ネコ二匹、これが我世界である。しかもこの二匹のネコが余には多すぎるのである*1。
私、ネコ大好きなのですが、そう言うとみなさん、「ペットとして(猫可愛がりの対象として)」という固定観念も同時に鳴り響くのではないでしょうか。実はですね、「コミュニケーションのロールモデルとして」という意味合いで好きなのです。(もちろん、ネコを猫可愛がりしたい!、という気持ちもたくさん持ち合わせております)。
すなわちすなわち、私の断念したこと、それは「
ネコになること」です。
「コミュニケーションのロールモデル」というと横文字ばかりで、どこの外資系の企業だよ!、と自分ツッコミを入れたくもなりますが、きっちりと日本語に直せば、「人と交際するときに、あのやり方いいな、その考え方いいな、参考にしたいなって思えるひとつの様式(をネコに見いだしている)」ということでございます。
ネコは尻尾を振ります。ネコだって、色々なことを考えているのでしょうね。その振り方が、シチュエーションや気分、相手によって、少しずつ異なっているのです。なかでも本当に羨ましいのは、「
コミュニケーションをギリギリのところでサボらない姿勢と、それを実現可能にする尻尾の振り方」でした。
それについて手短に説明して、余談を長引かせて、終わりにしますね。
どうか、お付き合いくださいませ。
割合にせよ回数にせよ、かなり多くの場合、ネコは私のことを構ってくれません。「ネコ~!」と言い駆け寄って行っても、「ご主人、それうざいっすよ」ぐらいの眼差しを私に送っては、そそくさとその場からログアウトしてしまいます。
それでもネコも「
無視はさすがに悪いかな、呼んでもらえるのは結構嬉しいし」なんてこと思ってくれているのか、返事はしないし、見向きもしないけれど、呼び声に合わせて自分の尻尾を相づち程度に振ってくれるのです。「それ相づちのタイミングとして最悪だよ!適当に振りすぎだよ!」と思うこともありますが、とりあえず
「聞いちゃいるよー」ぐらいにほんのり優しく ー つまりギリギリで礼を欠かないレベルで ー 尻尾を振ってくれます。
これを小さいころから見てきて、いいなーいいなーって思ってきたけれど、どうすれば「ネコが尻尾を振るようにコミュニケーションする」ことができるのか分からずに、ずっと断念してきたのだと思います。
「ああ、はい、そうですか」というビジネスライクな相づち、「うん、おっけー」という既読スルーじゃないですよアピール、「さすがですね」という心も何もない褒義詞、嗚呼、なんて要らないんだろうと世界を祟ったこともあるかもしれません。大人になってからも、子供のときも、尻尾が欲しいと願っております。
哲学者の千葉雅也さんが提唱している「接続過剰」*2の問題は、
ネコの尻尾的処世術が解消してくれるように思うのです。
そこでまず言わねばならないのは、「
しっかりしすぎてはいけない」*3ということでしょう。しっかりしすぎてしまう ― 理由はさまざまでしょうけれど、好かれたいとか、信用されたいとか、そうしておけば無難だからとか、監視されているからとか、そういう教育を受けてきたから ー つまり教育の「しつけ糸」を外してもらう前に義務が終わってしまったから ー とかが思いつくあたりですね。
たとえ話ですが、近所のスーパーで100円の安っちいポップコーンを購入したときの店員さん。「いらっしゃいませ」と深々としたお辞儀、狂いのない分度器で測っているかのような美しい角度はロボットのようで、指二本で持てるほどの重量しかないポップコーンを両手で優しく持ち上げ、優雅な動作でレジの左辺へ移項しました。(移項したので私の財布にマイナスの符号をつけなくてはっ!)。
料金を嫌みのない声で読み上げ、しっかりと言い終わってからレジ袋を取り出し、私が100円を探している隙をみてはすかさず丁寧に袋へ入れるのです。丁寧さに余念も御念もなく、それはまるで意志のうえにも惨年、といったところ。言葉遊びがすぎましたが、私の汚い1000円札を喜んで受け取り、わざわざ料金と受取金額を二度見してから小計ボタンを押しました。その間にも「お客様のお金は大切に扱っておりますよ」と言わんばかりに、お札が見やすい位置に立ててあるのです。汚いのが恥ずかしいぐらいに堂々と立ててあるのです。
どんな訓練を受けてきたのか、素早く正確に4枚の100円玉と1枚の500円玉を取り出し、それとほぼ同時にセットアウトされたレシートをきれいに千切り、財布に入れやすいような乗せ方と角度で、これまた両手で差し出してくれます。私がモタついても嫌な顔せずに、「大丈夫ですか」と声かけまでしてくださった。無事にお釣りをしまうと、私がサッカー台へと動き出すベストタイミングで、「ありがとうございました、またお越しくださいね」とポジティブなトーンの声 ー まるで無垢な笑顔が大きく手を振っているかのような声 ー で、私の背中に後押しをくれます。
この一連の感情労働(接客)に対して、商品を含めて100円しか払っていない私は、とても情けなくなりました。善いのか悪いのか、私には「
丁寧すぎる」のです。喜ぶべきことかもしれませんし、店員さんは慣れきっていて何も感じていないかもしれません、が、「丁寧すぎてはいけない」と叫びたいのです。
丁寧すぎというのは、
無難のみを過剰に求めた結果です。無難は、堅牢さです。殻性といってもいいぐらいです。「重たい」殻で身を守っているのです。相手のことを神聖化(他者という場所を聖域化)するためには、
「私はあなたに攻撃意志を全く持っていませんよ」ということをオーバーアクションで示さねばならないのです。そういう時代の趨勢なのかもしれませんね。
剣道において、相手への"敬い"*4というのは「蹲踞」「帯刀」で表現されるでしょう。つまり、「これからあなたと剣を交えさせていただきます」という静かな構えと、「これより剣を一切交えません」という控えめな姿勢。これだけで充分です。
敬いの念というのは、静かでいいし、控えめでいいと思うのです。それだけあれば「乱暴ではない、攻撃ではない」ということが示せるはずなのです。
オーバーアクションというのは、自分が「軽い」ことを悟られないように「過剰に重くする」表現技法のように感じます。たとえば、「好きだ」といってバラの花束を幾つも幾つもくださる殿方。少女漫画に影響を受けすぎてしまったのか、あまりに過剰すぎて少し気色が悪いよう感じます。自分が「ペラッペラであること」を隠すために、「重たい重たい」バラの花束を"装填"するのです。
ブランド品を身につけることも似たようなところがあるでしょう。「物がいいから」というのは、私もたくさん勉強したので理解できるようになりましたが、「物がいいのは分かったが、だからなぜ身に付けるのか」ということを誰も自省しないのです。物がいいことと、何某が身に付けるべきということは、全く無関係です。「私が身につけるものは、最低限のものではならない」という過剰志向 ―
軽いことを悟られないために過剰に重いものを身にまとおうとする傾向 ― があるように感じます。
それが悪いということを申したいのではありません。そういうことに気付かないと、あらゆる生活、あらゆる思考、あらゆる関係が過剰になっていって、ついには
「修正できないほど行き過ぎてしまう」こともあるのではないか、と、警鐘をチリンチリンと鳴らしたいのです。
ゆっくりと、ネコのことを考えなおす方向に向かいたいのですが、その前に寄り道をしましょう。
われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘付けにされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰の思想をもっとも重い荷物(das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである。だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷になり、地面にと押し付けられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる。そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?
(ミラン・クンデル『存在の耐えられない軽さ』訳:千葉栄一、p.8~9より)
私はツイッターが大好きです。某掲示板で「大人たんは雑談が多い」と指摘されてしまうほど、雑談好きだし、ファボ好きです。ツイッターも某掲示板も、とても「軽い」ところが私のお気に入りです。著名人が亡くなっても、学者が搭乗している航空機が撃ち落とされても、政府の秘密文書が漏洩しても、大きめの不穏な地震があっても、そこには「日常を日常として営んでいる人たち」がありふれていて、事件や事故に対してそれぞれの感嘆詞を数回程度つぶやき、そしてまた日常に戻っていく、そういった軽さを提供し続けてくれます*5。
軽いことは「緊張感を無下とすること」かもしれません。軽さがあれば、失うものが少ないです。
「好きです」
『ごめんなさい』
「おっけー」
責任を持たないというか、
重さを無しにして生きる人は、失うものが少なく、それは充実を諦めたという意味になるかもしれませんが、生きるのが容易いでしょう。クンデルさんの問うように、「われわれはどちらを選ぶべきだろうか」と考え、選択を下さないとならなのかもしれません。
余談ばかりで申し訳ありませんが(久々にまとまった時間をいただけたのでウキウキしているのが伝わりますか!)、先日はじめてローコストキャリア(LCC)を利用しての空旅というものを経験いたしました。安いです。飛行機なので速さもあります。便もたくさんあり、押し付けがましい接客もありませんでした。「ああ、これが軽さなんだ」と実感。どこにでも行きたいという軽さへの熱望をくすぐられました。
いつでも-すぐに-安く-速くという軽さの四拍子を実現したローコストキャリアには、軽めの感動を、軽めに覚えました。
それと較べて、徒歩は、なんと重たく、地面と接しているでしょうか。でも、私、徒歩も大好きですよ。変ですね。軽いことを望みながら、重いものも好きだなんて。でも実は理解しているんです。「重さも-軽さも、自分のためにデザインできるものなら、私はなんだって好きなんだ」ってこと。格安飛行機という軽さには、「哲学書」という重さを。徒歩という重さには、「散策」や「デート」、「路上弾き語り」という軽さを。私はそうやって、自分の好きなような軽重を求めているのです。
「家族という重さ」に耐えられないのではなく、まったくデザイン不能にされること(機能不全家族)がダメなのです。不良というのは、家族の耐えられない重さに少しでも「軽重の自分なりデザイン」を求めた結果ではないでしょうか。それは家族が過剰に重さだったために、過剰な軽さを生み出してしまうかもしれません。そのどちらに耐えることが良いのか、私には分かりかねます。
ボランティアというのは、優秀な軽さかもしれませんね。就活前に「ふらっと」孤児院に通い、ようやく心を開いてもらったかというところで、「ふらっと」辞めます。それで傷を深くした子どもを見たことがありますが、ボランティアはそういうことを気にしなくていいのです。アルバイト感覚のボランティア、困るけど悪いことではないのかもしれませんね。
正社員や起業という「責任の重さ」に耐えることも、またひとつの人生の充実感でしょうか。フリーターとして生きる「軽さ」に耐えて生きることもまた、美しいかもしれません。軽いとか、重いとか、ここで論じきるにはあまりにも無頼ではありますが、どちらを選ぶのが、良いのでしょうか。
閑話休題。ネコは、軽いでしょうか、重いでしょうか。軽さに耐えて生きているでしょうか、重さに耐えて生きているでしょうか。そういう目附きで見てやると、なんとも不思議な動物だと感じられるかもしれません。
変なこと申しますが、仏陀とネコは似ているのではないかと思うのです。仏陀は「言うことがコロコロ変わる人」だと御存知でしょうか。
ある人には厳しく「重い」言葉をかければ、ある人には「軽い」言葉で諭すこともあります*6。そういう「去なし方」を人間が身につけることは可能でしょうか。私なんかが、弛みながら、ゆらぎながら、うまく前後左右のバランスをとって、静かに控えめに、他者と「やりとり」をすることができるでしょうか。
少なくとも、他者と過剰に接続したり、他者との関係を過剰に切断したり、そういう凝り固まった仕草をせずに済むのではないかと思っております。
ネコが尻尾を振るように、
キャット・スウィング的な処世を、目指したいと思います。
以上が、大人たんの、こっそり断念しながら、しぶとく目指していることでした。
ありがとうございました。
大人たん。
*1:正岡子規『
病床六尺』の冒頭からパクリました。私、ネコを二匹飼っていたのですが、ずっとずっと、憧れていたし、ずっとずっと理不尽に憎んでいたのかもしれません。
病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。
*2:「接続過剰」というのは、ソーシャルネットワークを介して、私たちが常にオンライン状態になり、いつでもどこでもつながることができて、それが逆に「相互監視」といいますか、見張り合いのようになっている現状を言います。適度に接続できればよいけれど、どうしても「常に」接続しているために、難しくなってしまっているようです。そこから「どうでもいいことさえも無視が許されない」厳しい監視管理社会ができあがろうとしております。「既読スルーすんな」(え!強制なのですか!)とか、「メール送りましたよね」(送られたものの取り扱いは、送られた時点で送られた側に責任を帰するのですか!)など、びっくりすることたくさんあるでしょう。逆に、FFが0のアカウントで延々と呟いていたり(ひきこもり)、少し機嫌を損ねるとスパブロしたり(拒絶)と、「切断過剰」の運動まで強化されてしまったように思います。
*3:千葉さんが著作のタイトルにしている『動きすぎてはいけない』のパクリです。『動きすぎてはいけない』は、千葉さんの研究しているドゥルーズさんという哲学者の台詞だそうですね。乱暴に言ってしまえば、「関係しすぎてはいけない、あらゆるものは繋がっているという前提をやめよう、何の理由もなく部分的に無関係のものだってたくさんあるんだ」ということです。
*4:「敬」の字源は、羊の角に触れそうになって反り返っている人間の姿を現しております。畏れ多いものの前で「緊迫」し、それに近づきすぎないよう回避することを「敬」と言うのですね。「うやまう」という大和言葉は、「うや」(いや)が礼儀のことを指していて、現代の中学生でも「いやなし」(無礼だ)という古語や、「うやうやしい」という畳語を知っております。とにかく「敬」というのは、攻撃すらできなくなるほど崇高なものを目の前にして緊張し、自然に正しく怖じ、ためらってはそりかえることを言うのでしょう。
*5:「ツイッター民は事件をすぐに忘れて無意味なことをつぶやき始める」という叱責をツイッターでしている方がおりましたが、おそらくそこが事件現場ではなくツイッターであることを忘れてしまったのでしょう。大変頭の良い方だったので少し残念だったのですが、確かに「軽すぎること」への警鐘を鳴らしていたのかもしれませんね。私のような重たい人間にとって、軽いツイッターはバランスを取るのによいのですが、重たいことを重たいまま肯定している(責任であることを責任のうちに肯定している)人にとっては、ツイッターは「うざい」場所なのかもしれません。
*6:『スッタニパータ』を読めば分かると思いますが、ある人には「死んだ人は生き返らない、仕方のないことなのだ。」と真実をつきつけたり、あるい人には「分かりました。あなたがいまから供え物のある家に行き、パンの胡麻を一粒もらいに行きなさい。10件まわってきたら、死人を生き返らせてあげましょう」と言います。もちろん供え物があるということは、遺族の方たちですから「死んだ夫を生き返らせるために胡麻をください」と申し出れば、それなりの世間的な説教を喰らうことでしょう。その説教を10件受けているうちに、人は生き返らない、哀しみや悼みは受苦するべきものであるということを理解できるようになるのです。言い方は裏腹ですが、伝えたいことは同じ。仏陀は、相手によって(仏教では「時機」と言います、つまり時機によって)伝え方を「やんわりと」変更し、うまくデザインし、目的だったことを達成するのです。