景を知っている / 掬い救われ / すくわれる日を待ちながら / 記号を連ねてすくい出す / 概念という暫定解 / 物語という暫定解 / 記号のその先へ / 技術論としての「世界のすくいかた」 / 世界はすくい尽くされてなんかいない / 助けるんじゃない、すくうんだ / 「技術は盗め」と人は言う / 「習うより慣れろ」と人は言う / 「ダブらせる」と「すくう」 / 一度きりの私に、何度でも手を伸ばす / あとがき――「それってけっきょく」を乗り越える /
(25,608 - 6,882 - 32,490words)

☆ドーナツ『傍にある実体のないものを言葉にする(二部作「声・線」)』
線 / 読む / 言葉なき声 / 音なき声 / 聞こえる、聴く / 声 /
(4,899 - 2,965 - 7,864words)

★悠『辞書を捨て、を感じよ――現実と言葉の不協和音』
さらば、友よ / 置き土産の話 / 今時の話をしよう / ぶろーくんはーと / こだいもうそう / そして狂気から正気へ /
(4,915 - 2,972 - 7,887words)

☆大人たん『大人はピカレスクを生きる』
「努力・友情・勝利」の前に完成するもの / 悪党とは何か / 悪と子どもと善人願望 / 表彰される善、手柄化する善 / 大人は「ろくでもない」を生きる / 「のっぴきならねえ」善と悪 / ジキルとハイドの両A面 / 悪も正義もありゃしない――悪党と目的 / 大人の生き方、大人の善/あとがき――悪党は暗躍する /
(10,980 - 1,666 - 12,646words)

★三星屋迅兵衛『デカルトの馬鹿――嗜好する思考
サンプル
(1,896 - 1,972 - 3,874words)

☆るなこ『「常時かけてる」眼鏡男子のススメ』
サンプル
(2,702 - 963 - 3,665words)

★ねぎとろかめん『人の音感を笑うな』
人の音感を笑うな / 音感と私 / 絶対音感と相対音感 / 音感は音楽を理解する足場になる / 音感がなくとも音楽は出来る / それは音程以外を聴かない訓練である / 音感とは /音感と人間関係 / 人の音痴を笑うな /
(8,269 -4,328 - 12,597words)

★めがねマエストロ『デザインⅡ
色の持つイメージ / 色の連想・演出・心理効果 / 色の属性 / 色の見え方・効果 / 終わりに――色と主観 /
(6,193 - 5,583 - 11,776words)

★なのはまーくつー『僕がいま一番好きなこと——スポーツカーの魅力』
はじめに / まず、スポーツカーとは? / スポーツカーの現状を簡潔に / 「RX-8」のいいところ! / 「MINI」ってどんな車? / 僕の好きな車「MINI」! / 走りたいという思い / 僕のスポーツカーに対する思い / おわりに――僕が書きたかったこと /
(7,612 - 11,489 - 19,101words)

★なゆき『終わりに生まれる始まりに、願いを込めて ―諦めながら生きること―』
前書き、諦めるのが苦手な人たちに / 正解と不正解 / 強くてニューゲーム / ふわふわ生きる / 本当の自分を知るために / 「救い」と「結び目」としての諦め / 後書き、諦めながら生きること /
(10,348 - 2,127 - 12,475words)

☆寝返りレタス『命短し家出よ乙女 不屈×逃走×選択』
まえがき / いのち短し、家出よ乙女 / 先に逃げゆく、生のよに / 心のほのお、消えぬ間に / 家はふたたび、成るものを / 親子短し、子偉せよ家族 / あとがき /
(11,327 - 1,057- 12,384words)

☆二号『くる くる くるくるり』
まだ回らないです / では回りましょう / 回る、回る / 何かが上を回るとき / 回ればどうなるでしょう / ぐるぐる回れ / そろそろ止まりましょう /
(5,599 - 3,319 - 8,918words)

★開発室Graph『公開をまとう』
ぼくらをとりまく《公開》 / コミュニケーション手段と公開 / 受け手のことを考える / 公開と承認 / それは世界すべてではない / 公開と恋 / 公開はぼくらをしあわせにしたか / 公開という魅力 / 公開という自由をまとって /
(7,131 - 1,934 - 9,065words)

★らららぎ『リズム感について――つまり私が本当に生きていると実感するということ』
サブカルの中で逢った、ような…… / メタリュトモーズは嬉しいなって / もう速度も怖くない / 差異も、反復も、あるんだよ / 贋物なんて、あるわけない / 呪うの絶対おかしいよ / 本当の倫理(リズム)と向き合えますか / あたしって、ほんとコマ / 対立、あたしが許さない / もう拍にも頼らない / 最後に残ったリズム感 / わたしの、最高のあとがき /
(15,513 - 10,871 - 26,384words)





(追記:編集過去ログ)

拍手

あなたはそこにいますか? / 著者:めがね - ch23

『あ・な・た・は・そ・こ・に・い・ま・す・か?』『見りゃあわかんだろぉおおおお』
『来い!俺が!二代目ゴーバインだあああ!』
(蒼穹のファフナーEXODUS 第九話 「英雄二人」より)

ええ。好きなんですよ。このアニメ。
ロボットものでSFでってのも極まってそれはもう滅茶苦茶に。
まぁ僕の好みの話なんてのはどうでもよくって誰しもが思春期に通るであろう、
「自分は本当に世の中に必要なのか」「恋人にとっての私は元カノ(またはカレ)の代替でしかないのだろうか」「誰でも良いなら自分でもいいじゃないか」「自分はシステムを維持するだけの歯車の一部でしかない」だとか陰惨を極めた精神状態に陥った事はあるだろう。勿論自分にも身に覚えがあるし、今現在も少なくなったとは言えどうしょうもない焦燥感に襲われることはたまにある。
今の社会が若者達にとって夢も希望も持ちづらい世の中だってのは中高生だって知っている公然の秘密であるし、「若者の○○離れ」だと「ゆとり世代」「さとり世代」だとか言う訳のわからない言葉がメディアで報道されている。「希望を持ちなさい」と煽るわりにはその実「私たちの時代は…」の常套句で叱責してくる、そもそも「希望」「存在意義」ってのが持てなくなった社会を作り上げたのはほかならぬ、あなたたち上の世代なのだけれどもと常々思う。
そんな物を丸投げされた世代ってはたまったもんじゃない。
毎度毎度話が横道に逸れるけれどもまぁいつもの事なので気にしないでいただきたい。
では本題。

・「痛み」によって「存在」が成り立っている
僕たちは生きている。もちろんそんな事は誰に言われなくても当たり前で、誰でも知っていると思う。生きていると様々な「痛み」というやつに苛まされる。例えば、バランスを崩して自転車から落ちただとか、喧嘩をして殴られただとか、寒すぎて手がかじかむだとか。
例えたのは物理的なものだけれども「痛み」を感じるのは何も肉体ばかりではない。
精神的にも「痛み」というのは感じるもので人間の場合むしろこっちの方が多い気がする。
友達は自転車に乗れるのになんで自分は乗れないんだという「劣等感」からの「痛み」、友達と喧嘩した時に後から少し言いすぎたかなと感じる「罪悪感」からの「痛み」。
この「痛み」というのは生きている限り誰しも逃れられないし、誰かに「引き受けてもらう事が出来ない」代替が効かない訳だ。(たまに出来る人もいる)
「痛み」っていう概念を幼い頃におぼろげながら学習した僕たちは次第に「痛み」そのものに恐怖を覚えるようになる。そんなのは当たり前の事で、転んだら傷口から血が吹き出るし痛い、人とは違う行動を取れば訝しげな目で見られると視線が痛い。周りの言動に合わないとおかしいなどと叱責の言葉が飛んでくる。物理的にも精神的にも痛いのなんか誰だって嫌だしそれから逃れるのなんてごく自然な事で別段おかしいとは思わない。
だけれども困った事に、変じゃないように変じゃないように。皆と同じ様に皆と同じようにというこの精神的な「痛み」から逃れよう逃れようとする行為こそが「自分の代替が可能なのでは無いか。」という疑念に駆られる本質的な原因になっていくのでは無いかと僕は考えた。
だってそこに「痛み」なんかなくて、いたって平和で健全で皆、慈愛に満ちている。
僕はそんなの御免こうむる。ひたすらに退屈だ。
この「焦燥感」も「劣等感」も全てひっくるめて僕であり、生きてきて受けた「痛み」によって存在する喜びと苦悩、「痛み」がなくなり存在がなくなる事への恐怖が僕そのものだ。
これは誰にも代替え出来ないし、誰にも共感されたくない。全部自分のものだ。


・他人のリソースに成り果てていないか
リソース(resource)とは、資源の意味の英単語で目的を達成する為に役立つ、または必要な
要素の事だそうだ。
「お前の代わりなどいくらでもいる」などという発言をする人間がたまにいる。これは、相手を「個体」ではなく「資源」として見ているから発する事が出来る発言だと考える。
人の存在を否定する、尊厳を踏みにじる場合に非常に効果的でかつ攻撃力が高く発言した相手をリソースだと認識させるには十二分過ぎる威力を持っている。
もちろん文面通り自分より優秀な人材は、探せば星の数ほどいるしその通りだと僕も思う。
しかしながら、その人材がその言葉を発した人間を「選ぶ」かどうかなんて考えてもみないだろう。ましてや自分が「選ばれる側」の人間だなんて微塵も思っていないのが非常に滑稽だ。
人という「個体」は時間という概念を経て成長する。昔、嫌いだった食べ物が食べられるようになると言う話は良くある話で、もしかしたら今出来ない事が急激に出来るようになるかもしれないし、今は嫌いな所が好きになるかもしれない。
人を「資源」として見ている場合にはこの「個体」は成長するという概念を持っていないので、
相手を蔑ろにするような行動や発言をしてしまう。
逆に自分を「個体」ではなく「資源」だと認識してしまった場合には自分を低く見積もって「どうせ僕(私)なんていなくても同じ」だとか「○○の替りでしかない」などネガティブなリソース意識を持ってしまいがちだ。
やめてしまえそんなもの。意味がない堂々巡りだ。
「選ばれなかった」なら「選び」に行けばいいのだ。無限とは言わないけれども2・3本くらいは選択肢はあるだろう。

絶望なんてのは探せばそこらじゅうに転がってるし、僕もしょっちゅう絶望する。
「痛み」を受け入れろなんて偉そうな事は言わないし言えない。時々、見なかった事にする事もある。でも「痛み」によって蓄積された傷は一生残るし無かった事になんて決して出来ない。
時には膝を折ったって良いと思う。
それでもやっぱり最後に立って「あぁ僕は確かにここに存在していた」って言えたり、何か残せたり出来たら「資源」としての僕じゃなくて僕という「個体」がここにいたと言うのを残せたら最高だなと思う。

なんか青臭い事を言うようだけれども青臭い事が言えないクリエイターなんて全然おもんないし魅力もなくないから、出来ればコレは無くさないでいたい。

終わる。

拍手

7:3の割合なのに”地球”って変じゃね? / 著者:めがね - ch28

『もうすぐですよ。海峡の幅はほんの20スタディアです。”地球”の大きさからしたらほんのわずかだ。』『”地球”……”地球”か!うまい言い方だな。これからはそう呼ぼう。』『おっ採用ですか?やった!』
(アフタヌーンKC 岩明均「ヒストリエ第一巻」より)

今日は髪を切りに行くが僕は阿呆なので一番早い時間帯でお願いします。などと言って10時とかまったくもって意味のわからない時間帯に予約を取ってしまった。時間が結構あるしせっかくなのでさくさくっとブログを書く事にしたので、時間がある時にこれを読んで頂くと大変嬉しい。

さてさて僕は漫画が大好きなので前項で例に出したのは今、話題の「寄生獣」で有名な漫画家さん岩明均さんの「ヒストリエ」と言う漫画の一幕である。ついでなのでざっくり説明すると紀元前のお話でマケドニア王国のアレクサンドロス大王に仕えた『カルディアのエウメネス』という書記官のお話。史実にはカルディア出身であること以外は記録がなく不明なので創作だそうだが、物語の切り口や、物語に登場する道具の使い方がかなり面白いので興味がある方は一読してみると良いかもしれない。

話が横道に逸れたけれども僕らが住んでいる”地球”という惑星はどうも”29.2%”と70.8%と約7:3の割合で出来ているらしい。お察しのとおり7割が”海”と呼ばれる部分で残りの3割が”地”と呼ばれる部分だ。潮の満ち引き、干潟なんかの関係で厳密な数値を出すのにも限界があるそうだがざっくりこんな感じだ。理科年表にはもっと詳しく載っているらしい。
今まで何の疑問も抱かず”地球”なんて呼んで来たけれども”海”と呼ばれる部分の方が圧倒的に多いのに少ない割合の部分の名詞を”地球”なんて僕たちは当たり前に呼んでいる。はて?
それと言うのはやはり僕ら人類が”地”という部分にしか住めない事に依存しているのでは無いかと考えた。”海”と呼ばれる部分では特殊な装備が無ければ呼吸することも出来ない。ずっと”海”にいればいろんな意味でむしろ死ぬ。

じゃあ、仮に”海”に住む機構が人類についていたらなんと呼んだだろうか。
妄想してみた結果、『廻』『深』『永』だとか言う単語が出てきたので『深永廻』なんてどうだろう。
なんせ”海”は”地”と違って終わりが見えない。ひょっとして廻り終わっているかもしれないけれども多分気がつかないからこの空間は永遠に続くのだろうとか思いそうだ。実際には有限なのに無限に感じるようなところなんかはかなりエッシャーっぽい。

そういえばPAWORKSの製作したアニメに『かつて全ての人類が海の中で普通に呼吸し、生活を営んでいた世界があって、ある時を境として陸に上がって生きる人たちも現れ、やがて人の世界は海と陸に分かたれた。』今でも海で暮らす人々と、陸に上がって暮らし始めた人々の確執と共存の仕方なんてのをテーマにした『凪のあすから』と言うものある。
想像することしか出来ないの世界感ではあるけれども暮らす世界が”海”だと前後、左右だけでなく上下という概念もあるのでスポーツなんかも、もっと立体的な競技になっていたかもしれない動線だってかなり自由かつ複雑になってそれはそれで楽しそうだ。

人類ってのは頭が良すぎるから自分本位で名前や事柄を決定してしまうので水中で暮らす機構が備わっていたら”海”も”地”もなかったかもしれない。
ただ空が見えないのは辛い。

お後がよろしいようで。


拍手

× CLOSE

ブログ内検索

× CLOSE

Copyright © みんなでしんがり思索隊 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]