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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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ユーザー名と拗らせ / 著者:蛙教授 - ch3

アカウントの由来について語ろうと思う。最初、インターネット上でハンドルネーム、スクリーンネーム、ユーザー名というものを初めて使ったのは、2011年にTwitterを始めた時である。当時、何者でも無い自分、何者にもなりたくない自分は、何かいい言葉を探していた。当時は何者かとして振る舞う、何者かであるという事其れ自体に強い反発を覚えていた。其処で付けたのが『虚数』というユーザー名である。Twitter IDも虚数にちなんで、imaginary_numberにしたかったが、既に取得されていた。其処で、imaginary set of number(虚数集合)の最初の二単語を取って、imaginarysetというユーザー名を取得した。今となっては「想像上の集合」という意味となって、より透明感のある名だと気に入っている。

当時に、私は何に対して、反発心を持っていたのであろうか。当時読んでいたサルトルの言葉を引きつつ説明したい。サルトルの言葉に「実存は本質に先立つ」というものがある。人間には最初に決まった本質があり、其れが現実世界に於いて現れ出ているのではなく、<今此処>に於いて自由意志と選択権を持った存在である人間は、常に自分で選択し続け、自分を作り続けるものだ、という思想を端的に表したものである。何者かとして振る舞う、何者かとして期待される。其の何か目指すべき像があり、其の完成や適応に向かって、自分を律し、社会や周囲の人間に適応していく事が、本当に幸福なのか、倫理的なのか。そんな青臭い事について考えていた。サルトルは即自存在、対自存在、という概念も導入していた。即自存在とは、Aであり且つA以外ではあらぬところのもの。対自存在とは、Aであり且つAであらぬところのもの。具体例を出して説明したい。

簡単のに、即自存在は「物」、対自存在は「人」として説明する。Aである事以外の選択肢を持たない「物」である即自存在は、自らの意志に於いて、自分が何であるかを選択する事が出来ない。一方、自由意志を持つ存在である対自存在の「人」は、其の瞬間瞬間に自ら選び、自己を獲得していく事が出来る。サルトルは、其の事実に目を背け、自分はこう振る舞わなければならない、と考える個人の規範や社会からの圧力を、自己欺瞞、人間疎外として批判した。然し、本当に我々は選択する事が可能なのだろうか。

此の世界は物理法則に依って支配されており、我々が自由意志であると思っているものは幻想だ。そう言われた時に、どう反論すれば良いだろうか。広く認められた世界観の一つである自然科学の世界観をどう転覆させれば良いだろうか。サルトルはフッサール哲学に準拠する事で、其れを可能にした。フッサール哲学は<今此処>を特権化することで、真理に到達しようと試みた。フッサールの現象学は、其の最初のモチーフを実現する事は出来なかったが、様々な分野に応用されていった。文学、思想、哲学、看護学、社会学、等々。其の中で、特に大きな成果を見せたのがサルトル等の実存主義文学、実存主義思想である。規範、機械論、決定論と言ったもので説明され尽くす、或いは、自分の意志を奪われてしまうという恐怖、不安、反発を代弁する実存主義は、フッサールの視点を応用することで、大きな華を開かせた。自分の論を打ち立てる時に自然科学の知見を援用しないこと、<今此処>を特権化し既存の物語に収束させないこと。其の2つに依って、サルトルは自由意志について思索を深めていったのだ。

我々は、過去、現在、未来が実在していると思っている。然し、其れは本当だろうか。現象学の視点は過去と未来の実存に疑義を唱える。過去は記憶の中にしかない。過去は現在の表象に対する説明として呼び出される情報である。認識の枠組みとして過去が存在しているだけである。そして、過去の囚われて選択する事にサルトルは警鐘を鳴らす。「過去にこんな事があったから、自分はこう振る舞わなければならない。自分は何々をしなければならない」というのは、自己欺瞞であるとサルトルは言う。「今、此の瞬間にも人は選択をしているし、其の選択権は常に貴方に与えられているものだ」とも。対自存在である「人」が即自存在として振る舞う事が自己欺瞞であるのは、人間の尊厳である自由意志を自ら放棄しているからである。

さて、本稿は自分語りを目的として作成している。少し、自分語りの要素を増やそうと思う。何故、私は2011年にこんな事を考えていたのだろうか。其れは当時浪人生であった私は、何か特定の学問を「学ぶ」為に、何者かに「なる」為に、大学を目指し、進学するという風潮に嫌気が差していたからだ。興味というものは、常に移り変わる。にも関わらず、大学入学時に自分が何になりたいか、何になりたいかを決められ、其の枠組みの中で進学し、卒業し、就職し、経済力を得る事が求められる。人生設計を迫られる。私が反発心は、在学中に勉強したいことが変わった場合に他の授業を受けられないということではなく、特定の職業の社会人になるのが普通であるという風潮に対してであった。最初になりたい者があり、努力して其れになろうとする。成程、社会からすれば、合理的で有用性の高い人材を生産することが優先されるだろう。然し、私は、最初に疑問や面白いものが眼前に存在し、其れの解消と更なる刺激と情報を求めて行動する者である。学位を取ること、社会的地位が保証されること、社会に貢献すること、其れは確かに素晴らしいことであるが、第一義にすべきではない。私は、ただ、目の前の面白い事を追いかけつつ、其の面白いと思うものの規則性を発見し、更に其れをフィードバックして人生設計を立てたかったのだ。大学のカリキュラムや学問分野の一覧を渡されて、君がなりたいのは何か、などどと詰問される言われは無いのである。


さて、3年前の私の葛藤の代弁を措いて、アカウント名の話に戻ろう。より多くの人に覚えてもらいたいという理由から「動物の名前+役職」というユーザー名にしようと考えた。最初に候補に上がったのが、蛇、梟、蛙で最も身近で親しみやすい蛙にした。「世界を変える」の「変える」を捩りたかったという中二病的な発想もあったと思う。次に、インテリっぽい役職を付けたいと考え、真っ先に博士と教授が浮かんだ。然し、博士も教授も他の人と被りそうという理由で、准教授と付けることにした。修士と付けようかとも考えたが、教授、准教授、博士の中で、特にネームバリューがなく、年齢的にも修士課程に籍を置く院生に間違われる恐れがあったために、准教授に落ち着いた。蛙准教授の誕生である。

其後、ピュグレム、虚無、真理など、時々、ユーザー名を変えてはいたが、imaginarysetという名前だけは変えずに来た。imaginarysetがweb name(web上の本名)で他の名前は、web sub name(覚えて貰いやすくする為のニックネーム)という設定である。形骸化している感じは否めない。現在は、「准」がとれて、「蛙教授」というユーザー名にしている。何年も「蛙准教授」として振る舞ってきたが、蛙教授、蛙博士という名の人物は終ぞ聞かなかったからだ。名前上は昇進である。此の数年間は、昇進に値する成長を伴っているだろうか。

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ネコの尻尾の耐えられなくない軽さ / 著者:大人たん - ch2

ネコ二匹、これが我世界である。しかもこの二匹のネコが余には多すぎるのである*1。

私、ネコ大好きなのですが、そう言うとみなさん、「ペットとして(猫可愛がりの対象として)」という固定観念も同時に鳴り響くのではないでしょうか。実はですね、「コミュニケーションのロールモデルとして」という意味合いで好きなのです。(もちろん、ネコを猫可愛がりしたい!、という気持ちもたくさん持ち合わせております)。

すなわちすなわち、私の断念したこと、それは「ネコになること」です。

「コミュニケーションのロールモデル」というと横文字ばかりで、どこの外資系の企業だよ!、と自分ツッコミを入れたくもなりますが、きっちりと日本語に直せば、「人と交際するときに、あのやり方いいな、その考え方いいな、参考にしたいなって思えるひとつの様式(をネコに見いだしている)」ということでございます。

ネコは尻尾を振ります。ネコだって、色々なことを考えているのでしょうね。その振り方が、シチュエーションや気分、相手によって、少しずつ異なっているのです。なかでも本当に羨ましいのは、「コミュニケーションをギリギリのところでサボらない姿勢と、それを実現可能にする尻尾の振り方」でした。

それについて手短に説明して、余談を長引かせて、終わりにしますね。
どうか、お付き合いくださいませ。

割合にせよ回数にせよ、かなり多くの場合、ネコは私のことを構ってくれません。「ネコ~!」と言い駆け寄って行っても、「ご主人、それうざいっすよ」ぐらいの眼差しを私に送っては、そそくさとその場からログアウトしてしまいます。

それでもネコも「無視はさすがに悪いかな、呼んでもらえるのは結構嬉しいし」なんてこと思ってくれているのか、返事はしないし、見向きもしないけれど、呼び声に合わせて自分の尻尾を相づち程度に振ってくれるのです。「それ相づちのタイミングとして最悪だよ!適当に振りすぎだよ!」と思うこともありますが、とりあえず「聞いちゃいるよー」ぐらいにほんのり優しく ー つまりギリギリで礼を欠かないレベルで ー 尻尾を振ってくれます

これを小さいころから見てきて、いいなーいいなーって思ってきたけれど、どうすれば「ネコが尻尾を振るようにコミュニケーションする」ことができるのか分からずに、ずっと断念してきたのだと思います。

「ああ、はい、そうですか」というビジネスライクな相づち、「うん、おっけー」という既読スルーじゃないですよアピール、「さすがですね」という心も何もない褒義詞、嗚呼、なんて要らないんだろうと世界を祟ったこともあるかもしれません。大人になってからも、子供のときも、尻尾が欲しいと願っております。

哲学者の千葉雅也さんが提唱している「接続過剰」*2の問題は、ネコの尻尾的処世術が解消してくれるように思うのです。

そこでまず言わねばならないのは、「しっかりしすぎてはいけない」*3ということでしょう。しっかりしすぎてしまう ― 理由はさまざまでしょうけれど、好かれたいとか、信用されたいとか、そうしておけば無難だからとか、監視されているからとか、そういう教育を受けてきたから ー つまり教育の「しつけ糸」を外してもらう前に義務が終わってしまったから ー とかが思いつくあたりですね。

たとえ話ですが、近所のスーパーで100円の安っちいポップコーンを購入したときの店員さん。「いらっしゃいませ」と深々としたお辞儀、狂いのない分度器で測っているかのような美しい角度はロボットのようで、指二本で持てるほどの重量しかないポップコーンを両手で優しく持ち上げ、優雅な動作でレジの左辺へ移項しました。(移項したので私の財布にマイナスの符号をつけなくてはっ!)。

料金を嫌みのない声で読み上げ、しっかりと言い終わってからレジ袋を取り出し、私が100円を探している隙をみてはすかさず丁寧に袋へ入れるのです。丁寧さに余念も御念もなく、それはまるで意志のうえにも惨年、といったところ。言葉遊びがすぎましたが、私の汚い1000円札を喜んで受け取り、わざわざ料金と受取金額を二度見してから小計ボタンを押しました。その間にも「お客様のお金は大切に扱っておりますよ」と言わんばかりに、お札が見やすい位置に立ててあるのです。汚いのが恥ずかしいぐらいに堂々と立ててあるのです。

どんな訓練を受けてきたのか、素早く正確に4枚の100円玉と1枚の500円玉を取り出し、それとほぼ同時にセットアウトされたレシートをきれいに千切り、財布に入れやすいような乗せ方と角度で、これまた両手で差し出してくれます。私がモタついても嫌な顔せずに、「大丈夫ですか」と声かけまでしてくださった。無事にお釣りをしまうと、私がサッカー台へと動き出すベストタイミングで、「ありがとうございました、またお越しくださいね」とポジティブなトーンの声 ー まるで無垢な笑顔が大きく手を振っているかのような声 ー で、私の背中に後押しをくれます。

この一連の感情労働(接客)に対して、商品を含めて100円しか払っていない私は、とても情けなくなりました。善いのか悪いのか、私には「丁寧すぎる」のです。喜ぶべきことかもしれませんし、店員さんは慣れきっていて何も感じていないかもしれません、が、「丁寧すぎてはいけない」と叫びたいのです。

丁寧すぎというのは、無難のみを過剰に求めた結果です。無難は、堅牢さです。殻性といってもいいぐらいです。「重たい」殻で身を守っているのです。相手のことを神聖化(他者という場所を聖域化)するためには、「私はあなたに攻撃意志を全く持っていませんよ」ということをオーバーアクションで示さねばならないのです。そういう時代の趨勢なのかもしれませんね。

剣道において、相手への"敬い"*4というのは「蹲踞」「帯刀」で表現されるでしょう。つまり、「これからあなたと剣を交えさせていただきます」という静かな構えと、「これより剣を一切交えません」という控えめな姿勢。これだけで充分です。敬いの念というのは、静かでいいし、控えめでいいと思うのです。それだけあれば「乱暴ではない、攻撃ではない」ということが示せるはずなのです。

オーバーアクションというのは、自分が「軽い」ことを悟られないように「過剰に重くする」表現技法のように感じます。たとえば、「好きだ」といってバラの花束を幾つも幾つもくださる殿方。少女漫画に影響を受けすぎてしまったのか、あまりに過剰すぎて少し気色が悪いよう感じます。自分が「ペラッペラであること」を隠すために、「重たい重たい」バラの花束を"装填"するのです。

ブランド品を身につけることも似たようなところがあるでしょう。「物がいいから」というのは、私もたくさん勉強したので理解できるようになりましたが、「物がいいのは分かったが、だからなぜ身に付けるのか」ということを誰も自省しないのです。物がいいことと、何某が身に付けるべきということは、全く無関係です。「私が身につけるものは、最低限のものではならない」という過剰志向 ― 軽いことを悟られないために過剰に重いものを身にまとおうとする傾向 ― があるように感じます。

それが悪いということを申したいのではありません。そういうことに気付かないと、あらゆる生活、あらゆる思考、あらゆる関係が過剰になっていって、ついには「修正できないほど行き過ぎてしまう」こともあるのではないか、と、警鐘をチリンチリンと鳴らしたいのです。

ゆっくりと、ネコのことを考えなおす方向に向かいたいのですが、その前に寄り道をしましょう。

われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘付けにされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰の思想をもっとも重い荷物(das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである。だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷になり、地面にと押し付けられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる。そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?
(ミラン・クンデル『存在の耐えられない軽さ』訳:千葉栄一、p.8~9より)

私はツイッターが大好きです。某掲示板で「大人たんは雑談が多い」と指摘されてしまうほど、雑談好きだし、ファボ好きです。ツイッターも某掲示板も、とても「軽い」ところが私のお気に入りです。著名人が亡くなっても、学者が搭乗している航空機が撃ち落とされても、政府の秘密文書が漏洩しても、大きめの不穏な地震があっても、そこには「日常を日常として営んでいる人たち」がありふれていて、事件や事故に対してそれぞれの感嘆詞を数回程度つぶやき、そしてまた日常に戻っていく、そういった軽さを提供し続けてくれます*5。

軽いことは「緊張感を無下とすること」かもしれません。軽さがあれば、失うものが少ないです。

「好きです」
『ごめんなさい』
「おっけー」

責任を持たないというか、重さを無しにして生きる人は、失うものが少なく、それは充実を諦めたという意味になるかもしれませんが、生きるのが容易いでしょう。クンデルさんの問うように、「われわれはどちらを選ぶべきだろうか」と考え、選択を下さないとならなのかもしれません。

余談ばかりで申し訳ありませんが(久々にまとまった時間をいただけたのでウキウキしているのが伝わりますか!)、先日はじめてローコストキャリア(LCC)を利用しての空旅というものを経験いたしました。安いです。飛行機なので速さもあります。便もたくさんあり、押し付けがましい接客もありませんでした。「ああ、これが軽さなんだ」と実感。どこにでも行きたいという軽さへの熱望をくすぐられました。いつでも-すぐに-安く-速くという軽さの四拍子を実現したローコストキャリアには、軽めの感動を、軽めに覚えました

それと較べて、徒歩は、なんと重たく、地面と接しているでしょうか。でも、私、徒歩も大好きですよ。変ですね。軽いことを望みながら、重いものも好きだなんて。でも実は理解しているんです。「重さも-軽さも、自分のためにデザインできるものなら、私はなんだって好きなんだ」ってこと。格安飛行機という軽さには、「哲学書」という重さを。徒歩という重さには、「散策」や「デート」、「路上弾き語り」という軽さを。私はそうやって、自分の好きなような軽重を求めているのです。

「家族という重さ」に耐えられないのではなく、まったくデザイン不能にされること(機能不全家族)がダメなのです。不良というのは、家族の耐えられない重さに少しでも「軽重の自分なりデザイン」を求めた結果ではないでしょうか。それは家族が過剰に重さだったために、過剰な軽さを生み出してしまうかもしれません。そのどちらに耐えることが良いのか、私には分かりかねます。

ボランティアというのは、優秀な軽さかもしれませんね。就活前に「ふらっと」孤児院に通い、ようやく心を開いてもらったかというところで、「ふらっと」辞めます。それで傷を深くした子どもを見たことがありますが、ボランティアはそういうことを気にしなくていいのです。アルバイト感覚のボランティア、困るけど悪いことではないのかもしれませんね。

正社員や起業という「責任の重さ」に耐えることも、またひとつの人生の充実感でしょうか。フリーターとして生きる「軽さ」に耐えて生きることもまた、美しいかもしれません。軽いとか、重いとか、ここで論じきるにはあまりにも無頼ではありますが、どちらを選ぶのが、良いのでしょうか。

閑話休題。ネコは、軽いでしょうか、重いでしょうか。軽さに耐えて生きているでしょうか、重さに耐えて生きているでしょうか。そういう目附きで見てやると、なんとも不思議な動物だと感じられるかもしれません。

変なこと申しますが、仏陀とネコは似ているのではないかと思うのです。仏陀は「言うことがコロコロ変わる人」だと御存知でしょうか。ある人には厳しく「重い」言葉をかければ、ある人には「軽い」言葉で諭すこともあります*6。そういう「去なし方」を人間が身につけることは可能でしょうか。私なんかが、弛みながら、ゆらぎながら、うまく前後左右のバランスをとって、静かに控えめに、他者と「やりとり」をすることができるでしょうか。

少なくとも、他者と過剰に接続したり、他者との関係を過剰に切断したり、そういう凝り固まった仕草をせずに済むのではないかと思っております。

ネコが尻尾を振るように、キャット・スウィング的な処世を、目指したいと思います。

以上が、大人たんの、こっそり断念しながら、しぶとく目指していることでした。




ありがとうございました。





大人たん。





*1:正岡子規『病床六尺』の冒頭からパクリました。私、ネコを二匹飼っていたのですが、ずっとずっと、憧れていたし、ずっとずっと理不尽に憎んでいたのかもしれません。
病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。

*2:「接続過剰」というのは、ソーシャルネットワークを介して、私たちが常にオンライン状態になり、いつでもどこでもつながることができて、それが逆に「相互監視」といいますか、見張り合いのようになっている現状を言います。適度に接続できればよいけれど、どうしても「常に」接続しているために、難しくなってしまっているようです。そこから「どうでもいいことさえも無視が許されない」厳しい監視管理社会ができあがろうとしております。「既読スルーすんな」(え!強制なのですか!)とか、「メール送りましたよね」(送られたものの取り扱いは、送られた時点で送られた側に責任を帰するのですか!)など、びっくりすることたくさんあるでしょう。逆に、FFが0のアカウントで延々と呟いていたり(ひきこもり)、少し機嫌を損ねるとスパブロしたり(拒絶)と、「切断過剰」の運動まで強化されてしまったように思います。

*3:千葉さんが著作のタイトルにしている『動きすぎてはいけない』のパクリです。『動きすぎてはいけない』は、千葉さんの研究しているドゥルーズさんという哲学者の台詞だそうですね。乱暴に言ってしまえば、「関係しすぎてはいけない、あらゆるものは繋がっているという前提をやめよう、何の理由もなく部分的に無関係のものだってたくさんあるんだ」ということです。

*4:「敬」の字源は、羊の角に触れそうになって反り返っている人間の姿を現しております。畏れ多いものの前で「緊迫」し、それに近づきすぎないよう回避することを「敬」と言うのですね。「うやまう」という大和言葉は、「うや」(いや)が礼儀のことを指していて、現代の中学生でも「いやなし」(無礼だ)という古語や、「うやうやしい」という畳語を知っております。とにかく「敬」というのは、攻撃すらできなくなるほど崇高なものを目の前にして緊張し、自然に正しく怖じ、ためらってはそりかえることを言うのでしょう。

*5:「ツイッター民は事件をすぐに忘れて無意味なことをつぶやき始める」という叱責をツイッターでしている方がおりましたが、おそらくそこが事件現場ではなくツイッターであることを忘れてしまったのでしょう。大変頭の良い方だったので少し残念だったのですが、確かに「軽すぎること」への警鐘を鳴らしていたのかもしれませんね。私のような重たい人間にとって、軽いツイッターはバランスを取るのによいのですが、重たいことを重たいまま肯定している(責任であることを責任のうちに肯定している)人にとっては、ツイッターは「うざい」場所なのかもしれません。

*6:『スッタニパータ』を読めば分かると思いますが、ある人には「死んだ人は生き返らない、仕方のないことなのだ。」と真実をつきつけたり、あるい人には「分かりました。あなたがいまから供え物のある家に行き、パンの胡麻を一粒もらいに行きなさい。10件まわってきたら、死人を生き返らせてあげましょう」と言います。もちろん供え物があるということは、遺族の方たちですから「死んだ夫を生き返らせるために胡麻をください」と申し出れば、それなりの世間的な説教を喰らうことでしょう。その説教を10件受けているうちに、人は生き返らない、哀しみや悼みは受苦するべきものであるということを理解できるようになるのです。言い方は裏腹ですが、伝えたいことは同じ。仏陀は、相手によって(仏教では「時機」と言います、つまり時機によって)伝え方を「やんわりと」変更し、うまくデザインし、目的だったことを達成するのです。

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端とは何か / 著者:蛙教授 - ch18

端とは何であろうか。此のテーマについて考えたことは、私の記憶している限りでは、初めてである。いや、あったかもしれないが、其の時は「端」ではなく、「極端」「最後」「終い」という言葉で表現されるものであったように感じられる。では、改めて「端」について考えてみよう。

我々が「端」という概念について考える時、其処に明確な境界を見る。最後、極端、終いという場合、其処に空間的、時間的、経過的、程度的、物語的な「境界」を想定し、其処から外れる、其処の外側に向かう、其の境界に漸近する、という意味を想起する。人間は何かを認識する際に境界というものを容易に認識する。其れは、ヒトという個体、一つ一つが、其の経験に依って、自らの神経系を発達させており、其の経験情報の共有で多く用いられるプロトコルが言葉や空間であるからだ。境界を定めるのが容易であるのは、物理空間に於いて境界を規定して、有体物を認知、理解、利用、共有する有用性が高いからである。森の中、木の上での移動の多い霊長類の末裔であるヒトは3次元空間と其の下位互換である二次元平面の認知能力を、長い進化の歴史の中で獲得してきた。空間認知は境界の認知と親和性が高い。

ユクスキュルの環世界という概念がある。環世界はドイツ語で環境世界を意味する"Umwelt"の訳語である。客体としての生物の環世界は、知覚標識と作用標識からなる。主体としての生物に関しては、更に機会操作系と言われる、知覚標識を主体的に操作する主体を想定し、追加する。知覚標識とは、何か行動を生み出す刺激であり、作用標識とは其の行動である。作用標識は知覚標識を消去する。どういうことか。

ユクスキュルは『生物から見た世界』でマダニの環世界について言及している。マダニは光覚、嗅覚、温覚の3つの知覚標識を持つ。光覚に依って灌木の茂みで構え獲物を待ち伏せる。嗅覚に依って恒温動物から放出される酪酸を感じ取り、灌木から獲物に落下にする。温覚に依って、最適な場所を探し出し、吸血する。適切な光度である場所に移動し、酪酸を感じ取れば落下し、適切な温度があれば吸血する。其の過程は、知覚標識を消去する方向に作用標識が作用するものである。

端について考える時に環世界という言葉を出したのは何故か。其れは、端というものが、其の儘、知覚標識の端的な性質を受け継いでいるものだからである。知覚標識は作用標識を誘発し、作用標識は知覚標識を消去しようとする。マダニの場合は、思考、記憶、学習という面で、ヒトより大きく劣っている為に解り難くなっているが、知覚標識と作用標識という概念は、人間の思考空間、学習空間に其の儘適用可能である。

時間という概念を導入する。時間は常に過ぎ去り、不可逆な変化を齎す。或いは不可逆な変化其れ自体が時間であるという議論も在るだろう。そういった議論や思考を可能にするのは、其れが知覚標識だからである。生物の行動の多くを知覚標識、作用標識で説明しようとする場合、常に流れる存在である時間は「時間の端」というものを想定させる知覚標識である。時間というものが実在するのであれば、時間の最初は何か、時間の最後は何かという問いを立てることが出来、其の問いに答える為に、多くの仮説、解釈、認識、概念の点検と整理が発生する。AならばBという論理展開も知覚標識と作用標識で説明可能であるし、厳密性の無い連想も知覚標識と作用標識で説明可能である。そう考えた時に、作用標識の最後の形、或いは知覚標識其れ自体が「端」ということが出来る。

ヒトが思考空間、学習空間に於いて、何かを認識する境界、終端を表す機能としての「端」は、ヒトの認識に存在する普遍的な機能なのである。





(編集・校閲責任らららぎ)

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快楽としての宗教 / 著者:蛙教授 - ch12

宗教とは認識である。認識とは何に依って規定されているものであろうか。我々は神が存在するという時、其れが虚構であるか、現実であるかという視点で其の意見を見る。正しい認識、正しくない認識の2つが存在しており、どちらか片方に属するという発想だ。其れは主観と客観という文脈で良く論じられる。経験に依存する主観的な認識は、正確な思考と正しい知覚に依って、其の認識の正確さ、正しさを獲得しておき、最後には客観的に正しいと言われる認識、即ち、真理に到達するという図式だ。然し、盲目的に客観世界が存在していると仮定する事に誤謬が挟まれないだろうか。其の疑問を下に、思索を始めた人間が居た。フッサールである。フッサールは伝統的な主観=客観図式ではなく、可疑性=不可疑性という図式で思索を試みた。どういうことか。

フッサールは客観世界が存在するという命題を盲目的に真であるとして議論を始める伝統的な認識論を排し、疑えないものをベースに正しい認識に立とうとした。フッサールは正しい認識に到達する上で、其の基礎付け足りうるものを2つ導入した。知覚直感と本質直感の2つである。知覚直感とは<今此処>に於ける知覚情報を指し、本質直感は、言わば、正しさを担保する為の超越項である。フッサールの構想はどんなものであろうか。


先ず、知覚直感について言及する。フッサールは可疑性が含まれる認識に、様々なものを上げた。慣習に依って規定された迷信、再現性を其の基礎付けとする自然科学、個人の経験に依って得られた知見。然し、様々なものを上げた所で、一つの絶望的な壁が存在する。今現在の認識全てが夢である場合が其れだ。此の文章を書いている私は、友人宅の布団の上で、MacBook Airを開き、其れが夢ではない、現実の正しいものとして認識している。然し、此れが夢ではないと証明する事は不可能である。早くも正しい認識への探求は絶望的となったが、フッサールの哲学では、其れは絶望ではなく、思索の出発点である。真偽値が定まらない認識が存在しているのならば、其の命題に準拠せずに、其の命題の真偽値をエポケー、即ち括弧入れすることで、議論を始める。そうすることで、今現在の認識が夢である場合、現実である場合の2つの可能性について、両方考える事で、全ての場合について考察が可能となる。其の上で、現在の認識が夢である場合という、証明も反証も不可能である場合についてではなく、現在の認識が正しい場合について議論を深めていきたい。

では、其の前提の中で過去、現在、未来の中で不可疑性を持つのは何であろうか。其れは現在のみである。過去に関しては、伝聞や記憶違いに依って可疑性を呼びこむし、未来に関しては起こっていない事について確認しようがない。1分後に宇宙が消えてなくなっている可能性を反証することは原理的に不可能である。加えて、<此処>の特権化を何故行われるのか。其れは、自分の知覚出来る範囲を超え出たものは、伝聞を含むという意味で、可疑性が含まれる。以上から<今此処>が不可疑性を持つという意味で、特権化され、議論の基礎付けに用いられる。


知覚直感だけで、正しい認識に到達出来るだろうか。答えは否。純粋に生物学的な刺激だけでは、其れは認識とは言えない。複数の情報を下に、意味や解釈と言われるものを紡いだ時に初めて其れは認識と言われる。フッサールの用語で言うところのノエマである。意味を齎す真理作用であるノエシスに依って規定された意味や解釈をノエマという。目の前のMacBook Airを知覚した時に、MacBook Airの視覚的情報、重みという触覚的情報を統合したものとしてMacBook Airが認識される。統合に当たって、MacBook AirとMacBook Airではない存在(ズボンを構成する布、身体にあたる扇風機の風、視界に入る友人の顔)が明確に分離する。こうして、MacBook Airというものは輪郭を得て、其の境界を規定する。情報を統合する時に、<今此処>だけを特権すると、どんな不具合が存在するだろうか。

私は、ほんの数時間前までまどか☆マギカのBGMを聴いていた。音楽を認識する時、<今此処>に依る情報だけで理解出来るだろうか。絵画が空間の芸術なら、音楽は時間の芸術だと言われる。其れは時間経過に依ってのみ、其の鑑賞を可能にするからである。では、今此処を特権化すれば音楽を認識することが不可能になってしまう。抑、MacBook Airや扇風機の風を認識するのにも、必ず時間経過を含んでしまう。其の意味で、連綿と続く<今此処>に依って得られた知覚情報を「正しく」認識するための超越項の導入が必須となった。本質直感である。


本質直感の導入は、盲目的に正しいとすれば、其れは前述の盲目的に客観世界の実在を真とする議論と同レベルではないか。此処で、フッサールが正しい認識を希求したインセンティブについて考えたい。フッサールは哲学を始める前は幾何学を好む数学徒であった。数学には、最初に公理を選択すると、其処から、ある命題の真偽値が真であると一意に決定可能であるという、認識論について思索する合理主義者にとっては、希望となる理論体系を有す。フッサールは、数学と同じく、絶対に正しいものから議論を出発すれば、数学以外の領分、所謂「現実」と言われる領分に於いても、正しいと言える理論の構築が可能ではないかと考えた。

此処で認識論の文脈で語られる合理主義、経験主義という言葉について整理しておきたい。此処で言う合理主義とは、最終的に人間は真理に到達出来る存在であるという立場。経験主義とは、どんな認識も人間の生物学的に規定された、自己の経験に依存するという立場。両者は真理に対して、楽観と悲観という文脈で語られる事が多い。フッサールのアプローチは慎重で、経験主義的であるのにも関わらず、最終的に求めているものは合理主義者の其れである。構想の最初の段階で、強烈な価値判断が存在する。


此処に来て、認識は其の個人がどんなものに「快楽」を感じるか、という論点に変わる。認識論という分野が生まれ、多くの人間が其の分野で思索を重ねてきた。そして様々な意見の対立が生まれた。其の人にとって何が大切か、何に価値を置くか、どんな価値判断をするかに、認識が規定される。物理法則を初めとした自然界の法則を利用しようすれば、科学理論を援用した科学技術という営みとなり、正しさを希求すれば真理が存在するものとして思索を始める。其れ等の価値判断、目的の設定は、広義の「快楽」であり、其の文脈に於いて、人間の行動の一切は「快楽」で説明される。無論、此の議論は横暴であり、人間の行動、思考、全てを「快楽」として説明するのは、行動と思考の力動因が「快楽」である以上の情報を齎しておらず、トートロジーである。其の認識を前提とした上で、我々が科学、真理、宗教、迷信と言ってるものは全て「快楽」に依って規定された、同等に相対的なものである、という認識に到達する。

此処で、本稿の本題である「宗教について」に立ち戻りたい。宗教とは「快楽」である。宗教だけではない。人間の営み全てが「快楽」に依って説明可能であるし、其の意味で、全てが相対化される。では、そう考えた時に宗教と宗教ではないものを峻別するのはなんであろうか。科学と宗教の峻別であれば、科学は再現性や統計的有意や反証可能性と言われるプロトコルに依って基づいた体系であり、宗教には、(少なくとも宗教全般という括りでは)共通のプロトコルが存在していない。宗教の定義自体が曖昧で、共通の認識が無いのが現状だ。であるならば、俗に言われるAppleも宗教であり、私は其処に入信しているアップル信者である。業務でWindowsを使っているが、使用する度に精神的にダメージを受け、早くMacを使いたいと思う自分がいる。精神的にダメージを受けるという事は、紛うことなき「快楽」の問題である。正義ではなく、気持ちよさ、快適さこそが宗教を規定する。

さて、此処まで読んで、納得して頂けただろうか。何やら、論理の飛躍や、煮え切らないものを、本稿から感じられるのではないだろうか。其処に関しては筆者である私も同意見である。友人宅に来たついでに、勢いに任せて文章を書いてみて、「其れは本当だろうか」「此の議論は雑すぎないか」「特に有用性のある議論ではないのでは」という感覚を持つことが非常に多かった。実際に文章にしてみて、こう考えれば綺麗な解釈、綺麗な説明になるのでは、と着想の種となる考えも少々浮かんだ。次、此処に投稿する機会があれば、其れ等がどんな芽をだし、幹が太くなり、大木となっていくか、楽しみである。





(編集・校閲責任らららぎ)

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ケーキはおいしい / 著者:西洋中世史たん - ch15

タケノコかキノコかで迷うなら、ケーキを食べればいいじゃない。


けーきですよみなさん。ケーキです。


ちょこれーとけーきにするのです。

ケーキがおいしいのでう。

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西欧のつもりだったのは内緒の話 / 著者:西洋中世史たん - ch3

今回はアカウントのゆらいだそうで・・・


アカウント名はそのままですね。はい。


ではなんでこのアカウントを始めたのでしょうか。

なんででしょう・・・


まあでも、西洋中世史というややニッチな学問分野をもう少し世の中に知らしめようと思ったのかもしれません。(そんな壮大な思いなんてなかったかもしれません)

すくなくとも、ただたんに知識だけを発信するものではないことを意図していたんですよ?
最近ではちょっとあれだけどね|:3ミ


ところで、このアカウント、最初は西ヨーロッパだけを想定していたんですよ。もう気づいてる方も多いかもしれないですけど、さらにそのなかのイギリスフランス独逸を中心に考えていたんですね。


でもよくみたら「西洋」中世史になってるじゃないですか。。。。フエェ


Askとかリプでみょうに東欧とか、北欧の話がくるなぁ。。。って思ってたらそういうことだったんですね。。。


頑張って勉強します(フヘヘ

これからはもう少し史学の意義とか、考え方とか、そういったことも含めてツイートできたらいいなあと思いまうす。

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生は死を召し捕るが、死もまた生を召し捕る / 著者:大人たん - ch14

「阿吽」(a-hum) ― 見慣れない字面。サンスクリット語の字母表の「初めの文字」(a)と「終りの文字」(hum)に漢字をあてているらしく、それを「阿吽の呼吸」とすると、最初と最後が合致する(吐くことと吸うことが対立せずに一致する瞬間)という意味らしく、なるほど、インドの宇宙的な思想が根付いている言葉なのですね。

呼吸することは、息をすること。それは歩くことと同じように、誰に命令されることなく、産まれてからずっと独りで行為してきたことです。呼吸を意識することは、パーリ語で「安那般那念」(アーナーパーナ・サティ)と呼ばれていて、禅では「数息観」(すそくかん)と言います。息は「吐いて吸う」という循環(呼吸)をもって、"1回"、とカウントするのです。呼気と吸気はふたつでひとつ。どちらかだけでは成立しないものです。

呼吸をカウントして、呼吸を意識すること。
なんの必要があるのでしょうか。

5月に東京大学で釈徹宗先生の『現代社会を生きる力としての仏教』を受講し、そこでも「数息法」の話が出てきたと思います。大事なポイントは、「現代社会を生きる」という文脈で「息数法」が紹介されたことです。

数多くの人が「息はただすればいい、わざわざ数息する必要などない」という意見に賛成するでしょう。同じような主張をどこまで受容し、どこまで賛同するでしょうか。

「食事はただすればいい、わざわざ美食する必要などない」(食べることを意識しなくていい)
「歩行はただすればいい、わざわざ健歩する必要などない」(歩くことを意識しなくていい)
「生活はただすればいい、わざわざ命数する必要などない」(生きることを意識しなくていい)

19世紀後半のイギリス、「アメニティ」という概念が都市環境論のなかで登場するようになり、あらゆるものが親切に配置されるようになりました。つまり、「ただやることが、ただやるために」順序良く並べられ、「ただ~するだけ」というロボットのような生き方に近づいてきたところです。

こんな時代だから、息を数えよう」と主張する釈先生。ロボットのように息をするのではなく、ロボットのように食べるのではなく、ロボットのように歩くのではなく、ロボットのように稼働するのではなく、それらのライフスタイル(お決まりルーティン)をわざわざ見直すことで、人間を生き直すことができるでしょう。ちょっとふざけて言えば、「息」を意識することで、「生き」を意識することができるのかもしれませんね。

仏教と出会って以来、私は息を数えるようになり、人生を数えるようになりました。だから私は息を数えてきたし、人生を数えてきたと申したいのです。そんな大げさなことではないのかもしれませんが、自分の中ではそういう認識でやってきました。これは、少しだけ、誇りです。

モンテーニュさんは『随想録』のなかで「われわれは死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱している。生はわれわれを憂鬱にし、死はわれわれを恐怖させる。われわれが備えるのは死に対してではない。それはあまりにもあっけない事柄である。…本当を言えば、われわれは死の準備に対して備えるのである」と言いました。つまり、死の心配をして生を狂わしてしまうことに対して備えなければならないのです。

・「振り子」 - アニメーション:鉄拳 / 楽曲:Muse

この男性は「数えてこなかった人」かもしれませんね。何一つ数えてこなかったことに対する悔みが、振り子を止めようという暴挙を促しているように思えます。「死であること」を目の前にして、「生であったことの全て」が召し捕られそうになるのです。「当たり前に思って数えない」というのは、ロボット化のことであり、日常が死ぬこと(日常性が亡くなること)すら召し捕られて、気付けなくなることなのかもしれませんね。(この辺りのことは次の記事で書けたら嬉しいです)。

・"walking tour" - フラッシュ:佐原正規 / 楽曲:黒石ひとみ

私たちは、私たちの人生を見守りません。見つめ直すこともめったにありません。建て直すことも珍しいです。「自分の人生と向き合う」という言葉ばかりが消費されており、「自分の人生と向き合うということはどういうことをするのか」ということが、あまり考えぬかれていないようにも思えます。

向き合うといっても、自分の人生と決闘するわけでも、パネリングするわけでもありません。大事なのは「見守ること」です。自分に対して、「そういう風に生きていくんだね」「いいんじゃないかな、そっちに行きたいんだろう」「どっちに行ったって、私は私の味方だよ」「でも行くからには私を納得させてよね」「しっかりねという一連の言葉を"ひとつひとつ"しっかりと添えること、対面して渡すこと、それが大事なことなんだと思います。そして、自分を見守るためには、「見守られた経験」を思い出すことが大切かもしれませんね。

この"walking tour"を初めて見たとき、私は、「そうだ、私は見守られていたんだ、後見されていたんだ」ということを思い出しました。親だったり、姉弟だったり、親戚だったり、先生だったり(実は親よりも先生の方が見守ってくれてた!?)、道場の恩師だったり、所属していたスポーツチームの監督やコーチ陣だったり、付き合っていた恋人だったり、数々の後見人が私のことを後見してきてくれたことを、思い出しました。

生活の忙しさや忙しなさに溺れると、自分だけで生きているように思えてくるけれど、たくさんの人に土台を支えてもらい、たくさんの人に背中を任せながら、たくさんの人に勢いづけられてきたのだということを、改めて認識することができました。振り子の男性は、それに、最後に気付いたのかもしれませんね。

それを、私は、いま、数える必要があるでしょう。

いつのときの、誰の、どんな言葉に助けられ、
私を支えているものの「ひとつひとつ」「一個一個」は何であったか。

今からでも数え直したい、のです。

かつてフーコーさんが言ったように、「自分とは何者か」というアイデンティティの問題ばかりを気にしてはいけないのです。それも大事なことだけれど、「自分は何者かは分からないけれど、少なくともいま私がここにいるのは、誰に、何に、支えられてきたのだろうか」と問うことを省いてはいけないのではないかと思うのです。そこをサボらず、しっかりと、数えたいと思います。

そう思うようになってから、まだ数年しか経っておりませんが、改めてこの記事で決心させていただきました。この機会を与えていただき、ありがとうございます。素敵なきあずまだと思いますよ。それでは。



大人たん。

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