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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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宗教とは世界中の分業者を信じることである / 著者:らららぎ - ch12

宗教の根本定義 ― それは宇宙の直観と感情。かくしてそれは形而上学と道徳と相併ぶところの人間精神の本質的必然的第三者。これをもって宗教は、その財産を占有せんがためには、形而上学や道徳に属するものに対するあらゆる要求を断念し、宗教に押し付けてあるものはすべてこれを返却する。宗教は、形而上学のように、宇宙をその性質に従って規定し、かつ説明しようとは欲しないし、道徳のように、自由の力、および人間の神的自由意志から宇宙を発展させ、かつ完成させようとは欲しない。宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である
(シュライアマハー「宗教論」p.49より)

「宗教について書く」というのは、考えれば考えるほど憂鬱になる。かつて一度だけ、「小動物的に生きること(ruderalism)、あるいは仏教とフィナーレの話」というものを書いたが、最終的には何も書かずに逃げたのと同じ出来(不出来)になり、濁った茶だけがテキストのうちに居残りとなった。

「宗教」(la religion:ラ・ルリジオン)の最大目標は、思うに、「人は最終的に死にます」という事実を確認・確信させることである。「動物であれば早晩死ぬ」なんてことは「当たり前に知っている」ことだけれど、私たちは死に関して無知である。

そのときの定義したものがこれ。この後の文章では、言いたいことがうまく書けなかった。たぶんこの御題はそのリベンジなのだろうと確信したので、老骨に"無知"打って、新規記事ページを立ち上げた。(こはくさんが熱を振りまいてくれなければ、ここまで自分はやる気にならなかっただろうと思うと、こはくさんの激白には本当に感謝している)。

閑話休題。

近代神学の祖と言われているシュライアマハーの『宗教論』第2章を分かりやすく意訳すると、「宗教は西洋哲学じゃないし!宗教は道徳じゃないし!マジで一緒にすんなし!"同じようなもの"として分類すんなし!お前ら宗教について何も知らないくせして分かったような口利くなし!」ということである。(分かる人に分かるように書くと、「宗教はヘーゲルとカントでは理解できない」ということ)。

さて、すごく初歩的なことから話を始めよう。

「あなたは道徳的な人(モラルマン)ですね」と言われたとして、それはいったい何のことだろうか。モラルがあるというのは、どういうことなのだろうか。この世にある全てのモラルというものを、同時に満たすことは可能だろうか。席を譲ることが道徳的かと思いきや、席を譲って怒られた経験がある。それが西武線だったときには、「ぜんぶ、西武線のせいだ」と西武線の広告を真似して憤慨してやりたくモ、ラル。(も、なる)

当たり前のことだが、私たちは「道徳的になることもあれば、非道徳的(インモラル)になることもある存在」である。何も不思議なことはない。だから、道徳というのは、相手によるというか、状況によるというか、大雑把にいって「自分ではないものに依存している」といえるだろう。

神。

コイツについて、ずっと疑問だったことがある。会ったことはないが、幼いころから噂にはとんでもねえやつだと聞いているし、隣の家の創価学会のオバちゃんに相談したら「私はあまり信じてないし、そんなことはいいから写経をしよう」と勧誘されたりもしたし、聖教新聞の最新号をくれたりもした。聖教新聞は学会の話ばかりに紙面が割かれており、そのおかげで社会紙面はコンパクトにまとまっていた。これは切り抜いて生徒に読ませてみよう…などと思ったが、親御さんに知れては大変だと思い断念した。さらに話を聞くと、この地区の幹部らしい。見た目はただのGLAY好きの普通のオバちゃんなのだが。夏はたまにパピコをくれる。ぼくの創価学会経験は、宗教家によくいそうな人当たりのいいオバちゃんだった。

いや、そんなことはどうでもいい。

神って、なんなんだ。

いやいや、そんなこともどうでもいい。

肝心なのは、神ってやつは超すげくて超越的な存在者なのに、なんでどうして、人間なんかにそんなに関わってくれるんだ、ということである。

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされた*1のである。
*1:本来は「看病された」「手当てされた」と訳すべきところだが、「精神面に重点を置くべきだ」という本田哲郎の指摘と訳に従う。
ペトロ第1の手紙2:24より / 注釈:らららぎ)

だって、頼んでもないのに「神」が痛みを負ってくれて、私たちはそれに「癒やされた」らしいんだよ。なんてすげえやつなんだ。でも、だから、なんで、そんなに関わってくれるのだろうか。20世紀を代表する神学者のカール・バルトは、神のことを「絶対他者」(der absolute Andere)とか「裂け目や痛みのない全体」(ein Ganzes ohne Risse und Schmerzen)と呼んだ。

宗教という言葉に現実味というか実体を感じている人は、「神があるから→不安を癒され、無知を解消してくれる」という順番で考えるだろう。でも、私のように、宗教を抽象的(あいまいなものとしての考え)に見る人にとっては、「不安を癒やし、無知を解消する(機能の)ために→神がある」という順番で考えるはずだ。つまり、前口上で「宗教」と言われて、すぐに「**教」だとか、「**神」だとか具体的なものが出てくる人は、「神がある→癒される」という順番で考えるし、そういうのが出てこない人にとっては、「癒やすためにある装置→神」という順番で考えるということである。

ここに重要な差があって、たとえば、「瞑想は宗教によって生まれるのか、宗教が瞑想によって生まれるのか」という重大な問いに気付くことができる。特に宗教をキリスト教とか仏教とか具体的なもので考えてしまっている人は、あまり考えたことなかったのではないか。冒頭の神学者が別のページで指摘している「諸君は宗教について何も知らないのに」という指摘は、つまるところ「普段から接してはいるけれど、何も考えていない」という手痛い指摘なのだ。

神とは何だ。宗教とは何だ。

道徳も哲学も、なぜ他者を必要とするのか。

なぜ神は人間と"そんなに"関わってくれるのか。

どうして神は「絶対他者」といえるのか。

宗教は実体なのか、装置なのか。

瞑想が先か、宗教が先か。

ここまで重大な問いをいくつか出してきたが、余計に分からなくなったように感じる。全部を細かく説明するのは、私の実力の範疇ではないので、必要なことだけを記していく。

その昔、アリストテレスは、「zoon politikon」(ぞーおん・ぽりてぃこん)という概念を創りだした。人間は政治的動物であるとか何とか、聞いたことがあるかもしれない。要するに「人間は共同体を作って、それぞれがそれぞれの目的を補う形で活動を分業している」というぐらいの意味である。自分の「外側にいる人たち」が、自分の目的を達成「させてくれる」のだ。何も自己完結しない。いつでも「外側にあるものごと」によって、自分という存在は分業されている

たとえば、病気になったことがあるだろうか。どういう気持ちだっただろうか。<自分>が苦しかっただろうし、<自分>が辛かっただろう。でも自分が苦しいだけなら、自分でどうにかすればいい。いーや、そうは行かないシステムになっている。なぜなら、病気というものに<自分の活動は奪われている>からだ。自分の外側にある病というものに<関係することによって>、「活動が奪われ、休養が与えられる」と考えることができる

たとえば、「信じる」というのは何だろうか。宗教的にも、一般的にも、信じるという行為がある。「天体が回っているのではなくて、地球が回っていると確認しました!証明も書きました!これまで何百億の人にイイネ!をしてもらえた考え方です!今日もどこかでイイネ!をしてくれている小学生がいます。あなたは"信じて"くれますか?」ということを学校やテレビでやっている。子どもたちは、十中八九、「信じてくれる」。過去、誰かが分業して調べてくれたことを「信じる」ことによって、その分業成績を「自分のものにもする」ことができる。

現在の教育は、(教育の御題で書きたかったが)、子どもたちが「よし信じよう、その分業を受け取ろう」と受け身ながらに確信するよりも早く、先生方が「ご親切にも」プリインストールよろしく組み込んでくれるようになっている。それを「サービス精神」だと勘違いしている親御さんからのニーズがさらに激しくなり、いわゆる「優しい先生」(信じてもらえるまで待つよりも早くインストールするのが特技の先生、生き残るにはそれしかない無能な先生)が一点豪華主義的に優秀だと考えられている。学校は、宗教の機能よりも"信じさせる"のが早くなってしまった。それを私は「与える教育」と密かに呼んでいる。知識の過保護なインストール。

私たちは、悔しいけれど、大人になった今でも、世界のことをほとんど知らない。全く知らないと言っても違和感ない。だから、世界中の多くで実際的にも抽象的にも「分業してくれている外部のもの」のことを信じることで、それらを追随的に得ることができた。この間までは、それが、科学だった。世界中で科学という外部存在が、私のために分業してくれていたのである。科学との関係を作って、科学と接続することによって、私たちは世界の多くを手にすることができていた。科学を「信じていた」し、たぶん今でもかなり「信じている」。科学は、この意味で宗教(信じるべき外部としての宗教)的である。(心理的に言って出来ないが)もしお気に入りの学者や人生の恩師のレビューを無視することができれば、私にとって、科学は仏教と同じであり、科学に基づくテキストは、神に基づく聖書と変わらない。性質的な特徴に限っていえば、科学の方が民主主義(客観的っぽくて、再現性に価値を置いている)と言えるぐらいだ。

宗教あるいは科学や哲学や道徳というものがあるおかげで、私たちは「誰かが何かが分業してくれないと無知になってしまって不安になるもの」から解放されている。キリスト教的に言えば、「痛みを神が負ってくれ、私たちは癒やされた」のだ。

私たちが「自分ではないものとの関係や接続」で生きている限り、あらゆるものが宗教的だし、あらゆるものが神と同じ性質を持っていることになる。無知(キエルケゴール的に言えば「無垢」)からの救済。痛みからの癒やし。これを読んでくれているあなたも、昨日入ってきたウィルスも、昼間に出会う弁当屋さんも、週末に行った道徳も、すべてが「他者」であり、「分業者」である。

私の知り合いの社長に、どんな出来事も「不況だから」で済ませる人がいる。不況教だよ。あらゆる物事の動きや原因は、「不況という分業者」によって生み出されているという考えなんだ。だから、彼は、正しく理解しているかは置いといて、不安や無知を感じることなく事業を進めている。不況教において、不況だからと考えることが「聖書の教義」であり、飲み屋でアベノミクスを愚痴ることが「聖書の実践」なのである

宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である

なるほど。宗教というものを、宗教というものにしてくれていることは、(何も考えずに)分業者を信じて受け取ることなんだ。自分ではない外部のもの(他者)に対して、絶対的に受け身であることなんだ。だから「誰が神を造ったのか」という議論は意味がないけれど、「神が関わってくれていることは何か=神が分業してくれていることは何か」と考えることは、関係性で生きている人間(つまり人間性であるところ存在)にとって、とても役に立つことなのだ。それは、もちろん、科-学-と-同-じ-程-度-に

ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー

誕生日の前日という貴重な時間を使って書いた、貴重じゃない記事でしたw)

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何もない空間 / 著者:めがね - ch10


『Less is more.』(より少ない事はより豊かな事) ミース・ファン・デル・ローエ

こんばんわ。めがねです。
chiasma:10は『私の好きな場所』との事ですが、入る前に少しだけこのミース・ファン・デル・ローエなる人物を紹介させてください。

ミス・ファン・デル・ローエとは、20世紀のモダニズム建築を代表とするドイツの建築家で、ル・コルビジェ、フランク・ロイド・ライトと共に近代建築の三大巨匠とみなされる人です。
今でこそ、当たり前になっているパーテティションで空間を人数の変動に合わせ適宜に区切るなどの方法はこの人が提唱した『内部空間を限定せず、自由に使えるようにする』というユニバーサル・スペースなるモダニズム建築の概念からきています。
上記した、『Less is more.』という標語もこのミース・ファン・デル・ローエが提唱したものです。他にも『God is in the detail.』(神は細部に宿る)なんてのもありますね。
ミースの事を語りだすと紹介するだけで記事が終わってしまうのでこの辺で割愛させて頂きます。
あくまで記事は『私の好きな場所』についてなので、前口実が長くなりましたが始めていきたいと思います。よろしくお願いします。

・何もないというのはポテンシャルに満ちている。
私がこの『好きな場所』という御題見たときに、思いついたのは先にこのお題を書かれているドーナツさんの記事のように映画館、贔屓のショップ、公園、カフェ、etcのようにすでに出来上がっている場所、つまり『現存している空間』でした。
これを御題にして記事を書くには好きな場所を一つに限定して書くのは中々難しいなと思い悩んでいた所、最近まで更地だった土地が基礎工事をやっており「あ。新しい家が建つのか」というきっかけがあり『何もない空間』が一番ワクワクして一番好きかもしれないという結論に至りました。
何故、『何もない空間』が。何も無いならなんもおもんないじゃない。と思われるかもしれませんがこれは結構皆さん見落としがちですが、結構身近に転がってると思います。
例をあげてみます。一人暮らし、もしくは自宅の増改築をするに当たって、部屋を一つ与えられるとしましょう。広さは大体8畳。長方形で西側と北側の二面彩光で、西側に扉が一つ。
たったこれだけの条件ですが、何処にベッドをおこうか、どんなマットを敷こうか、机はどうしよう、など想像力が働いてきませんか。
公園も同様なきがします。昔は遊具で遊ぶのが普通でした。
きっと今では遊具で遊ぶ人なんてほとんど居ないと思います。大人になった事によりサイズが合わないからです。
しかし、遊具で遊ぶという選択肢が無くなった事によりベンチで寝転がって星を見たり、本を読んだり、公園で語らったり、遊んでいる子供を眺めたり、ぼーっとしてみたり、と子供の頃にはやらなかったような選択肢が増えたように思います。
公園で遊具で遊ぶという選択肢がなくなり大人にとっての公園は『何もない場所』になった事で場所の持つポテンシャルが増えた訳です。
ポテンシャルという言葉は直訳すると『潜在性』というそうです。潜在とは、外から見えない状態で存在している様だとの事。
現存している空間(外)に何もないからこそなんでも頭の中で自由にその出来上がった様子を想像できるというのが私は楽しくて楽しくてしょうがないなという気持ちに改めて気づかされました。

ミースが唱える『Less is more.』とは意味合いが若干異なりますが、なんとなくこの言葉がしっくりくるなと思ったので引用してみました。
そういえば、しんがりで建築の事について触れるのは始めてです。
もっと皆さんの身近に建築ってものが感じられたらいいなと思い記事にしてみました。
拙い文章で少しでも伝わっていれば幸いです。

それではこの辺で

じゃあのん

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信仰と共同体の分離は可能か / 著者:ドーナツ - ch12

このタイトルだけ見て「?」となる方は少なくないだろう。
だが、私にとっては人生をかけても良いと思えるほどの問いなのだ。
答えを出すことはまだ出来ないが、この問いを解きほぐすことによって、私の宗教に対する考え方を多少なりとも提示できたらと思う。


日本人は無宗教とよく言われる。
確かに周囲の日本人を見る限り、明確な信仰を持った人は決して多くない。

だからそういう日本人は「宗教と距離を置いている」とでも言うのだろうか。
正直言って、それを聞くたびにイライラする。
明確な信仰を持たない日本人がどれほど信仰に出会ってきたか、また出会おうとしてきたか、が重大ではなかろうか。

信仰の姿を目の当たりにすることなく、宗教を食わず嫌いするのはあんまりではないだろうか。
いや、これは私の独りよがりな意見なのかもしれない。
でも、もしかしたら、宗教の連帯感みたいなものが人々を宗教から遠ざけているのかもしれない。

それについて書いてみよう。



私は宗教的にとても多様な環境で暮らしてきた。

幼稚園は神道系で、毎週神社でお参りしていた。
小学校は公立だったが、中学高校はミッションスクール。
現在は国公立の大学に通っているが、専攻がアラビア語なので必然的にイスラームやムスリム・ムスリマに接することが多いし、なんかよくわからないけどイスラエルとかやっちゃってるのでユダヤ教も多少は勉強せねばならない立場である。
で、実家はどうかと言うと、地元に多い宗派の仏教だ。

それぞれ宗教の礼拝の動作も何となく習ってきたし、信仰者の姿も何となく見てきたし、キリスト教・イスラームでは特に「教会」と呼ばれる場所を訪れ、信者のコミュニティーにも出会ってきた。
そういう経験を21歳までにしてきて、私なりの宗教観や信仰の有無がはっきりしていったわけだが、ひとまず私にはどうも一神教の考え方が合っているらしいので、キリスト教のどこかの教派に改宗しようと思っている(と言い始めてもうすぐ5年ほどたつが、大丈夫だろうか)。

真面目に改宗を考えるにあたってとりあえず教会へ行かねばならないわけだが、教会というものは非常に共同体意識の強い場である。
なので、根無し草で生きている(ましてやアラビア語専攻でイスラエルを研究対象にしようとしている)学生である私にとって教会は、決して入り込みやすいコミュニティーではない。
だとしても、教会の人々とは「同じ信仰を持つ者」なので何となく受け入れてはもらえるのだが……

もしかしたら、教会の「共同体」が外から見たら非常に気持ち悪いものなのかもしれないと思った。
キリスト教(←よくわかんない)を信じる人々が老若男女問わず集まって(←なんで集まってるのか理解できない)なんか礼拝してる(←何してんのか分かんないしなんか気持ち悪い)のだ。
気持ち悪くないはずがない。
私だって、キリスト教の教会を訪れると、「そんな、わざわざ自分たちの信仰を露骨に口に出して確かめ合わなくてもいいでしょうに」と思ってしまうことがあるほどだ。

信仰などという底知れないものを軸に集まった集団の連帯感。
外の者を寄せ付けない雰囲気がある。

これが「共同体」の話だ。



それでは、考察対象を個人に向けてみたらどうだろうか。
個人を見ようと思うと、必然的に信仰とはいかなるものかを考えることになる。

スピッツの名曲「空も飛べるはず」にはこんな歌詞がある。
幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて
隠したナイフが似合わない僕を おどけた歌でなぐさめた
(作詞・作曲 草野正宗)

また、これと対照的な内容の歌詞が松任谷由実の「やさしさに包まれたなら」に現れる。
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
(作詞・作曲 荒井由実)

このように、今は大人となってしまった私たちも、信仰の有無にかかわらずなんとなく神様めいたものを幼少期に思い浮かべたことがあるのではないだろうか。
神様のような、人間を超越した存在を何となく意識しながら生きること、これが私にとっての信仰である。

私がそう思うのは、ミッションスクールであった学校やお祈りをするムスリムの姿、もっともっと遡って幼稚園のときにお参りしていた神社のことを思い出してそう思っただけなのだ。
身体に染み付いてしまったし、そう思いながら生きていくのが生きて生きやすいだろうと何となく分かってしまったという、ただそれだけのことなのだ。

もちろん、信仰はそのようなことでなくたっていい。
友達は大切にするとか、ありがとうとちゃんと言うとか、そういう倫理観も信仰みたいなものではないだろうか。
信仰は別になくても生きていける。
だが、あったらあったでその人の人生を豊かにしたり円滑にしたりしてくれるものだ。




ここまで書いて、当初の「信仰と共同体の分離は可能か」というテーマに戻る。
私は(正直いろいろめんどくさいので)私自身の信仰とそれを軸にした共同体(=教会)は切り離せないかなぁという方向に向かっているが、教会でちゃんと洗礼受けなきゃいけないよな、と考えている当たりどうも完全な分離は無理であるように思えてくる。
宗教というものがここまで続いてきたのは、共同体を自らの宗教の思想を共有してきたからだ。

私がきちんと洗礼というプロセスを経てキリスト教徒になろうとしている理由は、自分自身に「キリスト教徒」というレッテルを貼ってしまうことで「一神教的な価値観を持っている人」というレッテルも貼ってしまいたいからだ。
だが、この洗礼という過程は「共同体(=キリスト教会)が信じている思想を信じますよ」と宣言してしまうことにもなるので、なかなか世間は世知辛い。
いや、それも全く間違ってはいないのだが……



グダグダ書いてしまったが、最終的に提案したいのは、「宗教の信仰としての性質と共同体としての性質を分離して考えても良いのでは?」ということである。
だらだらと○○教の教義を勉強するというのは最低限でいいです、ぜひ信仰を持つ人と出会ってみてください。



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宗教は標識だ。 / 著者:こはく - ch12

「しんがり」みたいなところでは、たまにはタブーを見ないフリしてみるのもいかがでしょうか。
chiamsa 12:「『宗教』に関するあなたの考え」前口上より
これを読んで、僕は『あること』を言う決心ができました。
僕の家は、創価学会員です。
…。
まあ、それだけなんですけど。
世間では創価学会は政治に介入してきてなんだかんだ、池田大作がなんやかんや、勧誘があーだこーだ、っていうことが声高に議論されています。
創価学会は世界の終焉をもたらすだとか(?)政治を宗教戦争に巻き込むだとか(??)言われていて、創価学会があたかも悪の根源であるかのように語られています。
が、僕個人としてはそんなことは正直言ってどうでもいい
創価学会の(僕にとっての)重要な役割、それは、家族にいつも常に感謝できる人間になることを教えてくれたこと。
ただこの一点のみが重要なのです。

僕は生まれた時から創価学会員でした。
僕が生まれる前から両親が学会員だったのですね。
そのおかげで僕は子供の頃から創価学会の会合とか中継放送みたいなものに参加して(させられて)きました。
子供には全く面白みのない、興味も沸かない話ばかりでしたが、ただひとつ、共通のメッセージがそこには散りばめられていました。
「お父さんとお母さんに感謝すること」
というメッセージです。
僕が創価学会で学んだことは、突き詰めるとこれになります。
家族を思いやること、もっと言えば、人と人のつながりを大事にすること。
これが僕がこの団体から受け取った、最大にして最高のメッセージです。

直接関係あるかどうかはわかりませんが、僕には反抗期という時期がありませんでした。
面と向かって「ありがとう」ということはなかなか出来ていませんが、すこーしずつ、行動や言葉で感謝の意を家族には示しているつもりです。
僕にとっての創価学会は、夜寝る前に家族みんなで仏壇の前で『南無妙法蓮華経』と唱える。
ただ、これだけ。
僕にとっての宗教はただ、これだけなのです。

…うーん、なんだか宗教に関してというか、僕に関してのお話になってしまいましたね。
このまま終わるとテーマを消化していることにならないので、最後にテーマである『宗教に関する僕の考え』を述べて終わりにしたいと思います。

宗教というのは、標識です。
広大な人生をという大地を歩む人が仰ぐ、標識。
人はみな幸福という目的地を目指しています。
でも、ほとんどの人はその幸せにたどり着く方法が分からない。
「こうだ!」と思って歩みを進めても、そこは理想の地ではなかったりする。
目的地は分かっていても、その目的地に行くことができない。
そんな人たちを宗教は導くものだと思うのです。
目的地を示して、方向の狂いなく人々が思う目的地に導いていく。

宗教が無数にあるのは、人の目的地が人によって異なるから。
ディズニーランドに行きたい人、ユニバーサルスタジオに行きたい人、北海道に行きたい人、沖縄に行きたい人、それぞれが同じ標識を見て目的地を目指すわけはありませんよね。
それぞれの人が求める目的地にたどり着くための適切な標識、これが宗教なのではないでしょうか。

ではでは、以上です。
ありがとうございました。
こはく

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there's nothing good, because nothing lasts / 著者:西洋中世史たん - ch1

始めまして、西洋中世史たんです。
ここではツイッターではあまり描かないの事を書いて見たいと思ってます。


さて、いきなりですが本題に参りましょう。


我々が住んでいるこの宇宙には様々な法則がありますね。

地球はほぼ同じ速さで時点したり、時間は一方向のしか進まなかったり、物体は引力を持っていたり、1+1=2だったり、、、、


長い年月をかけて人々が発見してきたこういった法則たちは、人々が、生物が、そして多分、この地球が生まれる前から、こういった法則は法則として認識されることがなくても、そうあり続けていたのかもしれません。


我々をとりまく法則たちの中で、私が気に入ってるのはthere's nothing lastsです。あらゆるものに終わりは来る。という事です。もう少し射程を広く言うと、時間は流れる。という事です。


雨降って地固まるということわざがあるように、ケンカしていても時間が解決してくれるかもしれません。人は忘れることもできます。失恋は悲しいですか?それでもいつかは忘れることができるでしょう。忘れるというのは記憶の終わりでもあるのです。


止まない雨はない。そうですね。逆に照り続ける太陽もない(かもしれない)ですね。そういったたくさんの終わりを経験しながら我々は生きているのです。


もちろん一個体としての生物の終わりもあります。我々は、我々自身の終わりをしっています。遠すぎる未来でしょうか?わかりません。それは明日かもしれないし、数十年先かもしれない。


終わりの特徴は、いつ来るかはわからない、ことでもあるかもしれませんね。


もう少し長いスパンで見ると、恐竜の時代の終わりがあったように、人間の時代の終わりもいつかくるでしょう。

そして地球の終わりもいつかは来るでしょう。


こうして終わりを思うと、それまであった時間の流れや、その中にあった出来事を善く思うようになれると、私は思います。そして終わりに向かうこれからのことも。


さて、最後に西洋中世史たんっぽい話をして終わりたいと思います。


キリスト教は、イエスから始まったと記憶している人もいるかもしれませんが、これは明確に違います。実はイエスの思想を厳格に適用するなら、キリスト教というものはできる余地がないのです。

イエスの教えは、かなりラディカルな終末論でした。神の国は近づいた、すぐにでもこの世は終わる。だからみな、神の国へ入る準備をせよ。

簡単にいうと、神の国はすぐそこで、この世はすぐに終わる。というものです。まさにすぐに終わるのだからキリスト教が生まれる余地はなく、ただ、神の国へ入るための準備(俗念をすてたり、財産をもたなかったり)をすればよいかったのです。

しかし、イエスが死んだ後も、なかなか神の国(この世の終わり)は来ません。ここでのちのキリスト者、イエスに従っていた人々は、なにを考えたのかというと、「終わりの始まりが始まった」と考えたのです。つまり、「終わり」は時間的な点ではなく、一定の幅があるのだという理論です。

だからこそ、終わりの終わりを見据えて、イエスの教えを実践するための共同体として、キリスト教文化や教会が生まれる余地が出来上がったのです。ちなみに現代は「終わりの始まり」が始まってから2014年たってしまった、ってところですね。

日本ではキリスト者は少数派ですが、このように、「終わりの終わり」を考えることは、これからの時間を善く生きることにもなるように思います。

皆さんも、身の回りの「終わり」をちょっと意識してみると、世界を見る目がかわるかもしれませんね。

Think the end that can not be avoided, and we know how the life gose on.

thx.

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ひとり暮らしに関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch5

俺は未だ、ひとり暮らしというものをしたことはありません。
何故なら、大学4年までも(そしておそらく就職浪人の来年までも!)実家暮らしをしているからです。

最大の原因は「カネ」です。
我が家はお世辞にも家計が裕福とは言えず、大学の学費も半額免除を貰っているくらいなのです。
おそらく、家計に余裕があれば、大学進学と同時にひとり暮らしを始めていたに違いないのですが。
だが、未だそれに為らざるがゆえに、とりあえず将来の自分に対して、警告がてらひとり暮らしについての思考をまとめておこうと思います。


1.十分な睡眠時間を摂る
答えは明確。十分な睡眠時間を摂らないと、寝坊して仕事や講義に遅れる可能性が高まるからです。
二度寝しない程度にスッキリと起きられる十分な睡眠時間を摂ることで、日々の生活にリズムが生まれ、堕落しにくくなると考えます。

2.栄養バランスを考えた食事を摂る
別に外食をせずに自炊しろ、という話ではありません。
日々において、たまに入る飲み会はさておき、栄養バランスは本気で重要な課題だと思っています。
俺の知り合いは、栄養を摂らなさすぎて栄養失調の診断を受けましたし、案外「ひとり暮らし」というものにおいて、誰からも干渉を受けなさすぎるために、特に趣味に偏りがちな人は食事というものを欠けさせてしまう人が多いように見えます。
栄養バランスを欠いては好きな趣味、仕事、遊びをするための身体を壊してしまいます。
ゆえに、きちんとした栄養バランスの取れた食事を摂りましょう。

3.物事の片付けは事後20分以内に
ひとり暮らしをしていると、どうにも律する人間が自分であるため、甘やかしがちになってしまいます。
皿を洗ったり、掃除をしたり、洗濯物を洗って干したりするのは、事を終わらせた20分以内にやるようにしましょう。
後回しにすることほど最悪なものはありません。後回しにすると「面倒くさい」という感情が生まれます。
こいつをどうにかするために、事後20分以内の片付けを勧めます。

4.独りにならない
独りになると精神的によろしくありません。
形式的であれど、親に定期的に連絡を取りましょう。よほど喧嘩別れしたとかでなければ、大抵の親は子どもが手から離れると心配性になります。
また、SNSが発達した時代なのですから、定期的にTwitterやFacebookで生存報告をしましょう。
真面目な話をすると、俺が大学2年の夏、ひとり暮らしだった大学の先生が、毎日更新していたSNSが1週間の音信不通の後に帰らぬ人となって発見されました。
ひとり暮らしで、しかも亡くなってしまうと自分にも、あなたの周りの人にも消えない傷を残しかねなく、悲惨です。
是非とも出来れば毎日浮上するとかすると、あなたの周りの人が安心します。また、信頼でき、しっかりしている友人には住所や連絡先を教えておきましょう。
(先述した先生は、学生や先生の周りの人たちが先生の住所を知らなかったため、住所は大学からの依頼により捜索していた警察が、唯一住所を知っていた大学からの情報提供によりと立ち会い人の学生が発見した経緯があります。もしあなたに何かがあってアクションが取れないあなたの安全を心配する人たちが、素早い対応を見込む為にも、知り合いの信頼がおけるしっかりした人を選んで教えておくのは本当に損はないはずです。以上、経験談)

5.たまには友達を家に呼んで遊ぶ
人様を家に呼ぶことで、嫌でも部屋の片付けすることができます。
(ただし見られても恥ずかしくない、という羞恥心の有る人に有効)
また、自宅の予備の鍵を持っている親御さんや親族が突然自宅に来て上がっていたとき対策にもなります。本当エロ本や薄い本が見つかると、家によっては修羅場になったり、虚無感半端なくなったりすると思う。


ひとり暮らしをしていないのに真面目に考えてみました。
これ、自分の時になったら役立つといいんだけど……( 〓ω〓 )



黒崎咲夜 / 2014.06.28

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帰り道に関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch4

こんにちは、黒崎咲夜です。
今回のお題は「好きな帰り道」ですね。

好きな帰り道、というか、思い出がある帰り道は、俺の場合、「誰かと一緒に帰る道」に思い入れがありますね。


俺は小中高大と常に自宅と学校が4km以上離れており、また自宅から友人の家までが遠すぎた所為で「誰かと帰るということ」が多くありませんでした。
それゆえに、偶然にしても示し合わせたにしても、一緒に帰ってくれる人が居る、と言うことが好きだなぁと、幸せだなぁと思うわけであります。

また、「誰かと帰る帰り道」には、誰か他人と帰っている以上、必ず別れが来ることも、なかなか胸を迫る想いがあります。
大好きな人と、友人と、明日また会える人も居れば、遠くに居てしばらくまた逢えない人もいる。
そういう「甘酸っぱい別れ」(あまりこの俺の使う言葉としては多少似つかわしくないのは許してください!)を感じることもできる「誰かと一緒に帰る道」って言うのは好きですね。

その時の別れがある以上、次に出会う時の繋がりにもなる。
今回のきあずまで、「帰り道」というものは、次の「楽しみ」への道にもなっているのかなぁと改めて思ったわけでありました。



黒崎 咲夜 / 2014.06.28

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