毎晩のように布団の中で涙を流さないような、授業中に人目をはばからず静かに泣いたりしないような、きらきらとした日々を送っている普通の女の子なら、働く内容にこだわらずにお金や場所でお仕事を決めてしまえただろうけど、普通の仕事に就いて普通に家庭に入ることが、完璧なる敗退のように感じる。
— 草薙 菫 (@uran__0) 2014, 7月 3
教師「ねえ、転入生、なぜいつもそう雰囲気が深刻なんです? まるで世界がきょうでおしまいみたいに」
衣良「きょうはあしたの前日だから……だからこわくてしかたないんですわ」
――大島弓子 『バナナブレッドのプディング』p.10
大丈夫、もう大丈夫だよ。暖かい背中。優しい手のひらが僕の頭をなでる。僕は小さな子どもになって、声をあげて泣きじゃくった。いままで抑え込んでいたすべての言葉が僕の身体からあふれだし、愛としか形容できないものが僕の身体のすみずみまでを満たしていく。もう、何の心配も後悔も、する必要は無いんだよ。あなたはあなたのままでいい。これ以上、頑張らなくてもいいんだよ。あなたが自分に罰を与えるのなら、わたしがあなたを許してあげる。あなたの過去も、あなたが抱いてきた想いも、全部。この先どんなに苦しい感情を抱いても、あなたはもう独りじゃない。独りじゃないんだよ。わたしも共にうけとめるから。いままで、よくがんばったね。
――かくのごとき夢あれかし『ぬくもり』
“臨床実践にかかわる研究において、「居場所」が「ありのままの自分」で居られる場所として定義されている。”
“「ありのままの自分」を実感する上で、自己の困難な部分が表出され、受容されることが重要であり、その時、クライエントと治療者あるいは治療的な環境との間で、「依存」が達成されていなければならない。しかし、クライエントはこれまで、自分自身の困難な部分が、環境に十分に受け入れられず、そうした「ありのままの自分」は環境によって、あるいはクライエント自身によって否定されてきたという経緯がある。すなわち、「居場所のなさ」を反復するクライエントは、健全な形での「依存」を達成することができなかった歴史を生きていると考えられる。 (注1)”
“自己愛というのは、単に正しく自己を愛することとは違い、自己中心的、利己的なものであり、それはどのように利己的であるのかというと、精神的な弱みからくる欠乏状態によって、対象関係において、わがままで要求がましい状態を伴う。そして自己愛の中心的な問題として、十分に愛してくれない、満たしてくれない他者や、言う通りにしてくれない他者への不満や怒りを伴うといった特徴であり、このような自己愛的心理が「自己愛的甘え」である。(注2)”
“甘えとは分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚することである。つまり、「対象とは一体ではないことはよくわかっていながら、心のどこかでは対象との分離を否定している」心と、「対象と一体であると感じながら、同時に心のどこかではそうではない (対象と一体ではない) ことがわかっている」という心の相反する二つの心的態勢の同時的な共存である。(注3)”
“「自分」の意識は、甘える関係の中に埋没して失われていた自分を、甘えていた対象から分離して見つめるところに生起する。そこには、「自分を大事にしなければならない」というような自分に対する積極的な感情も含んでいる。(注4)”
“素直な甘えは、人間関係の基本に信頼や安心があり、相互的な信頼を軸にしており、「落ち着く」心理を含んでいるのである。そして、そのような心理を基盤にして、利己的で要求がましく、一方的な自己愛的甘えから脱却する (「いつまでも甘えていられない、自分を大事にしなくてはいけない。」と自覚する) ことが、素直で健康的な甘えにつながると考えられる。(注5)”
・The Sky Crawlers Music' Blue Fish:
(劇中で使われたこの曲が「スカイ・クロラ 日本製超高級自鳴琴五拾弁機」という名のオルゴールとなって販売されていたようで、手に入れたいものの一つです。)
「人集りや夜の孤独のなかにいると、自分が分裂して、あちこちに飛び散っていく感覚に襲われたわ。漠然とした重い不安が、わたしのなかに舞い込んで内側から広がっていくのに、それを心という小さな箱のなかに閉じ込めているようだった。自分を両腕で守っても、何かで気を紛らわせようとしても、駄目だった。これが寂しいという感覚なんだと思ったけれど、誰とも話したくなくて、誰かに頼ってしまったら自分のなかの何かが崩壊しそうで、一人になりたくなるの。」
「わたしには何も無いのね。何かしらの能力が欲しかった。誰だってそう思っていることはわかっているわ。でもね、他人といるのが苦痛に感じるタイプの人間にとっては、芸術的センスの欠如は、自分を世界へ現すことが出来ずに、人目につかず、みじめで閉じた人生しか生きられないことを意味するのよ。」
この飛行機だ。
僕の飛行機だ。
これで、空を走り回れる。
飛び回れる。
僕は笑った。
躰(からだ)の内側から、それが湧き上がってきたからだ。
信じられない、また飛べるなんて。
素敵だ。
幸運だ。
操縦桿を左右へ振った。
ほんの僅かに遅れて、世界が回転する。
すべてが僕についてくる。
どこにも触れていない。
なにものにも支えられていない。
自由だ。
なにもかも無関係。
僕は、僕であって、僕以外には無関係。
どうして、こんなに簡単なことが許されないのだ?
どうして、こんなに純粋なことが許されないのだ?
避けられている。
遠ざけられている。
拒まれている。
妬まれている。
蔑まれている。
恐れられている。
憎まれている。
嫌われている。
何故、自分でない者にまで、自分の愛を押しつける?
それが愛だと信じさせるためにか?
本当の愛ならば、信じさせる必要などない。
違うか?
ああ、人間たちはみんな馬鹿だ。
この飛行機の、この美しさを見ろ。
この翼を見ろ。
これに比べたら、すべてが醜い。
愛なんて、錆のようなものだ。
それが、綺麗な営みだと、錆が思い込んでいるだけ。
美しさを知らない。
なにも見ていない。
美しさとは、この冷たさのことだ。
なんて、懐かしいんだろう。
僕の喉が痙攣し、息が震えた。
目を開けると、涙に滲んでいる。
金属が濡れてしまった。
僕は袖口でそれを丁寧に拭った。
けれど、涙は止まらなかった。
ああ……、僕は泣いているのだ。
悲しくないのに、泣いている。
たぶん、この美しさのせいだ。
美しさに涙が出る。
こんなに美しい存在が、世界にあるだろうか。
機体の曲面にぼんやりと映った自分の醜い姿を見る。
どうして、人間はこんなにも醜いのだろう。
でも、そんなことで泣けるわけではない。
どんなに可哀相でも、どんなに惨めでも、涙なんて出ない。
涙が出るのは、崇高な美に触れたときだけ。
――森博嗣『クレィドゥ・ザ・スカイ』中公文庫, p.261-264