始めまして、西洋中世史たんです。
ここではツイッターではあまり描かないの事を書いて見たいと思ってます。
さて、いきなりですが本題に参りましょう。
我々が住んでいるこの宇宙には様々な法則がありますね。
地球はほぼ同じ速さで時点したり、時間は一方向のしか進まなかったり、物体は引力を持っていたり、1+1=2だったり、、、、
長い年月をかけて人々が発見してきたこういった法則たちは、人々が、生物が、そして多分、この地球が生まれる前から、こういった法則は法則として認識されることがなくても、そうあり続けていたのかもしれません。
我々をとりまく法則たちの中で、私が気に入ってるのはthere's nothing lastsです。あらゆるものに終わりは来る。という事です。もう少し射程を広く言うと、時間は流れる。という事です。
雨降って地固まるということわざがあるように、ケンカしていても時間が解決してくれるかもしれません。人は忘れることもできます。失恋は悲しいですか?それでもいつかは忘れることができるでしょう。忘れるというのは記憶の終わりでもあるのです。
止まない雨はない。そうですね。逆に照り続ける太陽もない(かもしれない)ですね。そういったたくさんの終わりを経験しながら我々は生きているのです。
もちろん一個体としての生物の終わりもあります。我々は、我々自身の終わりをしっています。遠すぎる未来でしょうか?わかりません。それは明日かもしれないし、数十年先かもしれない。
終わりの特徴は、いつ来るかはわからない、ことでもあるかもしれませんね。
もう少し長いスパンで見ると、恐竜の時代の終わりがあったように、人間の時代の終わりもいつかくるでしょう。
そして地球の終わりもいつかは来るでしょう。
こうして終わりを思うと、それまであった時間の流れや、その中にあった出来事を善く思うようになれると、私は思います。そして終わりに向かうこれからのことも。
さて、最後に西洋中世史たんっぽい話をして終わりたいと思います。
キリスト教は、イエスから始まったと記憶している人もいるかもしれませんが、これは明確に違います。実はイエスの思想を厳格に適用するなら、キリスト教というものはできる余地がないのです。
イエスの教えは、かなりラディカルな終末論でした。神の国は近づいた、すぐにでもこの世は終わる。だからみな、神の国へ入る準備をせよ。
簡単にいうと、神の国はすぐそこで、この世はすぐに終わる。というものです。まさにすぐに終わるのだからキリスト教が生まれる余地はなく、ただ、神の国へ入るための準備(俗念をすてたり、財産をもたなかったり)をすればよいかったのです。
しかし、イエスが死んだ後も、なかなか神の国(この世の終わり)は来ません。ここでのちのキリスト者、イエスに従っていた人々は、なにを考えたのかというと、「終わりの始まりが始まった」と考えたのです。つまり、「終わり」は時間的な点ではなく、一定の幅があるのだという理論です。
だからこそ、終わりの終わりを見据えて、イエスの教えを実践するための共同体として、キリスト教文化や教会が生まれる余地が出来上がったのです。ちなみに現代は「終わりの始まり」が始まってから2014年たってしまった、ってところですね。
日本ではキリスト者は少数派ですが、このように、「終わりの終わり」を考えることは、これからの時間を善く生きることにもなるように思います。
皆さんも、身の回りの「終わり」をちょっと意識してみると、世界を見る目がかわるかもしれませんね。
Think the end that can not be avoided, and we know how the life gose on.
thx.